9  戦友会 − 旅魂会



◯ 概 説


「旅魂会」とは、昭和20年2月、旅順予備学生教育部での基礎教育を課程を終えた兵科5期学生、2期予備生徒約1,200名で結成する戦友会である。

戦後第1回の会合は昭和45年5月、東京で開催されたが、私が参加したのは第2回からである。17期艇長会のように毎年の参加ではないが、それでも10数回参加している。

(資料 旅魂会参加記録)

その中で特に印象に残っているものおよび手許に残っている写真のいくつかを紹介する。

◯ 第2回旅魂会 鉾立(恒見)教官の訓話


第2回の会合は昭和46年5月東京の市ヶ谷会館で開催され約150名が出席した。会場では軍艦旗掲揚、黙祷、教官の挨拶、軍歌演習などが行なわれたが、今でも印象に残っているのは、かって旅順で教官であった鉾立(恒見)教官の訓示である。教官は前年の第1回旅魂会の時にも訓示されており、また昭和56年の会合には出席出来なかったが書簡を送ってきている。その4回分の訓話を資料として配布されたものが残っていたので、「資料 鉾立(恒見)教官の訓話」として収録した。

昭和45、46年の頃「日本のこの繁栄こそは、戦前、戦中派とも言うべき吾々、そして貴殿等自身が作り上げたんだと胸を張って叫んで然るべきである」とか、「国の危急存亡の時、その情熱を燃やすことの出来ない人間が、なんで平和の時だけに情熱を傾けられましょう」、あるいは「旅順で貴殿等に何を教えたか、その一つは海軍は学問を大事にした。その二は人間を尊重したことです。・・・部下兵隊を死地に赴かしめることの出来る指揮官を養成するための重責を感じ・・・」等の言葉を残しております。

詳しくは資料をご覧願いたい。


◯ 第12回旅魂会 昭和56年6月


この時は東京の東郷記念会館で開催された。5期および6期の予備学生、2期および3期の予備生徒の合同旅魂会なので集合写真もそれぞれのグループごとに撮影された。


第12回旅魂会 2期生徒一同  東郷記念会館 (昭和56.6)

第12回旅魂会 2期生徒一同  東郷記念会館 (昭和56.6)




◯ 第15回旅魂会 昭和59年6月


京都の仁和寺で開催された。この時は約200名が参加、諸行事、記念撮影、懇親会の後、御室会館に宿泊、翌日は嵐山美術館を見学したが、ここに零戦や潜水艦と蛟竜の模型が陳列されていたことを思い出す。この嵐山美術館も現在はなくなっているようである。


第15回旅魂会 京都 仁和寺 (昭和59.6)

第15回旅魂会 京都 仁和寺 (昭和59.6)



戦艦「大和」「潜水艦と特殊潜航艇」の模型  嵐山美術館 (昭和59.6)

戦艦「大和」「潜水艦と特殊潜航艇」の模型  嵐山美術館 (昭和59.6)
真珠湾攻撃の潜航艇もこのようにして運ばれたのであろうか。




◯ 「旅魂」〜旅順予備学生教育部、兵科五期学生・二期生徒の記録 の刊行 平成6年9月


平成6年に約600頁の「旅魂」が刊行された。これだけのものを作るには編集委員の方々の並々ならぬ苦労があったと思われるが、本当に良いものを作って下さった。座右に置いて折にふれて取り出しては当時を偲んでいる。


「旅魂」〜旅順予備学生教育部、兵科五期学生・二期生徒の記録

「旅魂」〜旅順予備学生教育部、兵科五期学生・二期生徒の記録




是非本書を入手して読んでいただきたいが、膨大な内容を目次に沿ってその片鱗だけでも紹介のこととする。

扉を開けると教育部での写真が10数葉掲げてある。そのうちの何枚かは「旅順予備学生教育部」の項に掲げたものと同じものである。

「発刊のことば」に次いで、特別寄稿として海軍大佐大井篤氏の「兵科予備学生制度誕生記」がある。私たちが志願した予備学生の制度がどのようにして生まれたかを、その当事者が語っており興味深い。

「教官寄稿」は杉野修一教育部長の「親許へ送られた書簡」のほか、8名の教官が思い出を語っている。

次の「旅順小史」は本書独特のものである。編集にあたってアンケート調査を行ない、日本の現状将来をどのように考えていたか、学生として何をなすべきと思っていたか、何故海軍を志願したか、出願・試験・採用に至る当時の模様、教科科目の中で強く印象に残っていること、特に印象に残っている行事、起床から巡検までの一日の想定、外出の思い出、5ヶ月の教育で大きく変わったか等、17項目に亘って意見を聞いている。

