資料13  旅魂会  最終回資料



旅魂会最終回  見学諸施設の資料


今回の旅魂会実施に際しては、大川幹事が実に膨大な資料を作成して下さった。貴重なものばかりであるが、私の担当した第一日のリポートに関係のあるものを、私自身が調べたものも加えて紹介のこととする。


・ 呉海軍墓地の沿革 (海軍墓地にある案内板より)


呉海軍墓地は、戦没などによる海軍軍人軍属の埋葬地として、明治23年に用地8,503坪(約28,000平方米)を海軍が買収してこの地に設置された。以来、呉鎮守府管理の下、在天の霊を慰めその遺徳を永えに偲ぶため、弔祭内規を定め毎年1回秋季に慰霊の祭典が執り行われて来たが、昭和20年8月太平洋戦争終結により廃止された。同年7月の戦災、次いで9月の水害により無惨に荒廃し果てた。呉地方復員局は、地元有志の協力を得て復旧、その後心ある人々、団体、付近の住民等の奉仕により清掃と供養が続けられて来た。

昭和46年同志相諮り、呉海軍墓地保存協力会(昭和63年7月「呉海軍墓地保存会」と改称)を組織し、環境整備に協力するとともに、毎年秋分の日に追悼の式典を行うこととした。

昭和46年3月、旧軍港市転換法に基づき呉市に無償貸付、同61年無償譲与され市有地と併せ約29,000平方米を、長迫公園として整備、呉市が維持管理することとなった。

昭和60年9月23日には高松宮同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、第15回合同追悼式が盛大に挙行された。

この地が呉海軍墓地と定められて百年、その間に建立された碑は、戦没者などの合祀碑83基、個人墓碑163基、英国水兵墓碑1基を数え、なお合祀碑の建立が相次いで計画されている。

我が国の、平和と繁栄の礎となられた英霊十三万余柱の鎮魂の聖地として、永遠に保存されるよう祈念するとともに、この史蹟を後世に伝えるものである。

平成元年9月23日           

呉海軍墓地保存会  呉市入船山記念館 (大川資料、記念館パンフレット)


・ 呉市史蹟 入船山(昭和41年10月1日指定)


この地は、飛鳥時代の大宝3(703)年に、呉浦の総氏神である亀山神社の鎮座地として定められたいわれのあるところです。

「芸藩通志」には「八幡宮、宮原村亀山にあり、山、はじめは入船山と称す」と記されています。しかし、明治19(1886)年に旧海軍の鎮守府が呉に置かれるとその用地内になることからこの神社は移転し、現在は清水1丁目にあります。

この一帯は、市街地にありながら昔からの自然林の景観をそのまま残し、椿をはじめいろいろな樹木が繁茂しています。


・ 旧呉鎮守府司令長官官舎


明治19(1886)年に第2海軍区鎮守府を呉浦に決定され、明治22(1889)年に呉鎮守府が開庁しました。

その年に洋風木造総2階建の軍政会議所兼水交社が建てられ、同25(1892)年からは長官官舎として利用されました。しかし、明治38(1905)年の芸予地震でその一部が崩壊したため、同年、その資材の一部を利用して現在の建物が建てられました。

明治38年の資料をもとに、平成3(1991)年から平成7(1995)年にかけて、調査、解体、修復を行い、建築当初の姿に復元しています。

この建物は木造平屋建で、洋館部と和館部からなっており、洋館部は外観に英国風(ハーフテインバー様式)を取り入れ、屋根は天然スレートt(粘板岩)の魚鱗葺きになっています。

また、洋館部の壁や天井には、全国でも珍しい金唐紙が貼られています。


・ 歴史民俗資料館(近世文書館)


昭和61(1986)年11月の開館で、3階が展示室となっており、企画展などを行います。また、北側の窓からは灰ケ峰や市街地が一望できます。


・ 郷 土 館


昭和54(1979)年3月の開館です。1階は事務所で、2階に展示室があり、旧呉鎮守府司令長官官舎及び長官関係の資料が展示してあります。


・ 1号館(旧火薬庫)


警固屋高烏砲台跡(明治に建築)にあったものを、昭和42(1967)年に移築し、復元したものです。郷土出身画家が画いた呉の歴史の一場面が展示してあります。


・ 旧呉海軍工廠塔時計(呉市有形文化財昭和56(1981)年10月1日指定)


