資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答



「旅魂」編纂に関するアンケート回答


平成元年11月30日
84班 高橋 春雄


(Q-1)関係 (日本の現状並びに将来の認識)

このままでは日本は戦争に負けるかも知れないと思っていた。

(Q-2)関係 (学生として何をなすべきか)

兵役の年令にも達していたので、当然、軍人になるべきものと思っていた。

(Q-3)関係 (何故海軍をえらんだか)

<父親の影響>

父が海軍軍人で、この頃はすでに亡くなっていたが、その影響を受け軍人といえば海軍しか念頭になかった。

<映画の影響>

当時、「海軍」という映画が上映され、その中に出て来る海軍兵学校の生徒の短剣と、白い手袋をはめて敬礼する姿がとてもカッコ良かったので、海軍に憧れていた。

<知的な魅力>

身長が低く、陸軍では重い銃砲を持ち運ぶのはとても駄目、軍艦なら歩く必要もないし、なんとなくスマートな感じがするし、死ぬ時はみんな一緒だし・・・

(Q-4)関係 (出願から採用までの模様、想い出)

昭和19.4.20 海軍予備生徒志願票提出
〃   5.27 受験通知受領
〃   6. 4 筆記試験
〃   6. 8 身体検査、口頭試問
〃   8.29 採用通知受領
〃   9.18 入団のため故郷出発
〃   9.20 大竹海兵団入団

<好意の帰郷>

採用通知を受領したのが8月29日、そして9月20に入団すべしと書いてある。残された期間は20日程である。

私は東京にある学校に在学中であった。卒業試験が8月30日に終わったので、翌日から卒業式の9月15日までは、某所で勤労奉仕をすることになっていたので、卒業式を済ませてから郷里の新潟県に帰りここから入団するつもりでいた。

しかし、5日程勤務した頃、下宿先の叔母さんの口添えと、学校、勤務先の方々のご好意で、卒業式まで約1週間ほど帰郷することを許されたのは大変嬉しかった。

なかなか手に入らぬ汽車の切符を叔母さんが入手してくれたので、すぐ帰郷できた。ひとたび入団すればもとより生還は望めぬ身、この1週間はほんとに有難かった。久しぶりに母や弟妹たちと歓談し、農作業を手伝ったり、お世話になった方々への挨拶廻りをしたりして、有意義に使わせていただいた。これも関係の方々のご好意のたまものと感謝している。

<出 陣>

9月15日の卒業式出席のため13日に上京、宮城遙拝、明治神宮参拝、東郷神社参拝、海軍舘見学、毎日天文館のプラネタリウム見学などを行う。15日には卒業式をすませ級友や東京でお世話になった方々に別れを告げて再び帰郷、郷里から出陣した。

出発前夜は親戚、近隣の方々を大勢集まり盛大な壮行会を開き、得意の芸を披露し賑やかに送ってくれた。その夜は風が強く、またいくらか興奮していたとみえなかなか寝つけないまま、家の外に出て見ると満天の星空である。弟も外に出てきた。先日プラネタリウムで覚えた北極星の見つけ方を教えたりして、二人で星空を仰ぎながら語り合った。

18日は出陣当日。村の人たちも忙しい中を鎮守様まで送ってくれ、ここで出陣祭をしていただく。親戚の方は駅まで送ってくれた。12時07分、私の乗った列車は歓呼の声と日の丸の旗に送られて発車した。見送りの人々がだんだん小さくなり、とうとう見えなくなった時は流石に一抹の淋しさを禁じ得なかった。

その時は母の気持ちまで思いやるゆとりはなかったが、今にして思うと、4年前に夫を失い、やっとここまで育てた長男を戦地に送る母の気持ちはどんなだっただろう。私の淋しさなどと比較できるものではなかったのだ。

それでも長岡駅まではおじいさんと弟が一緒にきてくれたのは心強かった。長岡駅で待つこと3時間、15時58分発、大阪行きに乗り、おじいさん、弟と別れると、いよいよ一人ぼっちの旅である。

<大竹への道>

汽車は信越線を西に向かって走りに走る。窓の外をぼんやり眺めていると、突然海が見えてきた。日本海の荒波がどうどうと岸を打っている。やがて柏崎付近からは落日の光景に変わった。西の海が真っ赤に、まるで紅を流したようになったと見る間に、汽車は岩陰に入る。そこを出ると、さっき半分ばかり沈んでいた太陽がすっかり水平線下に没して、そのあとが赤々と美しく照り輝いている。始めて見る海洋の落日の荘厳な光景に魅せられて、淋しさも吹っ切れる思いである。

汽車は夜の北陸線に入り大阪には翌朝到着する。時間があるので駅の外に出て近くの中之島公園まで歩き、ここで持参の弁当で朝食をとる。おばあさんが孫のためにと心をこめて作ってくれた「チマキ」の味は忘れられない。

大阪駅に戻り19日10時35分発徳山行きに乗り、大竹には22時30分に到着した。旅館ももうしまっていて、開けてくれない。仕方なく駅の待合室で夜を明かす。

いよいよ入団当日の9月20日、山陽地方らしい素晴らしい快晴、午前9時に駅を出発、大竹海兵団の前にある休憩所でひと休みした後、決意もあらたに海兵団の門をくぐり、娑婆とお別れをする。