それを市原進が見事に整理して約120頁にまとめている。私も教育部の項で述べたようにアンケートに回答を送った一人であるが、そのうち、夜行列車で入隊の途中、大阪中之島港苑で祖母が作ってくれた粽(ちまき)を食べたこと、天文航法で星座を教えてもらったこと、生まれてはじめてのスケートのこと、二○三高地のこと、5ヶ月の訓練は私に精神革命を引き起したこと等が本書に取上げられている。

「各分隊の横顔」では1分隊から10分隊まで、各分隊1〜2名の代表が、各分隊の特色を披露している。私の第8分隊は大内宏君が武技競技で優勝したこと、辻村監事が軍歌の指導をされたこと等を紹介している。

この後は会員の寄稿に移るが、大きく分けて「入隊までの軌跡」「旅順基礎教程」「術科学校〜実施部隊」「戦後五十年回顧」「戦友追悼」「旅魂会の記録・足跡」となっており、私たちの海軍生活全般に亘って記述されているが、誰にどのようなことを書いてもらうのか大分苦労したのではないかと思われる。

「入隊までの軌跡」は9名が執筆している。朝鮮、台湾、満州から旅順に入隊しいている方が意外に多いのに驚いた。

「旅順基礎教程」では延べ40名が書いている。「特攻募集」「荒天の短艇訓練」「凛然たるリーダー教育」「酒保開ケ」等旅順での生活をさまざまの角度から取上げている。

「術科学校〜実施部隊」は82名の執筆で一番数が多い。術科学校とは大竹潜水学校、川棚魚雷艇訓練所、館山砲術学校、横須賀通信学校、海軍気象学校、海軍電測学校等でそれぞれ専門技術を学び実施部隊に配属される。大竹、川棚に行った者は、魚雷艇、震洋、回天、蛟竜、海竜といった特攻兵器の要員である。それぞれの特攻兵器での訓練の状況や、それぞれの術科学校の課程を終え全国各地の実施部隊に配属されて活躍したさまざまの思い出が語られている。

私には「四国南岸基地への出撃」について書けという話があり、本書の「小豆島における訓練」と「小勝島出撃訓練」のところで書いたことを簡潔に書いて提出したものがそのまま掲載されている。

「戦後五十年回顧」も62名の方が書いているが、題名を見ても「海軍が吃音の束縛から解放してくれた」「宗谷岬特設見張所」「何のために海軍へ」「趣味に生きよう」「あのころの小説を書きたい」等々、実に多彩の思い出が寄せられている。

「旅魂会の記録・足跡」は大川信男氏が旅魂会の結成、旅魂会の発足・第1回旅魂会、初めて関西で開催された第3回旅魂会、京都の仁和寺でご遺族を交えた法要を行なった第10回旅魂会、東郷神社での第15回旅魂会のことを詳細に報告しており、更に最後には第1回から第20回までの旅魂会の開催年月日、開催場所、参加者数を示した一覧表を添えている。


◯ 旅魂会九州成仁会の集い(佐世保市 ホテル日航ハウステンボス)参加 平成11年11月


九州成仁会から案内をいただき家内と一緒に参加した。会合の期日は平成11年11月16日、場所は佐世保市、ハウステンボス内の日航のホテル。


会場のホテル日航ハウステンボス

会場のホテル日航ハウステンボス



九州成仁会  ホテル日航ハウステンボス (平成11.11)

九州成仁会  ホテル日航ハウステンボス (平成11.11)




懇親会の後ホテルに一泊。翌日は成仁会が企画した海軍墓地参拝、九十九島めぐりを行なった。

海軍墓地では多くの軍艦の戦没者慰霊碑や墓が立ち並ぶ中に日露戦争の日本海海戦の司令長官、東郷元帥の像がひときわ目立って建っていた。

また墓地を巡っているうちに思いがけなく「海軍軍楽長正七位勲五等田中穂積之墓」を発見した。田中穂積といえば「美しき天然」の作曲者として有名な方であるが、海軍軍楽長として活躍され、私たちがよく歌った軍歌「如何に狂風」の作曲者であり、「軍艦行進曲」の原曲も彼のものと言われる。

また、遊覧船「海王」に乗船、穂積が見入ったという九十九島の美しい眺めを約1時間かけて堪能し、船から降りて観光船乗場の近くで、田中穂積の「美しき天然」の歌碑を発見した。そして岩国にも同じような歌碑があることを思い出した。

そんなこともあって田中穂積に興味を覚え、帰京してから調べたものを 「田中穂積を偲ぶ」 としてまとめてみた。


佐世保海軍墓地  東郷元帥の像 (平成11.11)

佐世保海軍墓地  東郷元帥の像 (平成11.11)



田中穂積の墓 (平成11.11)

田中穂積の墓 (平成11.11)



「美しき天然」歌碑  佐世保 (平成11.11)

