6  倉橋島基地(大浦突撃隊)



◯ 概 説 


昭和20年5月31日、山口県柳井の潜水学校柳井分校で学生課程を終了した我々は、340名のうち105名が海竜組となり横須賀へ赴任、残りの殆ど全員が蛟竜組となって広島県は呉軍港の南、倉橋島大浦崎(P基地)の実施部隊大浦突撃隊に赴任した。「P基地」には呉海軍工廠の分廠があって、我々が乗る「蛟竜」を建造していた。

そして、6月1日付で予備学生は海軍少尉に任官、予備生徒は海軍少尉候補生を拝命した。

同じ特殊潜航艇でも、真珠湾を攻撃した艇は「甲標的」と呼ばれており、搭乗員は2名、艇には充電のための発電装置がなく、蓄電池の容量のみに頼るため航続距離が短かかった。その後、「乙型」「丙型」と順次改善が図られ、昭和19年5月には「丁型」の試作一号艇が完成、20年5月には「甲標的丁型」は正式に特攻兵器として「蛟竜」と命名され正式採用された。各海軍工廠、民間造船所を総動員して大量生産の実現を図ったが、資材の不足や構造が複雑なこともあって建造はなかなか進まなかったようである。

「丁型(蛟竜)」はこれまでの「甲標的」にくらべて性能は大幅に改善された。搭乗員は5名となり、デイーゼル機関と発電機を搭載したため、停泊中、航行中の充電が可能となり、最大5日間の連続行動が可能となった。ただし「蛟竜」の艇内は、いままでの「甲標的」と同様非常に狭く、5人の搭乗員が5日間も寝起きする余裕がなく、3日間が限界だったという。

「蛟竜」搭乗員の訓練は当初すべて大浦崎「P基地」で、艇長、艇付、機関員、整備員に分かれて行われていた由であるが、特攻兵器として有力視されるにつれその人数も多くなり、「P基地」だけでは手狭になり、海上約六キロ離れた大迫の「Q基地」が講習員の宿舎に使用されるようになった。

我々は第17期蛟竜艇長講習員として、ここの大迫のQ基地を宿舎として、毎日機動艇に乗って大浦崎P基地の工場に通って「蛟竜」の構造を勉強することとなった


上中下

上 大浦突撃隊(現広島県立水産試験場)
中 昭和19年頃の呉海軍工廠大浦崎工場
下 倉橋島付近の地図


少尉候補生当時の筆者 (昭和20.6)

少尉候補生当時の筆者 (昭和20.6)




◯ 鈴木健之君の日記


我々はここではもっぱら蛟竜の機構の勉強に専念し、実際の搭乗訓練は小豆島に移ってから開始された。そのためか私自身もこの島での思い出といえば、機動艇に乗って毎日のように情島、小情島を見ながら大迫の「Q基地」から、大浦崎の「P基地」に通ったこと、海軍兵学校出身の連中と「棒倒し」をやったこと、上陸を許され呉に行く途中通った音戸の瀬戸が余りに狭いので驚いたことくらいである。

仲間で作った「貴様と俺の青春賦」に寄せられた、鈴木健之君が寄せられた文に当時の日記の部分があり、当時の模様を最も正確に伝えるものと思い、引用させていただく。


大 浦 の 日 々   鈴 木 健 之


最近身辺整理をしていたら、海軍当時の「日記帳」を発掘した。48年沈座していたものではあるが、内容はおぼろげながら憶えのあるものばかりであった。以下幾日かを抜粋する。

六月一日(金)

戰務甲 即ち第一線の内地大浦突撃隊大迫支隊での第一日である。
第十七期艇長講習員は、二区にある「V8」型士官舎に四分して居を定む、五班、二〇四名。思えばよく移転した。大陸の一角旅順を離れてから大竹海兵団の居候生活、柳井分校の隠忍生活を経て当地に来たが、今後は更に転々とすることだろうが、衣食住がついて廻るのだから気楽なものだ。
教育講習は第一線と誇るだけにウカウカ散歩も出来ない厳しさである。庁舎の黒板には「礼儀尊重」「敬礼厳格」「隊内駆歩」の三項が掲げられていて、守らないとドシドシ修正を喰うとの勝又指導官の言。この駆歩は困ったものだ。我々の二区の寝室から庁舎の士官食堂まで三度の食事に行くが、その間一、五○○メートルを走って往復する。当地の飯は白米のパリパリだが柳井程の量がないし、夜食もないことでもあり、満腹感を味わっている間がないのだ。この地は今をときめく特攻の草分け「一特基」だ。ハワイ海戦の岩佐中佐以下九柱の猛訓練の地なのだ。そのゆかりの地で現在十二〜十七期の艇長講習が行なわれている。
本日海軍少尉任官、誰も正式に任命してくれず、パットしない。しかし用意の良い者が呉で桜章を買ってきてくれ、夕刻襟章につける。予備生徒は少尉候補生になった。
(桜にうかれて軍艦旗降下に全員欠席し、当然総員修正があったことは記載してなかった)。

