3 旅順海軍予備学生教育部
◯ 概 説
昭和19年9月20日、大竹海兵団に入団した私は身体検査、学科試験を受けた後、9月24日、旅順に向け大竹を出発した。
下関港から連絡船に乗り釜山港に到着、釜山から貨物列車で、大邱〜太田〜平壌〜安東〜定州〜蘇家屯〜鞍山〜大石橋を経て9月29日旅順に到着、旅順海軍予備学生教育部に入隊した。
私たち大竹海兵団からの者が900余名で主流であったが、そのほか大陸方面(朝鮮、満州国、中国)、台湾、武山海兵団、陸軍部隊からの編入等、この教育部への入隊者数は学生約480名、生徒約780名、合計約1,260名にのぼった。これが約120名づつの学生分隊4個分隊、生徒分隊6個分隊、計10個分隊に編成され、各分隊には監事、監事付が配置され、直接の指導に当たられた。ちなみに教育部長は日露戦争の旅順港閉鎖の際、広瀬中佐とともに戦死した杉野兵曹長の息子、杉野修一大佐である。私は第8分隊第4班で監事は辻村大尉、監事付は山崎中尉であった。
旅順海軍予備学生教育部 教育部長 杉野大佐の訓示 (昭和19)
旅順海軍予備学生教育部 教官 (昭和19)
旅順海軍予備学生教育部 第8分隊全員 (昭和19)
第8分隊第4班全員
前列左より二人目筆者 (昭和19)
入隊記念 旅順予備学生教育部 (昭和19.9)
入隊記念 旅順予備学生教育部 (昭和19.9)
教育部では各人に「学生(生徒)作業簿」なるものが渡され、毎日の作業、週末所感の記載が義務づけられ、毎週分隊監事に提出、査閲を受けることとなった。幸いこの作業簿が残っており、さらに後年私たち同期の有志により「旅魂」なる書物が刊行されたが、作成にあたり私たちにアンケートを求められた。その時の「アンケート回答」も残っていた。
この二つの資料および「旅魂」の記事も参考にしながら、昭和19年9月から20年2月末までの五ヶ月間、旅順予備学生教育部で特に印象に残っているものを若干記してみることとする。
◯ 躾(しつけ) 教 育
旅順での基礎教育は五ヶ月に過ぎなかったが、私にとっては精神革命を引き起こしたといっても過言ではない貴重な期間であった。
「五分前の精神」「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」「指揮官先頭」「軍人たる前にジェントルマンたれ」などの言葉は耳にタコが出来るくらい聞かされたが、長い間にはそれなりに感化を受けたようだ。
また、夜の自習時間の締めくくりに行う「五省」も良かった。その日一日の精神、行動などについて、自らに問うものである。
五 省
至誠に悖るなかりしか 言行に恥づるなかりしか 気力に欠くるなかりしか
努力に憾みなかりしか 不精に亘るなかりしか
強烈な印象として残っているのは、教官の愛の鞭とも言うべき「修正」である。将校学生・生徒として、精神、態度、動作などにおいて欠陥ありと認められる場合、教官が鉄拳制裁をもってこれを正すのである。個人の場合はもちろんであるが、多くの場合は連帯責任である。同じ班、分隊の中で一人でも該当者が出ると全員が「修正」を受ける。
「股を開け」「歯を食いしばれ」と予告しておいて、力いっぱい顔を殴るのである。殴られる私たちも大変だが、殴る教官も大変である。一人や二人でなく、何十人も殴るのだから。腕時計を外すのを忘れて時計を壊してしまった教官もいたという。
口の中が血で真っ赤になったり、腫れ上がったりしたことも再三であったが、棒とかスリッパとか使うのでなく、予備学生出身の教官が自らの手で愛情を込めて殴る行為には、後輩への励ましや思いやりも感じられ、親ごころと素直に受け止めながら、「特攻」を「熱烈志願」する人間に育っていったようである。