大正10(1921)年に、海軍工廠造機部の屋上に設置されていたもので、昭和56(1981)年に整備し、復元したものです。1日4回流れるメロデイーは小・中学生の作曲したものです。


・ 休憩所(国登録有形文化財;平成9(1997)年5月7日登録)(旧東郷邸)


東郷平八郎が呉に在任中(明治23年5月?24年12月海軍大佐)に住んでいた家の離れ屋敷で昭和55(1980)年に移築し復元したものです。現在は休憩所として利用することができます。


・ 海上自衛隊 呉地方総監部  (大川資料 パンフレット)


沿   革

呉鎮守府

明治19年(1886年)5月  第2海軍区鎮守府の所在地を「安芸国安芸郡呉港」と定
められる。
         11月  呉鎮守府庁舎起工
22年 (1889年) 7月  呉鎮守府開庁
38年 (1905年) 6月  芸予地区に大地震(鎮守府庁舎半壊)
39年 (1906年) 5月  鎮守府庁舎新築工事着手
40年 (1907年) 5月  鎮守府新庁舎竣工(現庁舎)
昭和20年(1945年)7月  米軍機、呉を空襲(庁舎火災、ドーム焼失)
         11月  海軍官制廃止、呉鎮守府閉庁
21年 (1946年)  4月  英連邦軍が庁舎を使用(以後10年間)

呉地方総監部

昭和27年(1952年) 4月  海上警備隊創設
29年 (1954年) 7月  海上自衛隊発足
         10月  呉地方総監部開庁
31年 (1956年) 12月  呉地方総監部、旧呉鎮守府庁舎に移転(現警備隊より)
56年 (1981年) 9月  呉地方総監部第2庁舎(初期の鎮守府庁舎)立替えのため取り壊し。
平成10年(1998年)8月  呉地方総監部庁舎改修工事着手
11年 (1999年) 12月  呉地方総幹部庁舎改修工事完了(ドーム復元)  



・ 特殊潜航艇「海龍」後期量産型 (大和ミュージアム 「海龍」の解説板より)


「海龍」は世界初の有翼潜水艇です。水中を飛行機のように自由に潜航・浮上することをめざして開発されたもので、操縦装置も飛行機と同じものを使用していました。

呉海軍工廠などでは潜航実験や研究・開発が行われ、横須賀海軍工廠と海軍工作学校を中心に建造されました。後期量産型では艇首に600キログラムの炸薬を装備し、両脇に抱えた魚雷発射後、目標の艦艇に突入する「水中特攻兵器」となっていました。

当館展示の「海龍」は、昭和20(1945)年、静岡県網代湾で艇尾部にアメリカ海軍航空機のロケット弾(不発弾)の直撃を受けて沈没し、昭和53(1978)年5月27日に引き揚げられたものです。


・ 特攻兵器「回天」十型 試作型  (大和ミュージアム 「回天」の解説板より)


「回天」は人間が魚雷を操縦しながら、目標とする艦艇に体当たりする特攻兵器で「人間魚雷」とも呼ばれ、一型・二型・四型・十型などのタイプがあり、実戦に投入されたのは、「九三式酸素魚雷」を用いた一型のみで、約420基が製造されました。

戦没者は搭乗員だけでも100名以上にのぼり、その多くが20歳前後でした。

当館展示の「回天」十型は、潜水艦用の電気推進魚雷である「九二式魚雷」を利用し、本土決戦の近距離用として開発されたものです。


・ 戦艦「大和」 (大和ミュージアム 大和波止場の解説板より)


戦艦「大和」は、昭和16(1941)年12月16日、呉海軍工廠で竣工しました。当時、最先端の技術を用いて建造され、現在でも世界の歴史上最大の戦艦です。昭和17(1942)年2月から1年間、連合艦隊旗艦となっていました。昭和20(1945)年4月、沖縄への海上特攻作戦に出撃し、九州南西沖でアメリカ軍の攻撃を受け沈没しました。ここでは戦艦「大和」の前甲板の左半分を実寸大で表現しています。」

[要目] 
全   長     263.0メートル
最 大 幅     38.9メートル
吃水(公試状態)  10.4メートル
最大速力      27.46ノット(時速 約51キロ)
航続距離      16.0ノット(時速20.6キロ)で7,200海里(約13,334キロ)
計画乗組員     約2,500人