六月二十日

朝礼の時、顔の青く腫れ上った者が三名いた。まくわ瓜の二つ切を両ほほにつけた程に腫れ、口も目も小さくなっていた。昨夜の総員修正の結果だが、これ程ひどいのは初めてだ。ところが今日は更に荒れた。
午前中大浦に行ったが、帰路チャージを十八期(機関学校出身候補生)にやらせたとか、士官が整列して副直将校に届けたとか、人もあろうに、三笠大尉に二十名位が修正された。夕食後神山大尉より説教あり。
・士官舎の窓から小便をした者がいる、これは大浦始まって以来の不祥事である。
・一昨日身体に自信がないので艇長を止めさせてくれと申し出た者がいる、もっての外だ。
・昨日の口頭試問は自習時間まで続いたが、映画を見せてくれと当直が言ってきた。
このようなことは十七期が群衆心理にかまけて団結しておらん証拠だ。
これに続いて先任将校(山脇大尉)十八期指導官、予備学出身艇長らによる総員修正あり。その折修正する方が「ヘキエキ」してか列の中程に並んだ三班は四発、両端は十発余くらった。三班はなぐられてニコニコしていた。

六月二十二日(金)晴
午前中 普通学(舎前に椅子を並べて)
○九三○頃 B−29百余機大迫上空を経て呉方面に向う。轟音しばし、情島の「日向」も狙われたことだろう、十七期は防空壕でなく、W8型士官舎に避難す、機銃掃射は全くなかったが対空砲弾の破片がピュンピュンと落下するのは不気味だ。別課は十六、八期(候補生)連合軍一○○名と「棒倒し」、当期は半数に分かれて対戦したが二連敗だった。

六月二十四日(日)
朝礼後、手旗の査定あり。午前中、兵曹長による通信の講義。午後、自習室前で主任指導官による操縦法の講義あり、全員熱心に受けていた。別課は旗旒なり。
ここのところ、あまりになぐられるので馬鹿馬鹿しくなる。例えば手旗がとれない、答案の番号を間違えた、手紙の書き方が悪い等で呼び出され、説教となぐりがセットになっている。


後記
以上のような記録が続く。

以前当会報の「特攻こぼれ話」の中で回天要員らの死と常に直面する人間最大のストレスの毎日の中、理由もなく四六時中修正の嵐が吹き荒れることは、孤独感や悲壮感を越えて「国の為には死ねても海軍の為には死ねぬ」といった一種の厭世感にまで到達する環境を伝聞して、それに較べて十七期は何と好運だったことかと書いてしまったが、今回の日記を読んでみて、やはり十七期もまた苦境に耐えて、乗り越えて来たのだと再認識させられた次第である。


◯ 戦後始めて一人で倉橋島を訪ねる・「特殊潜航艇基地の碑」


昭和53年11月に戦後始めて倉橋島を訪ねた。戦時中の倉橋島は海軍の最高の秘密基地であり、滞在期間も短かったため島のどのあたりに居住していたのかおぼろげになっていたが、行けばどうにかなるだろうと思い出かけてみた。

呉の駅からタクシーに乗り、事情を話すと運転手はすぐ了解して、大浦崎のP基地跡という広島水産試験場に案内してくれた。往時を偲ばせる施設は何も見当たらない。試験場の門の前で写真を一枚撮ったがチョット淋しい気持である。

もう一つQ基地は私達が居住していた所なので、そこも訪ねたいと話したが、タクシーの運転手は知らないという。二、三の人々に聞いても知らぬ方ばかり。仕方なく予約してあった民宿に落ち着いた。翌日は江田島の旧海軍兵学校を訪ねる予定で倉橋島に宿を取っていたのである。

民宿の主人は原さんという方で役場に勤めており島のことをよく知っていた。Q基地のことに話が及ぶと、何年か前に海軍軍人だった方が来て碑を建てたことがあるから、おそらく其処のことだろうと、自分の車で案内してくれた。海岸に沿ってかなり走った所に立派な「特殊潜航艇基地」の碑を発見した時は本当に嬉しかった。

碑には「特殊潜航艇基地  大浦突撃隊 大迫支隊跡碑」と刻まれ、傍らには次のように建碑の由来が記されている。

「    建碑由来  
大東亜戦争方ニ酣ニ敵ノ反攻頓ニ熾烈ヲ加フル昭和十九年四月 海軍ハ此処ニ機密基地を設ケテ対岸大浦崎ノ特殊潜航艇P基地に呼応シテQ基地と称ス 同年七月第一特別基地隊ノ編成ナルヤソノ麾下ニ入リ二十年三月大浦突撃隊大迫支隊と改称 決死報国ノ将・・千・・・ヲ聚ム 處ハ是碧汀清冽ノ地 隊員・悉殉忠ノ士 朔風炎熱ヲ冒シ 敵必滅ノ技ヲ練リ 勇躍出撃セル若桜亦尠カラズ 然ルニ同年八月忽トシテ終戦ノ詔ヲ拝シ 整然隊を解ク 爾来五十余星霜 茲ニ往時ヲ追懐シ銘碑ヲ刻シテ後昆ニ伝フ」