旅順における基礎教育も終えそれぞれの任地に赴くとき、先任教官である宇都大尉が、「餞の言葉 士官の心得」なるものを一同に示された。実践躬行、先憂後楽、信賞必罰を説き、部下の統率、補佐の役目、先手先手、返事の仕方、不関旗、上官の悪口などについて、具体的に示している。すっかり忘れていたが「旅魂」に掲載されていたので紹介する。
宇都大尉の訓示 旅順予備学生教育部 (昭和19)
◯ 理数系重視の座学
海軍では軍艦を動かし、戦争となれば敵艦に砲弾や魚雷を命中させなければならない。そのためには理数系の学問が必要なことは当然の話であるが、私たちの殆どは理数系を苦手とする文科系出身であり、理数系の教科が三分の二を占めたという座学には苦労させられた。
旅順における当時の教程表を見ても、精神教育、統率法、体育(剣道・柔道・銃剣術、スケート)、砲術(陸戦、艦砲)、運用術(短艇・機動艇)、航海術(羅針儀・六分儀の使用、気象・海洋・手旗・旗旒・発光信号)、水雷術、機雷術、通信、機関、整備、物理学、数学と理数系の教程が圧倒的に多く並んでいる。
昭和19年11月頃の日誌を見ても、「元来数学の素養が少ないうえ、進行速度が早く、そのうえ自習時間も潰れることが多く、完全なる理解は困難、学生時代の暇のある時に何故もう少し勉強しなかったかと後悔することも一再ならず」と記されている。
◯ 寒い冬とスケート
旅順は満州の最南端で、冬でも港が凍らない満州一の健康地と聞いていたが、10月から2月という一番寒い時期を過ごした私たちの経験からすれば、内地の冬とは比較にならないほど寒かった。
私たちが生活していた学生舎は昔のロシア海軍の施設であったといわれ、煉瓦造りのがっしりした二階建ての大きな建物であった。窓は二重になっておりスチーム暖房があるので、屋内にいる時は快適であったが、一端外に出ると零下十数度の寒さである。風呂から上がって外に出ると、たちまち、持っていたタオルがすぐ棒のように固く凍ってしまのであった。
港は確かに凍らなかったが、教育部の中にある蓮池は凍ってしまった。この蓮池でスケートの訓練が行われた。誰もが海軍に入ってスケートとは予想外であった。私も雪国育ちだからスキーなら少しは自信があるが、池が凍るほどにはならないのでスケートは始めてである。全然立つことが出来ず、しばらく氷の上をはい回っていた。ようやく立てるようになっても滑るどころではない。何日間かは足の臑が痛くて参った。それでも何回か繰り返すうちになんとか滑れるようになった。滑れるようになると今度は面白くなり、スケートの時間が待ち遠しくなった。戦後だいぶ経ってからスケート場に行く機会があったが、スケート靴をはくと身体が覚えていてくれ、結構滑ることができたのには驚いた。
◯ 釣床(ハンモック)
寝る時は自分で吊した釣床(ハンモック)の中である。この釣床の上げ下ろしが馴れるまではかなりきつい作業である。釣床訓練も大事な基礎訓練の一つであった。
「総員起シ」「総員釣床ヲ持ッテ前庭ニ集合」の号令がかかると、釣床を畳みロープで縛って釣床を担いで、前庭を目指して駈けるのだ。縛り方が悪いと本来直線的にぴんと張っているべき釣床が、「く」の字型に折れてしまう。不合格になると釣床を担いで練兵場を何周かするペナルテイを課せられるのだ。
一日の訓練が終って漸く釣床に入る。「巡検」のラッパの音がゆっくりと低く長く響いてくる。遠く離れてきた故郷のことなどが思い出されて涙が流れることもある。然しそれも束の間、訓練でくたくたになった身体はすぐに深い眠りに誘われて行く。
