7  小豆島基地(小豆島突撃隊)



◯ 概 説


倉橋島で第17期蛟竜艇長講習員として蛟竜の機構の勉強を終えた我々約160名は、昭和20年7月1日、第一戦基地である小豆島に着任、ここでいよいよ念願の艇に搭乗、訓練を受けることとなった。小豆島は淡路島に次ぐ瀬戸内海第二に大きい島で、香川県に属する。この島に特殊潜航艇蛟竜の基地が建設されていたのである。

しかし、頼みの蛟竜が量産出来ず、当時ここには蛟竜は11隻しかなく、それぞれ先輩の艇長が決まっており、訓練専用の蛟竜もなかったため、およそ次のような三つのグループに分かれて訓練を受けることとなった。

・予備艇長として搭乗実務訓練を受ける者、約40名。
・玉野造船所に派遣され、蛟竜の艤装に従事する者、約30名。
・草壁の本部勤務で座学のほか、甲板士官、当直将校、副直将校等の勤務を分担、待機する者、約90名。また特技を有する者は施設班、漁労班等に派遣された。

私は予備艇長として搭乗実務訓練を受けることとなり、約40名の仲間とともに、古江にある丸金醤油の青年学校に居住することとなった。

当時、沖縄を完全に手中におさめた米軍の本土進攻が予想されていたが、日本海軍は大きな打撃を蒙っていた。しかし、たとえ連合艦隊が壊滅しても、われわれ特攻隊がある限り、神州は不滅であるという教官の言葉を純粋に信じて訓練に励んでいた。

そして搭乗訓練もある程度進み、四国南岸の橘湾小勝島にある出撃基地まで本番に備えて進出する訓練も終わり、いよいよ本番の出撃を待つばかりという時に終戦を迎えたため、今日まで生きながらえる羽目になった。

終戦があと少し遅れ、敵機動部隊が四国方面に近づいていたら、土佐沖で水漬く屍となっていた公算は極めて高い。その時私は20歳であった。

それから60余年を経過した現在、小豆島時代のもので、手許に残っているのは次の写真1枚だけで、当時の訓練についての記録は何も残っておらず、頭の中も当時のことは霧に包まれたようにぼやけてしまった。しかし、強烈な体験だったことは間違いない。断片的な記憶を頼りに振り返ってみることとする。

(平成5年9月、蛟竜艇長第十七期会で刊行した「貴様と俺の青春賦」に「小豆島の訓練、小勝島の記録」を投稿したので、これを抜粋補足のこととした。)


小豆島の特攻基地にて 小豆島内海町古江 (昭和20.7頃)

小豆島の特攻基地にて 小豆島内海町古江 (昭和20.7頃)
このような服装で毎日訓練に没頭していた。




◯ 小豆島における訓練


・ 宿舎 

われわれの宿舎は小豆島は内海湾の奥、古江あたりの丸金醤油の青年学校であった。映画「二十四の瞳」の分教場のある近くである。小さな建物に三、四十名程度の比較的少人数が起居していたように思う。

食事は旅順時代は腹が空いて仕方なかったが、ここでは特攻隊員ということで優遇されたせいか、質、量ともに良くなり、当時としては珍しいパイナップルの缶詰などもたまには出て、娑婆の方には申し訳ないような気持でいただいたことを思い出す。寝る時もハンモックではなくベッドだったように思う。


小豆島の地図

小豆島の地図




・ 教官 

伊熊大尉(後に訓練中目標艦で米軍機の銃撃を受け戦死)や十時大尉の名は今でも覚えている。この方たちが直接の指揮にあたっていたが、なかなかオッカナイ反面、面倒見のよいところもあって、規律のきびしい中にも和やかな雰囲気が漂っていた。

・ 基地 

潜航艇は宿舎の近く、かめや旅館裏の松林の丘を下った静かな入江に十隻程度係留されていた。

・ 4名の部下を預かる 

訓練専用の艇がないので、約十隻の先輩艇長の予備艇長として訓練を受けることとなり、それぞれ4名の予科練出身の艇付を部下として預かることとなった。私の艇付は武田実、吉田孝至、平田稔、南昭二の諸君である。今まで部下を持ったことのない私は、この若者たちの命を預かるのかと思うとその責任の重大さに身が引き締まる思いがした。

4名は艇長の私とともに、全長26メートルほどの小さな艇内にあって、「縦舵」(左右進行)、「横舵」(潜航浮上)「通信」「発電機」の作業を分担するのだ。まさに一心同体、ひとたび出撃すれば運命を共にしなければならない仲間である。