(Q-5)関係 (大竹海兵団から旅順到着まで)

<大竹海兵団>

○ 軍隊における最初の食事は麦飯ながら量が多い。東京で外食券で食べるのとは全然違う。やっと食べた程だ。おかずも魚の大きな肉がゴロゴロしている。

○ 入浴時、手拭を持って湯舟に入ることは絶対許されない。石鹸を包んで鉢巻きをして入る。だから遅く行っても割合きれいだ。

(Q-6)(Q-7)関係  省略

(Q-8)関係  (教科項目)

<天文航法と星座>

旅順だったのか、また誰に教えてもらったか忘れてしまったが、天文航法で星座を教えてもらったのは有難かった。1等星の名前と位置は全部覚えたように思う。

しかし、天測暦などをひきながら、海図の上で船の位置を出すと山の上に船が登ったりしてオカシかった。

自分の子供たちに夜空を仰ぎながら、星や星座の説明をしてやって、おやじの権威を示したのも、いまは懐かしい思い出となってしまった。

(Q-9)関係  (別科項目)

<スケート>

あの「蓮池」で生まれて初めてスケート靴をはかされた時は驚いた。全然立つことができないのである。しばらく氷の上を這い回っていたように思う。ようやく立てるようになっても、滑るどころではない。何日間かは足のスネが痛くて参った。

それでも、練習を繰り返すうちになんとか滑れるようになった。すると、今度は面白くなる。もう一冬くらいここで練習出来たら、かなりうまくなれたのにと思う。しかし、それまでいたら、完全にソ連行きだったろう。

<カッター>

旅順港外にある燈台を廻ってくるカッターの訓練が何回かあったが、ある時、港外には簡単に出たが、爾霊山から吹きおろす風が強くなり、いくら漕いでもカッターは港の方向には進まなくなってしまった。一時どうなることかと思ったが、結局、港へ入るのを断念し、地名は忘れたが港外の安全な場所に上陸することとなった。

湾口は非常に狭く、ちょうど日露戦争当時、旅順港閉塞隊が風ならぬ雨と飛びくる弾丸の中を進んだところ。あの狭い湾口は私たちにとって忘れえないところとなった。

(Q-10)関係  (行事、見学)

<203高地見学>

日露戦争当時を偲んでの突撃訓練、ただ、登るのでさえ大変な所。敵の銃弾の降りそそぐ中を突撃を繰り返した私たちの父や祖父。それだけに爾霊山に立って旅順港を見おろした時の感慨は格別であった。

<終業式・退隊>

杉野部長以下諸教官の見送りを受け、雪降る中を万感の思いを胸に込め、涙とともに教育部に別れを告げた光景は忘れられない。

(Q-11)関係  (野外演習・競技等)

野外演習をやってみて、陸軍でなく海軍に来て良かったと思った。

(Q-12)関係  (標準的な一日)

旅順でも自習のあとでは必ず、五省を行なったように思う。

(Q-13)関係  (外出)

リンゴだけは豊富に食べられたように思う。

(Q-14)関係  (居住区における生活)

<ハンモック>

○ ハンモックは案外寝心地が良かった。
○ 総員起こしでモタモタしていると、ハンモックを担いで練兵場を走らされた。
○ ハンモックの中で聞く「巡検」のラッパの音に何度涙したことか。

(Q-15)関係  (分隊の特色)

(Q-16)関係  (5ケ月間に大きく変化したか)

旅順における5ケ月間の教育は、私に精神的革命を引き起こしたと言っても過言ではない。

海軍兵学校の伝統を継ぐ教育方法なのだろうが、私たちを一人の人間として処遇し、また、紳士に育てあげるという気持ちが全教官にあったように思う。

「スマートで、目先がきいて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」
「五省」
「五分前の精神」

これらは耳に蛸ができるくらい聞かされた言葉であるが、これは海軍軍人だけでなく、誰にでもどこででも通用する教訓である。

私はこの教育を受けたことを誇りに思い、折にふれて自分の子供や、職場の部下に海軍精神を説いている。

(Q-17)関係  (その他)

<貴様と俺>

当初、この言葉が照れくさくて、なかなか口から出てこなかった。

<第一種軍装>

娑婆で憧れた第一種軍装と短剣が支給され、それを着用して記念撮影をした時はやはり嬉しかった。写真を見るとなんとなくギコチない恰好だが、馬子にも衣装でなんとか海軍軍人らしく見える。これを着て始めて外出した時の感激は忘れられない。

<寒さ>

旅順は「南満第一の健康地」という触れ込みであったが、それでも冬は東京などに比べると格段に寒い。居住区は二重窓とスチームの完全暖房であるが、浴室は別の棟にある。風呂から上がって一歩外へ出ると、湯気のたっていたタオルが一瞬のうちに凍って棒のようになってしまう。

旅順港は不凍港と言われているとおり、氷は張らなかったが、カッター訓練をやっていて、「櫂アゲー」の号令とともに、櫂を立てると櫂についた水が下に伝わってくるまでに凍ってしまう。





はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−