・ 戦艦「大和」 (歴史の見える丘 噫戦艦大和之塔 建塔の由来 解説板より)


戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船船渠で、昭和12年11月、仮称第1号艦として起工、同15年8月8日秘密裡に進水、翌16年12月16日竣工、直ちに聯合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、同20年4月7日、国民の全く知らぬ内に、乗員三千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦であった。

その頃(1940年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとするいわゆる大鑑巨砲時代であったが、大和の主砲は口径46糎、長さ20米、その砲弾の長さ2米、重さ1.5噸、着弾距離42,000米、ここから岩國付近まで飛ぶ世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘であった。

この大砲3門をならべた砲塔は、直径13米、重量2,700余噸もあり、これを製作したのは砲煩部で、また、この砲塔や船体の主要部を防御する41糎乃至65糎の厚い特殊甲鉄は製鋼部で製造された。

戦艦大和はこの砲塔3基を積むために特別に設計せられ、従って艦は異様なまでに幅が広くなり、排水量は69,000噸を越えたが、それでもなお、27.5ノットの高速艦であった。

巨艦大和の建造は5万を数えた呉海軍工廠の従業員が、優秀な技術と精魂を傾け、4ケ年余の短期間で、延べ3百万人の力と、当時、1億1千万円の巨費とをもって完成したのである。

昭和16年12月8日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続く「マレー」沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦隊旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みであった。

併しながら、明治維新以来80年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電気等の重工業並びに各種産業殊に、造船技術は戦後いちはやく、その実力を現わし、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っている。これまことに「大和は沈んでその技術は沈まなかった」といわれる所以である。

軍艦大和は二十世紀における世界最大最強の戦艦であって、しかも日本人の手で設計し、呉海軍工廠において、呉市民の力で建造された誇り高き技術の結晶であったとの見地から、これを生んだ呉工廠の跡を一望できるここ宮原の高台に、全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設し、もって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、また、その悲愴な最後を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものである。

後の世の人々よ、願わくば建塔の由来を諒とせられ、この塔を永久に維持保存されることを 謹んで識す。

昭和44年8月8日  戦艦大和 第30回進水記念日  

呉大和会発起人(五十音順)
呉  市  長            奥原 義人
呉商工会議所会頭   海軍少佐    神津 幸直
呉桜星会 会長    海軍少佐    阪口繁太郎
水交会呉支部長    海軍少将    鈴木  師
海上自衛隊呉地方総監 海  将    築土 龍男
旧呉海軍工廠造船部長 海軍技術中将  庭田 尚三          
社団法人呉観光協会会長 衆議院議員  増岡 博之
呉市議会議長             宮川 建二


・ 第六号潜水艇殉難顕彰碑由来 (顕彰碑解説板より)

資料「佐久間艇長を偲ぶ」に掲げているので省略


・ 佐久間艇長遺書 (顕彰碑の一部となっている解説より)

資料「佐久間艇長を偲ぶ」に掲げているので省略


・ 沈 勇  (戦前の小学校六年生用修身教科書より)

資料「佐久間艇長を偲ぶ」に掲げているので省略


・懇親会 代表幹事挨拶  第1分隊 大川信男


皆さん、よくお集り下さいました。今日はお天気にも恵まれ、又ひとりの落後者を出すこともなく誠に幸いでした。

本日、ご参加の中には、例えば5〜7班馬場さんの様に病みあがりにも拘らず漸く医者の許しを取付け、しかも休息をとる為昨日と明日の両日、呉に宿をとってまでして駆け付けて下さった方の他、足や眼が不自由な方々も居られ、本当に幹事冥利に尽きることで大変感謝感激しております。

所で、今回、計画をたてる段階で、何人分の部屋をとれば良いか予想してみましたが、いいところ40名位い、45名も集れば大成功だろうと考え、45名で予約を申込んで、ご案内した次第です。ところが4月10日のピーク時には懇親会のみご参加の2名を加えると47名に達し、このスペースでは身動きがつかず、皆さんにご迷惑をかけるのではないかと心配していた程です。結果的に5名減ったことは大変残念ですが、しかしこれも総体的に無理がきかなくなっている会員の現状を反映したもので誠に止むを得ないところです。