艇付の宿舎には苗羽小学校があてられており、艇の係留場所から少し離れているが、決められた日程に従って艇まで来て私と合流、ともに訓練に励んだ。

(現在、南君の消息は不明であるが、他の三名とは文通しており、特に吉田、武田の両君とは小豆島での艇長会で最近まで毎年一緒になる機会を得て旧交を温めてきた。)

・ 機動艇操縦訓練 

潜航艇を動かす前に機動艇を使った操縦訓練がある。出港、水上航行は比較的簡単だが、所定の場所にうまく艇を着けるには馴れが必要である。

基地のすぐ近くに坂手港がある。この岸壁に艇をうまく横付けにするのがこの日の訓練であった。人のやるのを見ていると簡単なようだが、自分で指揮するとなるとなかなかうまくゆかない。

「停止」「後進」の号令が遅すぎたため、岸壁にかなり強くぶつけてしまった。機動艇は頑丈に出来ているから、艇や人間に損傷はなかったが、指揮官に大声でドヤサレてしまった。

・ 目標艦に乗る 

訓練は小豆島の東南にひらけた播磨灘で行なわれることが多かった。民間から徴用された「芙蓉丸」という運送船を目標艦にして襲撃訓練が行なわれたが、一度この目標艦に乗せてもらったことがある。

名前は忘れてしまったが、われわれの仲間が艇長として実際にこの船を目がけて魚雷を発射するのである。魚雷には訓練のときは深度調節といって、かなり深い所を進むようにしてあるので、船に直接当たることはないのだが、それでも気持ちの良いものではない。

「魚雷だ」という声に指さす方を見ると白い航跡を残しながら、魚雷がまっすぐに船に向かって進んでくる。アッという間に船の底を通り抜けて遙か彼方の海上に浮き上がっている。見事な艦底通過である。実際だったら見事命中、轟沈といったところであろう。

・ 船に酔う 

何のために出航したのか、またその船が芙蓉丸だったかどうか思い出せないが、海上で大時化に遭遇したことがある。船は木の葉のように揺れて、波の上に上がった時はまるで空中に放り出されたように、周りは空ばかり。また、波の下に行く時は地獄に吸い込まれるような感じで、周りは波ばかりしか見えなくなる。

船橋にあって海図の上に船の位置や進路を記入する仕事を命ぜられていたように思うが、とても立っていることができない。船が揺れるたびに船橋の中をあっちへ転げ、こっちへ転げしているうちに、すっかり酔ってしまった。吐くものも吐きつくして、そのあとはスッパイ液が少し出るだけ。とても仕事どころではない。

しかし、そんな時でも船長や操舵手は平気な顔をして、船を操っている。たいしたものだとつくづく感心した。

自分でも艇を任されたら、とても酔っぱらっているどころではないかも知れないが、瀬戸内海でこの程度の嵐にへこたれているようでは、太平洋に出て時化を食らったらどうなるのだろう。

・ 始めて潜航艇に搭乗 

始めて潜航艇に乗って潜航した時の感激は忘れられない。もちろん指導官が付いていてくれるのだが、潜航を開始すると潜望鏡を覗かせてくれた。海面がみるみるうちに近づいてくると思ううちにスウーと水の中に入る。本当に魚が泳いでいるのが見えるのだ。

「潜望鏡降ろせ!」の号令で潜望鏡が降りる。何も見えないまま海中を進む。大丈夫なのだろうか。二、三分たつと艇を浮上させ、頃合いをみて「潜望鏡上げ!」海面から少し頭を出したところで潜望鏡を覗き、一回転させて、岬や島の角度から自分の艇の位置を確認するのだ。覗かせてもらったが、水面スレスレから見るので、船の上から見るのと大違い。これは容易なことではないと思う。

・ 敵艦を襲撃するには 

ただ水中を航行するだけでも大変なのに、われわれの任務は敵艦を攻撃撃沈させることにある。

敵の電波探知機を避けるため潜望鏡を水面上に出すのは一瞬にとどめなければならない。その一瞬のうちに
・ 自艇の位置
・ 敵艦なることの確認
・ 敵艦の進んでいる方位角
・ 敵艦の速力(艦首の波のしぶきのあがりぐあい等から判定)
・ ○分後の敵艦の推定位置
・ 敵艦に魚雷を発射するための最適位置の推定
・ そこに到達するための自艇の変針角度
・ そこに到達するための速力
を計算、「面(取)舵×度。速度××」と部下に指示しなければならないのだ。
いやはや大変なことになりそうだぞ。