「美しき天然」歌碑  佐世保 (平成11.11)



田中穂積の胸像と歌碑  岩国 (平成19.10)

田中穂積の胸像と歌碑  岩国 (平成19.10)




◯ 特攻殉国の碑 長崎県川棚町


佐世保の近くの川棚はかって私たちと同じ特攻兵器、魚雷艇の基地があった所でそこには「特攻殉国の碑」が建てられていると聞いていたので訪ねてみた。立派な碑が建っていた。碑の石は特攻兵器「震洋」活躍の地、コレヒドールと沖縄の石を併せて造ったという。一番上の石には「特攻殉国の碑」と刻まれ、中央には、この地で訓練を受け、南方などで命を落とした3,511人の名前が刻まれている。一番下にはその由来が次のように刻まれている。

「 昭和十九年 日々悪化する太平洋戦争の戦局を挽回するため日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀からこの地長崎県川棚町小串郷に移し魚雷艇隊が訓練を行なった。魚雷艇は魚雷攻撃を主とする高速艇で、ペリリュー島の攻撃硫黄島最後の撤収作戦など太平洋印度洋において活躍した。更にこの訓練所は急迫した戦局に処して全国から自ら志願して集まった数万の若人を訓練して震洋特別攻撃隊伏龍特別攻撃隊を編成し、また回天蛟竜などの特攻隊員の錬成を行なった。震洋特別攻撃隊は爆薬を装着して敵艦に体当りする木造の小型高速艇で七千隻が西太平洋全域に配備され比国コレヒドール島沖で米国艦船四隻を撃破したほか沖縄でも最も困難な状態のもとに敵の厳重なる警戒を突破して特攻攻撃を敢行した。伏龍特別攻撃隊は単身潜水し水中から攻撃する特攻隊でこの地で訓練に励んだ。

今日焦土から蘇生した日本の復興と平和の姿を見るとき、これひとえに卿等殉国の英霊の加護によるものと我等は景仰する。ここに戦跡地コレヒドールと沖縄の石を併せて、ゆかりのこの地に特攻殉国の碑を建立し遠く南海の果に若き生命を惜しみなく捧げられた卿等の崇高なる遺業をとこしえに顕彰する。

昭和四十二年五月二十七日      
有 志 一 同
元隊員 一 同   」


特攻殉国の碑 長崎県川棚町 (平成11.11)

特攻殉国の碑 長崎県川棚町 (平成11.11)




◯ 第32回旅魂会(最終回) 平成18年4月


最終の旅魂会は平成18年4月20日、21日の両日、42名の参加を得て、呉駅をスタート、海軍関係の施設(呉海軍墓地、入船山記念館、海上自衛隊呉地方総監部(旧呉鎮庁舎)、大和ミュージアム、佐久間艇長忠魂碑)を見学、森沢ホテルで懇親会、翌日は次の3コースに分かれて、海軍思い出の地を訪ねた。

Aコース: 大津島、回天記念館訪問
Bコース: 尾道向島の「大和」実物大ロケセット見学
Cコース: 海軍兵学校(現・第1術科学校、幹部候補生学校)見学

この32回旅魂会をもって最終回とし、今後は「旅魂会通信」を通じて会員の親睦をはかってゆくこととされた。最終回の模様は、大川信男氏が「旅魂会通信第1号」に詳細に報告され、報告書とともにA4版24頁に約200枚の写真集も添えられた。私も報告書作成の一端を受け持ち、各施設の資料を集め、「旅魂会 最終回資料」 としてまとめたが、これも報告書の一部として会員の皆さんに配布された。


第32回旅魂会  旧呉鎮守府庁舎前 (平成18.4)

第32回旅魂会  旧呉鎮守府庁舎前 (平成18.4)



呉海軍墓地  呉市 (平成18.4)

呉海軍墓地  呉市 (平成18.4)



大和ミュージアム  「大和」模型 (平成18.4)

大和ミュージアム  「大和」模型 (平成18.4)




◯ 旅魂会通信第5号 「会員の近況」作成 平成19年10月


旅魂会では平成19年3月末、250名の会員に対し次の6項目についてアンケート調査を実施した。

(1) 趣味
(2) 日頃の関心事
(3) 信条・モットー
(4) 特に親しい会員
(5) 旅魂会への要望
(6) その他何でも

その結果138名の回答があり、これを整理して会員に配布することとなった。高田恒行が原稿を整理し、私がパソコンで原紙を作成、坂部三四郎がコピー、大川信男が製本、発送という分担で作業した。なお、アンケート回答のほかに、大川氏作成の543名にのぼる「逝去者名簿」も添えられた。


旅魂会通信第5号 「会員の近況」

旅魂会通信第5号 「会員の近況」







はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−