資料11  鉾立(恒見)教官  訓話



第一回 旅魂会における訓示  鉾 立 辰 巳 

昭和45年5月18日  於市ヶ谷会館


楽しくも嬉しい第一回旅魂回を終るに際し一言訓示する。(酒宴未だしの折なれば静けさをとりもどす為、敢て訓示と言う古めかしい言葉を使ったのであって他意なし。乞御寛恕)二十五年前、貴兄等の教官であった小生が二十五年後の今日、各層において各々その処を得られた諸兄を前にしても、尚且つ現時点においても教官たるの識見と、自負と、自信と気概を以て訓示する。

禅の言葉に「落花心ありて流水に従う。流水心なくして落花をおくる。諸兄の同僚の何人かは、その若き命を皇国必勝を信じながら潔く散っていった。二十五年の歳月は流水の如く流れ去ってしまい、落花の心を思う人ぞなく現在の繁栄を謳歌している。吾々今日元気でこうして一堂に会することの出来る幸運と有難さを思うと共に散華した友に心からなる祈りを捧げなければなりません。

さて、日本は終戦後四半世紀にして世界第二の繁栄を誇っている現状を見て、どうしてこんなに繁栄したのか、そして此の繁栄は誰が作ったかと言うことを考えてみたことがありますか。終戦当時二十歳の人は今は四十五歳になっております。世界の一等国を目指して困苦欠乏に堪えて孜々営々として努力して来た戦前派達は大東亜戦争を戦い、一敗地にまみれた自分達のウヌボレの故に、こんな惨敗を喫したことを身を以て体験した。然しこんな疲弊のどん底の日本を自分達の子孫には渡せないと額を大地にすりつけて刻苦勉励した。そして世の指導者となった。そして斯くも輝かしい繁栄を築き上げた。世の中には若い戦後派の人達が何か物新しいことをなし、又若き学者などが何か新説を唱えたら急に世の中が繁栄したような錯覚すら持っているような人があるようですが、戦後派の彼等は戦力にはなったにしても、決して指導者ではなかった。唯、吾々が寧ろ憂うることは次の世代の人が果してこの繁栄を続けて行けるかどうかと言うことであります。この繁栄こそは戦前、戦中派とも言うべき吾々、そして貴殿等自身が作り上げたんだと胸を張って叫んで然るべきである。

中でもその科学の分野においての発展は造船、鉄鋼、石油初め皆旧海軍の所産に負うところ絶大であります。その海軍に若きエリートとして抜てきされ、海軍精神に築き上げられた兄等は各層における日本社会の中核であるという自負を今一度とりもどし、自信と信念を以て今後の社会に対処して貰い度い。みんな立派な面魂をしている立派な者達の集りです。今一度自分に向って叫び給え。「お前は日本社会の大事な指導者なんだぞ」と。小生も死ぬまで決してショボショボせんぞ。南国の端鹿児島にて常に指導者的地位と信念を確立します。機あらば来り訪ねよ。


第二回 旅魂会における訓示    鉾 立 辰 巳  

昭和46年5月15日  於 市ヶ谷会館


昨年の本会における話を訓話第一編とし、本日のものを訓話第二編とする。今日は終戦後今日迄、世を挙げて「海軍はよかった。立派だった」と専らなる世評があり、海軍に関係あった人は勿論、関係のない人も一人として海軍の悪口を言う者がいないのみか、海軍の組織、精神、あり方、中でもその教育が研究されている。それは何故だろうか。それでは海軍の何処がよかったのか、そして旅順の数ケ月の教育は貴殿等に何を教えたのか。そして貴兄等は何を会得したかについて話してみましょう。

結論から言うと特筆大書すべき点が二つある。その一は海軍は学問を大事にした。その二は人間を尊重したことです。先日皆さんの中に七階級特進したと称する話を聞いた。それは乙種補充兵で陸軍二等兵として陸軍部隊に入隊中、海軍予備学生の合格発表があり俄に予備学生になったので、陸軍式階級制度から言うと七階級特進だったと聞き大笑しました。海軍では早くから主計科、軍医科に短期現役制度があり、大学出身の俊才を短期訓練の後中尉に任用していた。皆さんの両親は貴殿等を重量物運搬に適するように育てたのではなく、又望んだのでもなく、大学、専門学校に入れて世の中の上層指導者とすべく学問させたのである。それはそれなりに尊重しようというのが海軍方式であった。どんなに学問をしていようと何様であろうが一兵卒とする陸軍方式とは、およそ雲泥の差がその思想の上にあった。

