資料15  ハワイ 真珠湾めぐり



ハワイ 真珠湾めぐり


ツアー参加者に配布された資料


真珠湾の名前の由来は、その昔1739年に真珠が発見されたところによります。その後、カメハメハ大王は湾近辺の漁業を禁止し、真珠の採取権を握り、真珠は貿易の貴重品となりました。

昭和16年12月7日、真珠湾は日米太平洋戦幕明けの場となり、私達日本人には忘れられない名前となりました。日本帝国の満州、中国、インドシナに対する進駐を懸念した米国、英国、オランダの経済封鎖は、日本を武力により国家の利益を守ることしかないという悲壮な土壇場においやりました。東条英機大将が同年10月に首相の座について、この戦争は決定的なものとなりました。山本五十六提督は、米国のような大国を相手の勝利は奇襲攻撃によるものしかないと確信し、軍事上の理由から真珠湾をその奇襲の場として選択しました。

昭和16年12月7日(日曜)の未明、日本の外交使節はワシントンで米国政府要人と交渉中でしたが、33隻からなる日本の機動部隊(航空母艦6隻/戦艦2隻/巡洋艦3隻/駆逐艦11隻/潜水艦3隻/補給艦8隻)が、オアフ島北方200マイルの地点に進航しました。353機の日本の艦載機は、真珠湾に集中していた米国太平洋艦隊を撃滅せんと発進中でした。同日午前6時、航空母艦から第一次の183機(戦闘機43機、爆撃機49機、急降下爆撃機51機、魚雷攻撃機40機)がとびたちました。ついで午前7時15分、第二次の170機がとびたち真珠湾猛攻をかけました。オアフ島上空に接近した飛行隊は3編隊にわかれ、あるものは西側から、又他の一隊は北側から主目標のスコーフィールド兵舎、ホイラー飛行場を、そして残りの一隊はダイヤモンド・ヘッドをかすめ東側から真珠湾奇襲をかけました。当時停泊中の戦艦アリゾナを含む94隻のうち、18隻が撃沈又は撃破されましたが、そのうち13隻は修理され未曾有の米国大艦隊に復帰しました。

日本軍の格好の目標となり、約9分間で撃沈され悲劇的な最後をとげた戦艦アリゾナの艦内には、今なお艦長以下1,102名の遺体が眠っております。その英霊を慰める為、1962年にアリゾナ記念館が設立され、マストの頂きに国旗がひるがえり、感傷的理由から戦艦アリゾナ号は今なお現役中ということになっております。真珠湾攻撃の結果、米国将兵の戦死者は3,067名に達し、これに比べ日本軍の戦死者は55人でした。しかし、この奇襲は米国民を団結させ、どの地域社会でも”リメンバー、パールハーバー”(真珠湾を忘れるな)が合い言葉として繰返され、戦争目的遂行に挙国一致協力し、昭和20年9月2日には日本帝国の無条件降伏という絶対的勝利を米国にもたらせました。





はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−