海軍兵学校といえば当時若人の憧れの的であった。中学へ上がれなかった私は受験を諦めざるを得なかったが、それでも後日海軍予備生を志願、短期間ではあったが旅順において同じような教育を受けることが出来た。
昭和53年11月、戦後始めて倉橋島を訪ねたおり、江田島の旧海軍兵学校(現在の海上自衛隊幹部候補生学校)に本物の特殊潜航艇が展示されていると聞き、すぐ隣りの島なので早速訪ねてみた。真珠湾攻撃の一隻の由。戦後33年を経て、自分が乗った特殊潜航艇の実物にめぐり合った時の感激は筆舌に尽くしがたいものがあった。この感激を是非とも家族に伝えたいと思った。
昭和59年3月、私の停年記念旅行で家族一同で瀬戸内を廻る計画を立てたが、家内と長女は勤務の関係で江田島には来れなかったが、長男と一緒にここを訪ね、潜航艇の前で記念撮影。これに乗ったのはお前と年頃だったと話す。後に一句を詠む。
還ることなき艇(ふね)なりと知りつつも 訓練励む君の年頃
資料館には聯合艦隊司令長官山本五十六ほか、日本の海軍を動かしてきた人々の筆跡や、特攻隊員として散った多くの方々の遺書などが陳列されており、見る人の涙を誘っていた。
昭和60年9月、今度は四国松山で開催されるクラス会に出席の途中、妻と一緒に三度訪ねた。
四度目は平成4年9月、蛟竜艇長第17期会と戦友たちと一緒に訪ねた。
一人で訪ねる (昭和53.11)
長男と訪ねる (昭和59.3)
家内と訪ねる (昭和60.9)
戦友と訪ねる (平成4.9)
特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−