それ故何一つ海軍を知らない貴殿等を入隊と同時に、海千、山千の下士官の上位に位置せしめ、兵員との同居を一切やらさなかった。又訓練においても決して理不尽の鍛え方はしなかった。あなた方の中で旅順で鍛えられたと思っている者があれば、それはどんでもないことで、あんな訓練なんか鍛える中には入らぬのである。兵隊式鍛え方など採用したら直ちにダウンするに定っている。だからその体力にふさわしい訓練しかやらなかった。そして食い盛りの君達に栄養の面においても当時としては他に見られないような給与の努力を続けた。あの物のない時代に一週間に何本かの羊かんの配給なんて、とても他の部隊などで考えられることではなかったのです。

また一方教養の面においても海軍将校としてのセンスの養成につとめた。その一例として終戦の前の年と言うのに、物資不足の中を無理算段してスケート靴四○○足を造りスケート訓練を行った。スケートなど言うものは戦前、都会のリンクで滑る者はおよそ軟派と称せられる特別の人達の遊技とされた位のもの、それを敢えて訓練に取入れるなどの海軍特有のセンスと英智は今一度見直して貰い度い。戦時中、満州、北海道を含めて軍隊に入ってスケートなどを興じた経験のある者は恐らく他にあるまいと思います。

又私自身としても今から顧みて二十歳台の若さとは言え、学生、生徒を数ヶ月の教育の後、部下兵隊を死地に赴かしめることの出来る指揮官を養成するための重責を感じ、自分自身の言動、一挙手一投足が総て彼等の鑑とならなければならないことを自覚し、自負と信念に生きた旅順の生活こそ吾が人生の最高のものだったと思います。そしてその言動は無我夢私、今から考えてみても何等悔いるところがなかったと思っております。然らば旅順の教育は何を教えたか。教育の時間が短い為二、三の座学を除いて学問という程のものは教えられなかったが、一口に言って「己に克つ」訓育であったと思います。人生の最も大事なことは他に勝つ前に先ず己に克ことである。朝ねむいのにラッパ一つで跳ね起きること、それ自身己に克つ訓練の初動に始まった。斯くも立派な教育を受けるのに値すべく選抜され、又事実教育された者達だけにどの顔みても実に立派な人の揃いです。唯終戦以来既に二十数年を経過し、皆初老の域に入りつつありますが、肉体の栄養には皆非常によく心を配っているが、頭脳の栄養と心の栄養を考えない人が案外多いのではないかと思います。人生には最も大事なのは頭の栄養と心の栄養です。頭髪は霜をおびても、禿げても頭の中は若々しくなければなりません。又顔は如何に老けていても心は常に暖く保たねばなりません。幸い、集った諸君は各階、各層の各々処を得た人達です。お互に手を握って学び給え。そして「君の憂に吾は泣き、吾が喜びに友は舞う」の心の栄養を得られよ。それが人生である。祖国の危機に敢然としてその青春の情熱を燃やしたのは君達自身であった。国の危急存亡の時、その情熱を燃やすことの出来ない人間が、なんで平和の時だけに熱情を傾けられましょう。今一度、国家興隆の中核は自分達自身であることを再認識し、自負と自信を持ち直し自らの職責に邁進されんことを切望し訓話第二編を終ります。以上


御 挨 拶    鉾 立 辰 巳

昭和56年6月 


今年も本日を朴し旅魂会が行われることを心より嬉しく思います。小生体調不順のため昔日の精彩なく参加出来ないことを残念に思います。

前回の東京に於ける旅魂会において、小生将来とも旅魂会には腹這ってでも参加するなんて勇ましいことを言いながら、実行しないことを誠に申し訳なくお詫び致します。私は旅魂会の通知を青春への招待状と呼んでおります。