◯ 軍歌演習
軍歌演習は、原則として毎週土曜日午後の大掃除、総員運動(棒倒し)の後、または日曜日の見学ないし外出の帰隊後、総員で行なった。特に外出帰隊後のそれは、外出で付けて帰ってきた娑婆気を軍歌でふるい落とせというので、一番気合いを入れられた。指導教官は私たちの分隊監事の辻本大尉で、なかなかの美声であった。
軍歌集を左手に持って高くあげ、右手は大きく振り、足は高く上げて歩調をとりながら大きなこえで歌うのである。その時の軍歌集は手許に残っていないが、「海軍時代によく歌った軍歌」として、資料編に掲げた。「海行かば」「軍艦行進曲」「同期の桜」「艦船勤務」「如何に狂風」などを旅順ではよく歌ったように思う。
今でも戦友会では「同期の桜」などは欠かせない歌である、一般の人にも親しまれているようである。
軍歌演習 旅順予備学生教育部 (昭和19)
◯ 二○三高地(爾霊山)
昭和19年の10月29日にここを見学している。あの時は見学とはいえ、忠霊塔を仰ぎ見ながら、教官から「この地は貴様たちの先輩が血を流して・・」と叱咤され、「突撃に・・」の声とともに中腹から頂上まで一気に駆け上がった。
平成15年9月、59年ぶりに訪ねることが出来た。現在はバスで中腹まで行くことが出来、ここからはゆるやかな勾配の道が出来ており、足の弱い人は「カゴ」を利用して登ることも出来る。舗装された道を登ること二、三百メートル、昔に変わらぬ「爾霊山」の塔が見えてきた。一同で記念撮影。五十九年前にもここで同じ班の仲間と一緒に写真を撮っている。
よくぞ日本軍勝利の記念塔を残しておくものと感心もするが、立派な観光資源になっているからでもあろう。しかし案内板には次のように日本文でも記されており、中国にとっては、侵略、恥辱のシンボルになっているようで、素直に喜んでもおられない気がした。
「二○三高地は一九○四年、日露戦争時の主要戦場の一つであった。日露両軍はこの高地を争奪するため、殺しあっていた。その結果、ロシア軍は五○○○人以上、日本軍は一万人以上死傷した。戦後、旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を紀念するため、砲弾の残片から一○・三M高さの銃弾のような形の塔を鋳造し、自らが「爾霊山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と恥辱柱となっている」
旅順 二○三高地 (昭和19.10.29)
8分隊4班一同 前列右から二人目が筆者
同じ場所 (平成15.9.26)
ツアーに参加。最後列中央二人が私たち
◯ 東鶏冠山北堡塁
ここも日露戦争の激戦地であるが、昭和19年10月22日に一同で訪ねている。当時の日記には戦跡保存会の藤田氏より説明を聞き大なる感銘を受けた旨記している。この地でわれわれの祖先が肉弾攻撃を行ない19,000名もの方が英霊となられたとのことである。その時の写真が残っているが、59年後に訪ねた時も殆ど変わらぬ姿で残されているのに驚いた。
東鶏冠山北堡塁 予備学生教育部で見学 (昭和19.10.22)
同じ場所を59年後に再び訪ねる (平成15.9.27)
◯ 始めての外出
12月10日、始めて外出が許可された。憧れの第一種軍装の腰に短剣という姿で娑婆の空気に触れることが出来たのだ。それまでに引率されて一同で、東鶏冠山、白玉山忠霊祠、二○三高地、黄金山砲台などを見学したことはあるが、個人で軍隊の外に出て自由時間が持てるのは海軍に入ってから始めてのことである。