扨、旅魂会はこれまで我々会員の活力の源泉となり、又、お互いの絆を固め合う、年1回の機会でした。幕を閉じることは誠に淋しい限りですが、他の同期会も既にソフトランデイングの段階に入っており、我々も今にして今後に備えた態勢を整えておかないと、その機会を失し場合によっては或る日突然ハードランデイングの恐れすら予測されますので、何卒ご諒承頂きたいと存じます。

一方、この最後の呉大会を終えた後、旅魂会をどの様に運営していくかについてですが、次の二つが鍵になると考えます。その一つは案内状にも書きました通り、年4回発行予定の「旅魂会通信」であり、もう一つは「連絡センター」の設置です。この大会が終りましたら前者については編集委員を選定し、後者については、その組織と運営方法を協議決定の上、成るべく早い機会にお知らせする予定ですが、会の現状からしますと、差し当って発足時は東京が中心にならざるを得ないものと考えています。

尚、「旅魂会通信」のことですが、実は当初ご案内するに当っては、希望者7〜80人程度の数字が頭にありました。ところが蓋を開けてみると4月10日現在115名の申込みがあり、まだ海のものとも山のものとも判らないにも拘らず、100名を超えるとは全く予想外で本当に驚いております。このことは旅魂会に対する関心が如何に強いものかを示すと共に、我々生涯を通じての原点が旅順時代にあることを如実に物語っております。

さて、今回、これが皆さんに対する最後の案内状になるとの思いでペンを執り、或いは各位から寄せられた回答に眼を通している間に、第1回以来30数年間のことが走馬灯の様に頭に浮んで参りました。その内、私にとって転機となった二つのことをご披露して、ご挨拶を終えたいと思います。

先ずは平野会長からバトンタッチを受けた時のことです。確か、昭和55年の秋頃だったと思いますが、その翌年の第7回旅魂会の打合せ会でお会いした時、突然会長から「東海パルプを辞めて、浜松に帰り、兄の後を継がなくてはならなくなったので後は君に頼む」と言われました。一度はお断りしたのですが是非にと云われ止むなくお引受けした次第です。その会長も平成11年3月に亡くなられましたが、その前年、会長が自費で復刻版を作ったのがこの「会則」です。表題は「第5期会会則」とありますが、頁をめくったところには「5期学生・2期生徒共通の会則」となっており、更に中程の頁には「旅魂会」と「護稜会」と言う、杉野部長の手による見事な筆文字が載っています。平野会長の説明では、その「護稜会」の文字が「成仁会」の文字に換わる丈で、全く同じ会則の冊子が、成仁会の恐らくは鈴木光三先任班長の転出先(潜校)にも送り届けられた筈だとのことでした。

今1つは、2期学生出身の森繁先輩の思い出です。この森さんとは昭和57年頃、私が東港会の総会に応援参加した時以来のお付き合いですが、川棚で我々の教官をしておられた方です。

或る時、その森先輩から、同期会のあり方について、こう言われました。「戦死した同期に対する慰霊鎮魂の気持の籠らない、単なる懐かしい、嬉しい丈の同期会では意味がない。又、「同期の桜」は亡き友を偲んで歌うべきもので、バーや飲み屋では歌うべきではない」と。

実は、その時まで、我々旅魂会ではご遺族を招いての正式な慰霊祭を行っていませんでしたが、この森さんの言葉に反省し、ご遺族の消息調査のキャンペーンを実施して、京都の仁和寺で第10回の旅魂会を開催した時、その別院蓮華寺で多数のご遺族参列の下初めて盛大な慰霊法要を執り行った次第です。以後、この森さんの趣旨に沿った形での旅魂会を続ける様に心掛けて参りました。

我々は陸軍ではなく海軍に入ったこと、又同じ海軍でも聖地旅順で、立派な教官に恵まれて教育を受け本当に幸せでした。繰り返すようですが、我々生涯を通じての原点は旅順時代にあります。これまで培って来た、この掛け替えのない同期の絆を守って、今後も生ある限り、この日本を良くする為に頑張って参りましょう。

最後に、これまで長い間皆さんから賜わったご支援、ご協力に対し心からの感謝の言葉を述べてご挨拶を終ります。本当に有難うございました。


・ 嗚呼旅順  1-7 有馬俊彦 詠 (大川資料)