初夏の一時を三十五年前の青年に若返って過ごすことも亦意義なしとしない。己の人生の中で燃えた歳月を持ち得た人は幸せ者だと思います。

漢詩に

少年易老学難成  一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢  階前梧葉既秋声

春だ、春だと思っている間に、気がついて見たらもう何時の間にか秋になっていたとの意であり、皆さんも若い、若い、青年だ、青年だと思っている間に、何時の間にか停年になり、還暦を迎えんとしている年令に達しました。然しこれからが人生の仕上げです。

一寸の光陰軽んずべからず、一日、一日を大事にしなければなりません。

一樹の蔭に宿り、一河の流れを掬むも皆他生の縁と申します。縁とは必然でも偶然でもない人生の出逢いであります。多感な青春時代の何ケ月かを寝食を共にする友がいるなんてよくよくの出逢いです。この出逢いを大事にして旅魂会は最後の二人になるまで続けて下さい。

小生も鋭意養生につとめ旅魂会に参加出来るように努力致す所存であります。

“過去に対しては脱帽、将来に向って上衣を脱げ”

とは私の座右の銘であります。

最後に旅魂会の盛会と皆さんの健康をお祈りして本日の挨拶と致します。

昭和56年6月吉日


九州旅魂会の諸兄に告ぐ   鉾 立 辰 巳

昭和60年10月12日


当時世界一を誇っていた帝国海軍をもってしても、連合国数ケ国を相手にした大東亜戦争は、遂に衆寡敵せざる羽目となり、戦勢吾に利あらざる状態に陥った昭和十九年の秋、日露の役ゆかりの聖地旅順に、青春の情熱を日本民族擁護のために捧げんと数多学生の中より選ばれて将校学生及び生徒として、教育部隊の隊門を潜って来たのを教育部隊教官として迎えたのは昨日の出来事のように思われます。

輝く瞳、それは純情そのもの、初めて短剣を吊って整列したどの顔にも自負と信念に満ち満ちていた姿を今も忘れることが出来ません。又同時に之等の学生生徒を数ケ月の教育の後、彼等の部下兵員をして従容として死に就かしむる指揮官に養成しなければならない重責をひしひしと感じ、自分の一挙手一投足をすら戒めたのも私の人生の最も尊い一時点であったことも忘れられません。

以来四十年の歳月は流れ、みんなは再建日本の指導者として各界において奮斗され、戦後の日本を経済大国に導き、自分は既に還暦を迎え、頭髪霜を帯び第三の人生に入った今、往時の感慨忘れ難く、みんなが相集い、温故知新の会を持つことは大いに意義あることと喜んでおります。

最近世間によく“原点に帰れ”という言葉が言われております。誠に時宜に適した言葉だとは思いますが、世の中の大部分の人には自分の原点とは、と具体的に見出すことの出来る人は少いのではないでしょうか。

兄等の原点は旅順時代そのものと言って然るべきでしょう。なぜなら由来日本海軍は平和に徹し、国内的にはその穏健なる思想、堅実にして重厚なる行動力、常に世界的視野に立脚しての発言と判断、それ等すべては当時日本国民が全幅の信頼を寄せた所以にして海軍魂即日本精神と言ったものであり、かかるが故に世界の賞讃の的でもあったからであります。

短時日とは言えその海軍に学び、祖国の危機に敢然としてその青春の情熱を燃やしたのは兄等自身であったのです。国の危急存亡のときその情熱を燃やすことの出来ない人間が何で平和の時だけに情熱を傾けられましょう。

私は人間の原点とはその人が人生の一時点においてその生き甲斐に対し、完全燃焼することだと思います。

その意味において兄等の人生の原点は旅順時代の心構えそのものと言って過言ではないと思います。無私、無我、純粋無雑、克己、実行力、今一度あの時の気持に立ち帰ったらどんなことでも出来るでしょう。

兄等の人生において最も尊い一時であったのではないでしょうか。

“一期一会”あの時旅順に集いし友が旧交を温めお互に研さんし、自らの原点を想い起こすことは又意義なしとしない。

九州旅魂会員の最後の一人が地球上より消えるまで大事な会として持ち続けられんことを念願して已みません。

尚皆さんの健康を御祈りいたします。

昭和六十年十月十二日





はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−