午前は聖地会館、午後は大和ホテルに行ったよう記録に残っているが、記憶に残っていない。ただリンゴを腹いっぱい食べたことを思い出す。当時の日誌には次のように記されている。
「[十二月十日]、初ノ外出ヲ許可セラレ、市中ヲ闊歩シ帰リテ心身共ニ爽快ナリ。
[週末所感]始メテ外出ヲ許可セラレ、往時憧レシ服装ニテ市中ヲ闊歩シ、吾等ノ身分ノ上ナルコトヲ痛切ニ感ジタリ。下士官、兵ニ敬礼サルルトキ、現在ノ自己ヲ省ミテ、ソノ指揮能力、精神、学識ニ対シ自責ノ念ニ耐エズ」
平成15年9月、59年ぶりに旅順を訪ねた折、大和ホテルを訪ねることが出来た。当時の建物が残っており、改装工事が行われていたが、中に入れてもらうことが出来た。同行した仲間の話ではここで、テーブルマナーを教えてもらったのだそうだ。教育部や白玉山も近く、タイムマシンに乗って一挙に59年前に戻ったような感じがした。
旅順 旧ヤマトホテル (平成15.9.26)
◯ 短艇(カッター)遭難
短艇の訓練で旅順港の外に出て、嵐のため港に戻れなくなり、漂着するといいう苦い経験も今では懐かしい思い出となっている。
昭和19年11月2日、第8、9、10分隊の全員は午前の日課である短艇の訓練のため、各班ごとに24の短艇に分乗して、旅順東港より港外に出て、港口東方約1,000メートルのところにある燈台を廻って往復する訓練に出発した。しかし港外では予想もしなかった突風が吹き荒れる荒天に遭遇し、どうしても港に入れなくなってしまった。
おそらく燈台を廻るところまでは難なく実行出来たと思う。しかし港に戻ろうとすると、老鉄山の方から吹き下ろす風が物凄く、とてもこの狭い湾口に近づけないのだ。幸い雨はなかったが、空一面灰色の雲に覆われて薄暗く、太陽の光はどこにも見えない。風は唸り、潮は騒ぐ。短艇は波の山に登ったかと思うと、奈落の底に落とされるように波の底に沈んでゆく。一緒に港外に出た仲間の艇も見えない。
もう駄目かとの思いが頭をよぎる。出港後数時間必死の思いで漕いだが、遂に港に入れず全艇が老虎尾半島の付け根、柏嵐子付近に漂着してしまった。その間連絡途絶え行方不明、陸上では全員戦死を予想したという。このあたりの海岸は岩礁地帯で容易に船が近づけない所のようであるが、ちょうど満潮の時で、結果的に海岸の奥に打ち上げられたもののようである。命拾いをして教育部に帰ることが出来た。
その時の日誌には次のように記している。
「二日 昼食ヲ抜キ終日頑張リ通セシ本日ノ短艇訓練ハ又ト得難キ貴キ体験ナリト信ズ。
週末所感 木曜日ノ短艇ノ際ハ始メテ海軍軍人ラシキ気分ヲ味ヒ得テ、感ズル所甚ダ多シ。一 我等ハ海ヲ相手ニスル軍人ナルコトヲ痛烈ニ感ズ。二 力ノ限リ漕ギ、腰マデ海水ニ浸リテ自己ノ最善ヲ尽シタル後ノ爽快ナル気持ハ例ヘン方ナシ。」
平成15年9月、再び旅順を訪ね黄金山砲台に立って、その燈台を眼下に見下ろしてきた。この時は波一つ立たない青く、静かな海が拡がっていた。
黄金山砲台より旅順口を望む (平成15.9.27)
中央狭い所が入口。
黄金山灯台 (平成15.9.27)
短艇でこの灯台を廻ったが嵐に遭い港に帰れなくなってしまった。
◯ 土城子の野外演習
○八○○ホテル出発、一路大連に向かう。大連から旅順に来る時と違う道を通っているようである。途中「土城子」という地名があった。一面山野が続いている所である。教育部時代、このあたりで昭和19年11月14日から18日まで、旅順と大連の中間にある土城子という所で、4泊5日に亘って野外演習が実施された。海軍に入ったのだから、陸軍のように山野を駆け回ることはないと思っていたが甘かった。海軍にも「陸戦」というのがあり、陣地攻撃、陣地防衛、遭遇戦、夜襲、追撃、離脱等と状況を変えてさまざまの訓練が行われた。
