昭和19年、19歳の当時、私は逓信省の学校、逓信官吏練習所の2年生として、東京の芝、増上寺の近くの学校に通っていた。戦局は日増しに悪化し私たちも先輩たちの後を追って軍隊に行かなければならないと覚悟していた。当時の日記が残っていたので抜粋してみる。
昭和19年1月14日
先生から陸軍の幹部候補生の制度を聞く。入営して4ケ月で検定、予備士官学校を経て予備少尉に任官できるとのこと。
4月19日
当所本科卒業の者は海軍予備学生志願の資格ある旨の掲示あり。出願締切は明日とのこと。
4月20日
海軍予備学生志願を決意。海軍省人事局へ行き志願書をもらい手続きを聞く。志願書を書き戸籍抄本、卒業見込証明書を添付して教務課に提出、本日中に海軍省に届けてくれるとのこと。
5月23日
陸軍の特別甲種幹部候補生の受験願書を配属将校よりいただく。予備学生と両方受験してみるつもり。
5月27日
予備学生の受験通知来着。
学科試験 日時 6月4日 場所 海軍経理学校
身体検査、口頭試問 日時 6月8日 場所 帝國大学
6月4日
海軍予備学生筆答試験 海軍経理学校 数学と国語 比較的易しい問題。
6月8日
海軍予備学生身体検査、口頭試問 場所 帝國大学
身長 156.8 体重 50 胸囲 80.2 視力 右1.5 左1.0 判定B
口頭試問 「国体の精華とは」「生産増強が叫ばれているが、最も増産を必要とす
るもの二つ」等
7月8〜9日
陸軍特甲幹の身体検査 場所 上智大学
8月2日
陸軍特甲幹の口頭試問 四谷第五国民学校
「父は何時死んだか」「職業は」「海軍には何年位いたか」「母は何をしているか」「弟の年は」「軍人勅諭は覚えているか」「質素の項を奉唱せよ」等々。
8月19〜20日
徴兵検査 府中町の高等農林学校 第一乙種合格
8月29日
海軍予備生徒採用の通知届く。
昭和19年9月20日14時、広島県佐伯郡大竹海兵団に入団すべし。
9月15日に卒業の予定、忙しい話だが、母の意思をたしかめ、入団する決意。
8月31日
昨日卒業試験終了、本日から東京中央電信局に応援、電信の作業に従事。
9月5日
教官の配慮で15日の卒業式まで帰郷できることとなり、新潟の郷里へ。
9月15日
逓信官吏練習所第二部行政科(電信科)卒業。東京中央電信局に配属。
9月16日
帰郷。村の人達が餞別に来てくれている。
9月17日
出発のお祝いの宴を開いていただく。小出郵便局の局長をはじめ、親戚、近所の方が集まって盛大な祝宴となった。風が強く夜中に目を覚まし、弟と共に外に出て星空を眺め、北極星の見付けかたなど話しあう。
9月18日
愈々出発当日。村の鎮守様上之山神社にて出陣祭を行って頂き、又村の人々に忙しい所又悪天候の所鎮守様まで送って頂き、感激して暫し故郷の山河を後に元気よく出発する。
十二時七分、小出発下り。見送りの人々がだんだん小さくなり、見えなくなった時はなんだか一抹の寂しさを禁じ得なかった。中村のお祖父さんと弟の澄雄君は長岡駅迄送ってくれ、林さんは川口駅迄一緒に来て下さった。又本家のミチ子さんは堀之内迄一緒に来てくれ、それでも車内は賑やかだった。長岡駅で待つこと三時間。
十五時五八分長岡発、大阪行きに乗って、お祖父さんや弟と別れて出発した。宮内駅で丁度林さんが下り列車に乗ってくるのをみつけることが出来てうれしかった。双方の列車が動き出して窓から首を出し帽子を振っている中にだんだん遠ざかってしまった光景は忘れ得ぬものの一つであらう。
鯨波海岸で丁度日没光景を見ることが出来た。日本海の荒波がどうどうと岸をうっているのも壮観だが、この始めて見る海洋の落日の光景には比すべくもない。西の海が真っ赤に、まるで紅を流した様になったと見るまに汽車は岩の陰に入る。そこを出ると、さっき半分ばかり沈んでいた太陽がすっかり水平線下に没して、そのあとが赤々と美しく照り輝いている。実に美しい景色だった。
9月19日
夜行のため北陸沿線の光景を見られないのは残念であった。富山、金沢、敦賀等停車したのは分るが、暗くてさっぱりだ。夜が明けたのは琵琶湖付近、眠い目でははっきりと印象に残らない。
大阪で途中下車、中之島公園まで歩き食事をする。おばあさんが作ってくれたちまきをいただく。何といふ川か知らぬが満々と水をたたえて静かに流れている。遙か彼方に大阪城が霞んでみえるのもうれしい。これだけでも水の都大阪に我が足跡を印したことになる。
十時三十五分発徳山行に乗って今西に下りつつある。須磨、明石の海岸は聞きしに優って美しい。日本海の様に波というものが一つもない。まるで青畳を敷き連ねたる如く、彼方の島々にまで続いてゐる。実に公園といわるるも無理ない。そして沢山の船舟が浮んでおり、松の木と調和を保って旅する人の目を慰めてくれる。以上姫路付近にて。
大竹駅に到着。十時半。旅館ももう閉じて開けてくれぬ。仕方ないから、駅の待合室で夜を明す覚悟である。明日は愈々入団と思うと心も一層緊張する。
9月20日
愈々入団当日。如何にも山陽らしく快よいお天気である。駅で九時頃迄官練の友達を待ったが、来ないので駅を出発、唯今大竹海兵団の前にある休憩所で休んでいる。
もう一時間余りで娑婆とも当分お別れだ。力の限り軍務に精励し、御国のため又村の人、親のため頑張ろう。入団前ここまで。
在学中の野外教練
富士の裾野 瀧河原廠舎 (昭和18.9)
(前列中央が筆者)
この頃、教練は重要な教科で、各学校には配属将校がいて軍事教練の指導に当たっていた。在学中2回、富士の裾野まで出かけて戦闘の訓練をした。
芝の本校にて (昭和19.6)
(前列左より二人目が筆者)
教練の時だけでなく、通学、授業の際も写真のようなゲートルを巻いた姿であった。
卒業後、殆どの者が陸軍、海軍に志願して国土防衛の第一線に立った。
中央区築地 勝鬨橋たもと(平14.5)
ここで海軍予備学生選抜の学科試験を受験した。(昭19.6.4)
文京区本郷(平14.11)
ここで予備学生選抜の身体検査、口頭試問を受けた。(昭19.6.8)
魚沼市青島 (平14.10)
ここで出陣祭、村人の見送りをうけ故郷に別れを告げる。(昭19.9.18)
特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−