・ 機雷に触れたのかも 

ある時潜航訓練中、何かに触れたような大きな音がした。幸い艇に異常はなく、基地に戻ったが、機雷に触れたのではないかという人もいて、背筋が寒くなる思いをした。

・ 沈座の思い出 

空襲が激しくなると、潜航艇も係留したままでは危ないので、敵機来襲のときは「沈座」させることとなった。空襲警報が発令されると、ソレッとばかり宿舎をとび出し、かめや旅館の下のあたりから伝馬船を漕いで潜航艇まで行き、艇の中に入るとハッチを締め、「ベント開け!」でタンクの中の空気を抜き、艇を沈下させ海底に座るような形にする。

敵機が去ると陸上の者が艇を係留してある「ブイ」をガンガンと叩く。水の中は音がよく通るから、これを聞いて「メインタンクブロー!」でタンク内に圧搾空気を注入、浮上してくるというものである。

ある時ブイの音が聞こえたと思い浮上してハッチを開いたら、丘の上の見張りの人が「まだまだ駄目だ。早く沈め!」と怒鳴っている。なるほど頭の上には敵機がブンブン飛んでいる。慌てて再度「ベント開け!」をやって海の底に潜った。

宿舎に戻ってから戦友に言われた。「あの時は本当にハラハラしたぞ」。


◯ 目標艦芙蓉丸、敵機の銃撃を受け9名戦死


7月半ば頃になると敵機の来襲も激しくなった。7月22日には目標艦として出動中の芙蓉丸に玉野方面から飛来して敵艦載機(P51)数機が突如として後方よりおそいかかった。芙蓉丸の13ミリ機銃2ただちに火を噴いて応戦したが、たちまちのうちに沈黙し、4度5度と反転しては機銃掃射をくりかえす敵機の攻撃により艦橋はじめ船体に500発を超える被弾をうけた。

この戦闘で指揮をとっていた伊熊大尉および梅津船長をはじめ、9名が戦死、10数名の負傷者を出した。私達の同期も伊藤仁三郎少尉、末竹十三雄少尉の2名が戦死、矢野統一少尉が重傷を負った。

戦死者の葬儀は近くの極楽寺で行われ、同じく同期で僧侶だった藤原達成君がお経を唱えたのを思い出す。昨日まで起居を共にした同期の仲間が戦死という現実を見て戦争を実感した。

基地近くの宮山には後日忠魂碑が建立され、戦死者の名も刻まれ、私たちも20年余に亘って慰霊の行事を行なってきた。


◯ 小勝島出撃訓練


・ 出撃基地 

小豆島はいわば訓練基地。実際の戦闘には四国は徳島県の南、橘湾の小勝島に特攻隊のための出撃基地が準備されていた。いざという時にはそこから出撃することとなる。8月になると、そこに終結するための訓練航海が実施され私もこれに参加を命ぜられた。

・ 予備艇長として同乗 

私どもは予備艇長の身分だったため、まだ自分の艇は持っておらず、どなたか名前を思いだせないが、その艇長の艇に同乗させてもらい基地に向かうこととなった。

・ 播磨灘 

小豆島の内海湾を出発、権現鼻、大角鼻を左手に見て播磨灘を一路鳴門海峡に向かう。敵機を避けるため、潜航が主であるが、時折水上航走をする。水上航走の時は発電機を回して充電するのだ。潜航のときは電池に頼るほかはないから、こまめに充電しておく必要がある。

艇の外に出るとなんと空気のうまいことよ。小型の潜航艇のため、巡航速力は7ノットくらいでたいした速度ではないのだが、吃水が浅く水面すれすれに走るので、凄く早く走っているように感じる。半長の搭乗靴をはいて、潮風やしぶきを身に浴びていると、まさに「海の男」といった感じで甚だ爽快である。

・ 潮待ち 

潮流の激しい鳴門海峡はなんといっても難所、とても潜航したままで通過するのは困難である。水上航走でしかも干満の差が最も少なくなる憩流時を選ぶため、海峡の手前で潮待ちをした。

・ 鳴門海峡 

いよいよ海峡に突入する。さすがは鳴門海峡、憩流時といっても潮の流れは早い。水上航走でも、あの小さな特殊潜航艇で渦潮に翻弄されながらの海峡通過は、やはり緊張の連続。それだけに無事通過して眼前に広く拡がる太平洋を見た時は、搭乗員一同「ヤッタ」と大喜びである。