担務も交替で、中隊長をやらされたり、重機関銃を担がされたりで、その結果はいちいち教官によって採点評価される。重機関銃など四名で担ぐのだが、私は一番身長が低かったので、他の三名に負担がかかり、一緒に担ぐのを嫌がられたことを思い出す。また、多くの部下を意のままに動かすことが如何に難しいものかをいやというほど知らされた。
日誌をめくってみる。(原文のまま)
「一四日 野外演習第一日、警戒行軍、防禦ヲ行ヒテ土城子の宿舎ニ着ク。演習期間中ニ陸戦ヲ我ガモノニセン。一五日 陣地攻撃ハ苦シケレドモ、突撃終リテ優秀トノ講評ヲ受ケタル時ハ疲レモ一時ニ吹キ飛ブ感ス。一六日 夜間攻撃ヲシテ成果アラシムルタメニハ如何ニ訓練ガ必要ナルカヲ痛感ス。一七日 中隊長トナリ、刻々変ル敵情ヲ判断シ、適確ナル命令ヲ迅速ニ下スコトノ困難ヲ体験セリ。一八日 逃グル身ハ追ウ身ヨリモ辛シ。退却ハスベキモノニアラズ。週末所感 一 部下ノ実力ヲ遺憾ナク発揮セシムルト否トハ一ニカカッテ指揮官ノ能力ニアルコトヲ、今回ノ演習ニ於テ特ニ痛感セリ。二 四里ノ道モ走ラントセバ、走リ得ルモノナリ。何事モヤリ遂ゲル意志ト熱意ヲ有スル時ハ之ヲ成就シ得ルモノナラン。三 演習ニテ鍛ヘシ不屈不撓ノ精神ヲ以テ訓練ニ励ミ、ソノ能率ヲ倍加サセン。」
土城子における野外演習 (昭和19.11.14〜18)
◯ 特攻志願
昭和20年が明けて基礎教育も終りに近づく頃になると、次は何処に行くことになるのかが私たちの最大関心事となってきた。1月17日には術科学校の希望調書を提出することとなり、教官方は陸戦、対空、魚雷艇を奨めてくれたが、私は自分の経歴、技能から通信を最適と信じて「通信」を第一希望として提出した。
ところが修業式もあと一週間に迫った2月15日、大講堂に総員が集められ杉野教育部長から特攻志願募集についての話があった。要約すると、いま戦況は我に不利で、この不利から脱するためにわが海軍には水上ないし水中で使用される特攻兵器がある。実戦において威力発揮中の必殺兵器であるが、敵を攻撃後、生還を期することははなはだ困難であっても死ぬとは限らない。この点をよく考えて、特攻志願を考えるようにということであった。
部長の趣旨説明の後、各分隊ごとに集合が持たれ、そこで分隊監事から横5センチ、縦20センチくらいの細長い紙片が各人に配付され、それには「衷心熱望」「熱望」「望」「不望」の四つが記載されどれかを選択することとなっていた。
現在の時点で考えると実に重大な選択を迫られた訳であるが、あの当時は特攻志願は当然のことと考えていたようで、当時の日誌には
「昨日部長ヨリ話サレシ件ノ志望書ヲ提出、勿論「衷心熱望」ナリ。願ハクバ希望ノ叶ハンコトヲ」
と書いている。戦後当時の仲間に直接聞いたり記録などによると、中には随分迷ったうえで結果として「衷心熱望」と書いた者、また「不望」と書いて提出した者もいたようである。考えてみれば単純、良く言えば純粋だった訳で、あまり深刻に考えずに提出したように思う。
2月17日、学生生徒の術科学校別配属の発表があった。水上特攻の魚雷艇、震洋は長崎県の川棚魚雷艇訓練所へ、水中特攻の特殊潜航艇(蛟竜、海竜)は広島県の大竹潜水学校へそれぞれ入校することに決定した。私は希望が叶い、特攻組として大竹潜水学校へ行くことに決定した。
特攻以外の、砲術、陸戦、電測、通信、気象等の各術科別も同時に発表され、日本の各地に散ってゆくこととなった。
◯ 戦後再び旅順・大連を訪ねる