観光に非ず見をさめとたづね来ぬ赤き血燃やせし旅順の町に
遺書書きて特攻志願申しでし兵舎はすでに壊されてをり
若き血を燃やせし兵舎建て変はり記憶もどさむ術ぞいまなし
親御には戦病死とて逝きし戦友旅順兵舎を踏む足重し
棒倒しに血と汗流せし練兵場このあたりならむわが足止まれる
国の為捧げしいのちと覚悟せし若き日もどる旅順たずねて
日露役に散りしみたまのおはすらむ爾霊山麓風の重たし
散りませし尊き血潮のしみる道踏むを詫びつつ爾霊山登る
二万余の戦死の無惨しのばせて無言に建てりああ爾霊山
ご夫君の遺影ひそかに抱きしめ旅順の戦績めぐれる人はも
名にし負う旅順工大そのままと声はづまする卒業の友
鉛色の空さへしたはし海軍の試練に燃えし旅順の山ゆく
生き残りいるを恥らふ思ひして戦友散りませし旅順をめぐる
若き日の旅順大連訪ねきて懐しなどとふことばはばかる
杖をつき登りし戦友は爾霊山の石拾ひをりひとり黙して


・ その他の大川資料


このほか、この旅魂会のために大川幹事が作成された資料は数多くあり全部は紹介できないが、資料名のみを列挙し、同氏の労苦に感謝の気持ちを捧げたい。


平成18.1.10 今後の旅魂会運営並びに本年度旅魂会について         B5判 1頁

〃  別紙 第32回旅魂会(全国呼び掛け最終回)開催ご案内(案)     B5判 4頁

平成18.2.8 本年度第32回旅魂会(最終回)の件              B5判 1頁

〃     海竜とのかかわりについて                   B5判 1頁

〃     護稜会・成仁会会員名簿総合表(平成18年1月現在)      B4判 2頁

平成18.2.25 今後の旅魂会運営方針並びに本年度旅魂会について       B5判 7頁

平成18.3.8 第32回旅魂会の案内状(2月28日投函)について        B5判 1頁

平成18.3.26 第32回旅魂会並びに「出陣賦」出版の件           B5判 1頁

平成18.4 護稜会・成仁会会員名簿総合表(平成18年3月31日現在)    B4判 2頁

平成18.4.10 4月10日現在の申込/回答状況
〃   取り急ぎ連絡を要する事項
〃   呉市街図 呉地区大破、着底艦船等の所在位置
〃   回天特別攻撃隊戦死者 水上特別攻撃隊戦死者 呉大空襲時戦死者
〃   艦船喪失一覧表  海軍主要部隊一覧表
〃   5期予備学生、2期予備生徒 基礎教程・術科教程・任官・任命・赴任経路図
〃   5期予備学生、2期予備生徒 基礎教程・術科教程別人員表 
以上  B5判 10頁

〃   地図4葉(呉・宮島  広島県  呉軍港  江田島)       B4判 4頁

〃   海上自衛隊・呉地方総監部 パンフレットコピー          B4判 2頁

〃   呉市入船山記念館 パンフレットコピー              B4判 2頁

〃   大和ミュージアム パンフレットコピー              B4判 2頁

〃   回天記念館 パンフレットコピー                 B4判 2頁

〃   大津島観光案内図コピー                     B4判 1頁

〃   尾道市内観光ガイド パンフレットコピー             B4判 1頁

平成18.4.12 第32回旅魂会最終打合せ
〃   式次第 当日の手配 翌日の手配 全般に亘っての問題
〃   メニュー案 座席配置 部屋割り 会場図面 以上          B5判 6頁

平成18.4.14 旅魂会呉大会実施要領(第2報)
〃   旅魂会名簿訂正  第32回旅魂会式次第
〃   軍歌(同期の桜 艦船勤務 如何に狂風)
〃   着席図・部屋割り(最終版)  以上                 B5判 8頁

平成18.4.18 呉大会参加者リスト 嗚呼旅順朗詠集 詩吟爾霊山・九段の桜
〃   呉鎮守府司令長官官舎パンフコピー  懇親会場着席図
〃   大津島 人間魚雷「回天」/イ号370潜水艦解剖図 回天基地地図 
以上     B5判 8頁




はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−