・ 太平洋 

太平洋に出た途端、瀬戸内海とは全然違う大きな波のうねりに驚くとともに、こここそ我等の戦場、太平洋だと興奮した。

瀬戸内海では島が多いので、自分の艇の位置も比較的容易に測定できたが、太平洋に出ると見渡す限りの海で、目印になるような陸地が殆ど見当らない。

これでは天文航法(太陽、月、星などに対する角度と時刻から自艇の位置を知る方法)の勉強をやり直さなければならないぞ。

・ 水漬く屍 

敵機にでも撃たれたのであろうか、人間の死体が海上を漂流しているのを目撃した。まさしく「水漬く屍」である。明日は我が身との思いが一瞬脳裏をかすめる。

・ 小勝島 

到着した基地は島陰の大きな洞窟の中にあり、艇もそのまま入ることが出来、その奥にも壕が縦横に掘られ、大勢の兵士が起居できるようになっていた。

魚雷の装填や艇の修理等も出来るようになっているのであろう。とにかく地下にこのように規模の大きい基地が出来ているのに驚かされた。これなら少しぐらい空襲を受けても大丈夫だ。

小豆島では訓練訓練で明け暮れていたが、ここにくると訓練ではなくて、いよいよ実戰に参加するのだとの思いが実感として湧いてくる。今度来る時はここから出撃して敵の機動部隊を攻撃することになるのだ。

・ 玉野造船所で修理 

この基地にはごく短期間滞在しただけで、再び小豆島へ戻った。

間もなく、今度は訓練でなく実装の魚雷を装填して、本番の出撃をすることとなった。しかしながら、私どもの艇は故障箇所修理のため、玉野の造船所に行くこととなり、第一陣には参加できなくなってしまった。もちろん修理完了次第後を追うことは必定である。

・ 出撃 

第一陣の出撃の日は8月13日であったと思う。かめや旅館の松林の丘の上に隊員一同が集まって、一艇また一艇と、小勝島基地を目指して出撃して行くのを帽を振って見送った。
搭乗服に身を固め、白い鉢巻をした出撃艇の隊員たちの手を振っている姿が、私の脳裏に今も焼き付いている。


◯ 終戦 


終戦は玉野造船所で迎えた。そして、艇に乗って帰ったかどうか判然としないが、すぐ小豆島の宿舎に戻った。

・ 出撃した艇も戻る 

四国の前進基地に出撃した連中も、終戦となり、まもなく小豆島基地に戻ってきた。

・ 寒霞渓での痛飲 

このような形で終戦になるとは、もちろん誰も予想していなかっただけに、やりきれぬ憤懣のはけ口を求めてかなり険悪な空気が漂っていた。

上部ではこのような空気を察知したのか、隊員一同にウイスキー(サントリーの角瓶一本)を持たせて、小豆島の名峰寒霞渓に登り、徹夜で呑み明かすという措置を講じた。

寒霞渓は、車やロープウエイを使ってもかなり時間のかかる高い山である。その頂きまで一気に登って、そこで酒盛りを始めた。

それまで殆ど酒など呑んだことのない私に戦友は無理やり口を開けて、ウイスキーを流し込む。こちらもなかば自暴自棄になっているので、どうにでもなれという気持で後のことも考えずにしたたか呑んでしまった。

案の定、すっかり足をとられてしまって、帰る時刻になっても一人で起き上がることができない。戦友に肩を貸してもらってなんとか宿舎までたどり着いたが、そのまま二、三日寝込んでしまった。

そのため、8月18日、呉鎮守府の長官金沢中将が事態を憂慮して来島、陛下の御心を伝え、隊員の心境を鎮めるため訓示を行なったそうだが、聞く機会を逸してしまった。なお、同日付で少尉候補生は20年9月5日付で海軍少尉に任官するとの公式通知もあった。このような経緯を経て隊員の気持もだんだん落ち着いてきてそれぞれの今後を考え始めるようになった。


◯ 復 員


8月末までには隊員の殆どが復員することとなり、私も同僚とともに明石の港に上陸、北陸線経由で帰郷、私の海軍生活は終止符を打った。

わずか一年足らずの短い期間であったが、私のこれまでの人生の中でこれほど、情熱を燃やして取り組んだ時期はなかったのではなかろうか。私にとっては文字どおり命がけの一年であった。

戦後われわれの生き方について、いろいろな声が聞こえてきた。私には選ばざるを得なかった道であったかも知れないが、自分が選び、進んできた道を後悔していないどころか、むしろ誇りにさえ思っている。「わが青春に悔いなし。」である。

一度は死を覚悟した自分ではあるが、郷里に戻り母と弟妹たちの喜ぶ姿を見て、やはり生きていてて良かったとの思いがじわじわとこみ上げてきた。


復員記念 家族一同 (昭和20.9)

復員記念 家族一同 (昭和20.9)
復員記念として撮ったのが私の最後の軍服姿である。







はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−