旅順における5ヶ月の訓練は私に精神革命を引き起したと言っても過言ではない。それだけに戦後もう一度訪ねてみたいと願っていたが、一般の人はなかなか行けない所のようであった。ところが戦友会の大川信男さんのお話がきっかけとなり、59年を経た平成15年9月25日から29日まで5日間、旅順・大連を訪ねることが出来た。
トラベル日本社の企画によるツアー「懐かしの旅順・大連旅行五日間」に参加したのであるが、私たち予備学生出身者は4名(夫人2名)で、残りは旅順中学校、旅順高等女学校等地元旅順の学校を卒業をした方々で、添乗員を含め総勢27名の団体であった。
団長の大川信男さんは今回で5回目の訪問とのことで、現地の事情をよく調べており、また人脈もあって、一般の旅行者では訪ねることが出来ないようなところにも案内して下さった。大連は開かれた国際都市で開放的な気分だったが、旅順はまだ中国の軍事基地で立ち入り禁止になっているところが多いようである。特に旧市街は軍事施設が多く、私たちが若い頃学んだ教育部のあったあたりも一般人はなかなか入ることが出来ない所のようである。また、旧市街に住んでいた人も多いのであるが、今回は個人個人が住んでいた家のあった所、学んだ学校を全部訪ねるという画期的ツアーであった。それだけに参加した方々はかって青春を過ごした所を目の当たりに見ることが出来、感激もひとしおだったようである。
私も夢に描いた予備学生教育部跡を訪ねることが出来感慨無量であった。さすがに当時の古い建物ではなく比較的新しい校舎に変わっている。聞けば中国の海軍職工大学とのこと。周囲にはこれも軍の施設と思われる建物が立ち並んでいる。当時スケートをやった蓮池らしいものも見当たらない。
二○三高地、東鶏冠山と往時の姿そのままのものを見て来ただけに、内心ここも59年前の姿が何か残っていることを期待していたが、思い出につながるものは何も見出すことは出来なかった。それでも写真は撮ってもよいとのことで、一緒に行った同期の桜4名に奥さん方にも入ってもらって記念写真を撮る。
旅順予備学生教育部跡(現職工大学)にて当時の仲間と
右端二人が私ども (平成15.9.27)
二○三高地、東鶏冠山、ヤマトホテル、黄金山砲台、土城子等については前述した。その他旅順博物館、白玉山表忠塔、水師営、星海公園、大連埠頭、老虎灘公演、大連駅等も訪ねることが出来、誠に有意義な旅行であった。瀬戸内巡りから始めた、私の青春思い出の地めぐりも漸く完結することが出来た。
はじめに1 海軍志願から入隊まで2 大竹海兵団から旅順へ3 旅順海軍予備学生教育部4 大竹海軍潜水学校5 大竹潜水学校 柳井分校6 倉橋島基地(大浦突撃隊)7 小豆島基地(小豆島突撃隊)8 戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会9 戦友会 − 旅魂会10 蛟竜艇長第17期会刊行の著作11 靖国神社・遊就館12 旧海軍兵学校13 海軍思い出の地・行事あとがき■ 資料 ■資料1 旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」資料2 「旅魂」編纂に関するアンケート回答資料3 宇都大尉 餞の言葉 士官の心得資料4 海軍時代によく歌った歌資料5 佐久間艇長を偲ぶ資料6 出陣賦(辞世の和歌集)資料7 「嗚呼特殊潜航艇」碑 その建立と除幕式の模様資料8 蛟竜艇長第17期会総員集合 参加記録資料9 佐野大和著「特殊潜航艇」 抜粋資料10 旅魂会 参加記録資料11 鉾立(恒見)教官 訓話資料12 田中穂積を偲ぶ資料13 旅魂会 最終回資料資料14 孫たちに伝え残したいこと資料15 ハワイ 真珠湾めぐり資料16 基地の地図