月見堂

謡蹟めぐり  木賊 とくさ

ストーリー

都の僧、今一度父に対面したいという少年を連れ、父のいる故郷信濃の国へ下り、園原山に着いた。折しも、老人と里人の木賊刈に会い、老人から園原山の木賊は、名所といい、名草といい、歌人にもてはやされていることを聞き、老人が伏屋の森、箒木を教えるのでなお「園原や伏屋に生うる箒木のありとは見えてあわぬ君かな」という古歌を思い出して問うと、老人は歌の心を物語り、箒木のありとは見えて、見えなくなる実景を教える。
やがて老人は僧を我が家へ案内する。老人は一子をかどわかされ、このように旅舎を営み、行方を探していると身の上を語る。夜も更けて寒くなったので、老人は僧に酒をすすめ、自らも飲み、立って舞いながら、ひたすら我が子を恋うる切々の情をうったえていたが、ついに物狂おしい風情となった。少年は、一子松若よと名乗り、再会を喜びあい、その後我が家を仏法流布の寺としたのである。(宝生流旅の友より)

園原の里 長野県阿智村園原  (平9・12記)

長野県も岐阜県との県境に近い中央自動車道の恵那山トンネルの上あたりが、本曲の舞台、園原の里である。今は鄙びた山里で訪ねるのも容易ではないが、往時は都から東国へ向かう街道として東山道が通り、交通の要路だったようである。
東山道とは古代の律令による官道七道のうちの一つで、近江国を起点とし、美濃国、この地神坂峠や園原の里を通り、信濃国、上野国、下野国を経て陸奥国に通じていたとされる。
しかし江戸時代に入り、この地の近くに中山道(中仙道)が整備されるに及んで、東山道は次第に埋もれた存在になってしまったが、往時を偲ばせる碑が沢山残されている。

月見堂(広拯院)付近

伝教大師最澄が東国巡教の旅の途中、この恵那山神坂峠越え伊那谷に入られた時、神坂越えが非常に困難で、旅行く人々の苦しむ樣子を見て峠の東西に布施屋を作って湯茶を出したり、宿を貸したりして、旅行者の便宜をはかってくれた。峠の東側園原には広拯院と名づけ、ここがその跡といわれる。また、ここより眺める月が格別美しいので、月見堂と呼ばれるようになったという。

月見堂 月見堂 長野県阿智村 (平7.10)

広拯院 広拯院 阿智村 (平7.10)

近くには曲の名でもある「木賊」が茂っており、「木賊の碑」も建てられている。
「父にはぐれたおさなご若松は、父を捜したい一念で都の僧に拾われこの園原の里まで来た時、木賊を刈っている老翁に会った。老翁はこの二人を私宅に泊めて、子を失った悲しい想いを話したところ、その子が若松とわかり父子再会の喜びを物語りにしたのが「謡曲木賊」である。
   中国残留日本人孤児肉親捜し・・の祖   夜鳥山主慈昭書
           一九八七年初夏 在中国の孤児に想いを寄せ  」
と刻まれており、中国残留の日本人孤児が「木賊」の父子のように肉親と再会出来ることを願って建てられたようで、心温まる思いがした。
また、曲中に謡う「園原や伏屋に生ふる帚木の ありとは見えてあはぬ君かな」の歌碑もあり、本曲には直接関係ないが、「伝教大師御通過の跡碑」「慈覚大師御通過史蹟の碑」「坂上田村麿通過の史跡碑」(「田村」参照)など往時東西交通の要衝だったことを物語る碑が沢山立ち並んでいる。

木賊の碑 木賊の碑 (平7.10)

園原の碑 園原の碑 (平7.10)

神坂神社付近

月見堂から神坂神社に向かうと途中、帚木の標識がある。しかし険しい山道500メートルとのこと残念ながら断念した。樹齢千数百年の名木だが伊勢湾台風で倒れ枯死した由である。
神坂神社の境内には「日本杉」「吾妻の碑」「日本武尊腰掛石」などがあるが、日本武尊関係として「草薙」の項で紹介した。
本曲関係のものとしては「園原碑」があるが、細かい字でびっしりと書かれてあるが、判読できないので内容は省略させていただく。

神坂神社 神坂神社 長野県阿智村 (平7.10)

興味をひかれたのは二つある「万葉の歌碑」である。双方とも漢字ばかりだが、幸い解説があったので紹介する。一つは夫を思う妻の心、もう一つは防人として九州北辺に向かう若者の気持ちを詠んだ歌である。

「 万葉集東歌 巻14-3399
    信濃道しなのじは今の墾(は)り道刈りばねに
               足ふましむな沓(くつ)はけわが背
大意 信濃路は今出来た道です 木の切り株で足にけがをなさいますな 沓をはきなさい あなた 」

「 万葉集防人歌碑
この歌は万葉集巻20にあり、天平勝宝7年(755)九州北辺を警備する防人として徴発された信濃国の若者が、御坂峠を越えて行く時に詠じたものである。
   ちはやふる神の御坂に弊(ぬさ)まつり 斎(いは)ふ命は母父がため
                     主帳埴科郡神人部子忍男
歌の大意は、荒ぶる神の領域である神坂峠に「ぬさ」を手向けて我が身の安全と無事帰還をつつしみ祈るのは、故郷に待っている父母のためである。というもので、神坂峠からは峠神に捧げられた「ぬさ」の原型である玉、鏡、剣の石製模造品千四百余点も出土し、この歌の実態が明らかになった。 」

園原碑2 園原の碑 (平7.10)

万葉碑1 万葉の歌碑 (平7.10)

万葉碑2 万葉の歌碑 (平7.10)

現在では殆ど訪ねる人もないこの山奥に沢山の碑が残されているのは驚きであった。そして、それぞれの碑に託された古人に思いを馳せていると、いつしか自分も千数百年も前の神坂峠に立っているような気分になってくる。既に紅葉が始まり落葉の敷きつめた山道を、かさこそと音をさせながら日本武尊や田村麿呂や伝教大師や防人たちが通って行く。木賊を刈る老翁の所へ僧と幼い子が訪ねてくる。名月を見ながら詞を交わすうち、老翁は昔我が子はこのように舞ったと云いながら舞を舞う・・・・・・


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