大浦崎P基地跡

大浦崎P基地跡
広島水産試験場 広島県倉橋島 (昭和53.11)


特殊潜航艇基地 大浦突撃隊大迫支隊跡碑

特殊潜航艇基地 大浦突撃隊大迫支隊跡碑
広島県倉橋島 (昭和53.11)


大迫基地(Q基地)から大浦崎(P基地)方面を望む

大迫基地(Q基地)から大浦崎(P基地)方面を望む
右前方に見える情島、左の小情島の間を真っすぐに行くと大浦崎(昭和53.11)




海岸に立って大浦崎の方角を見ると脳裏に焼き付いている情島、小情島が眼前に見える。この二つに島の間を真っ直ぐ行くと大浦崎である。ここを毎日のように機動艇に乗って通ったのである。

碑から少し離れた海岸には機動艇の発着場とおぼしきものがまだ残っていた。耳を澄ますと機動艇のエンジンの音、艇に乗り込む若者を声が聞こえるような気がした。

海から目を陸の方へ向けると一面の蜜柑畑である。案内していただいた原さんの話では、このあたりには海軍の兵舎が沢山あったとのことである。ここに来るまでの途中に崩れかかった廃屋がいくつかあったが、かっては海軍の将校の宿舎だったのではないかとのことであった。

原さんのおかげで半ば諦めかけた大迫のQ基地跡を訪ねることが出来、感慨無量。原さんとはその後今日に至るまで文通を続けている。


Q基地 機動艇発着場跡 (昭和53.11)

Q基地 機動艇発着場跡 (昭和53.11)
ここから船に乗って大浦崎に行き、潜航艇の機構の勉強をした。
まだ当時の面影が残っていた。


Q基地 兵舎跡 (昭和53.11)

Q基地 兵舎跡 (昭和53.11)
一面の蜜柑畑だが、案内の原さんの話では海軍の兵舎が沢山あったとのこと。




◯ 長男と二人で倉橋島を訪ねる・「嗚呼特殊潜航艇」碑


昭和59年3月、私の定年退職を記念して、家族一同(と言っても 私達夫妻と長女、長男)で、私の青春思い出の瀬戸内各地を巡る8泊9日の旅を実施した。妻と長女は仕事があり、都合のつく期間だけ参加したが、長男は学校が休みだったので、全行程、私と行動を共にし、倉橋島のほか、江田島の旧海軍兵学校、呉、大竹、岩国、小豆島、鳴門海峡等、私の戦時中転々とした所を殆ど全部見てもらうことが出来た。

倉橋島ではもちろんP基地跡の広島水産試験場も訪ねたが、その近くの八幡山神社の境内に「嗚呼特殊潜航艇」の立派な碑が出来ているのを知り訪ねることが出来た。

石材は、呉市焼山の奥から運び出した堅牢を誇る黒瀬石とのことで、碑の裏面には次に記す建碑由来の文を刻み込んだ黒御影の石をはめこんである。

「  建  碑  記

昭和十六年十二月、太平洋に戦端開くや、長躯してハワイ軍港に潜入、米艦隊主力を強襲して緒戰を飾れるは、我が特殊潜航艇「甲標的」なり、即ち特別攻撃隊の初めとす、次で西はマダガスカル、南はシドニーに遠征、英濠艦隊を震撼せしめ、全軍の士気大いに振う、更にキスカにソロモンに転戦して戦局を支え、「特運筒」また前線の補給に挺身す、時に部隊は基地をここ大浦崎に設け、訓練また死生の間に進むも、戰勢ようやく利あらず、敵軍しきりに我が近海を侵す、我隊これを各地に迎え撃ち、ミンダナオに沖縄に「蛟竜」の戦果見るべきあり、「回天」またこの地に発して奮迅し、「海竜」ともども本土決戦に備う、二十年八月遂に兵を収め、戦没並びに殉職の英霊三百余柱を数う、戦友ここに相計り、その勇魂を仰慕し、特殊潜航艇の偉功をとどめて後世に伝う

昭和四十五年八月        特殊潜航艇関係有志建之」」


長男と一緒にこの碑を見ることが出来たのは感激であった。もちろん大迫基地跡にも足を運んだ。長男はこの時19歳、私が海軍に入った時と同じ年である。お前の年の頃親父はこんな所でこんなことをしていたのだというのを一度見てほしかったのである。家族一同にもその片鱗を見てもらうことが出来、まことに意義ある定年記念旅行になったものと思っている。

Q基地 特殊潜航艇基地碑

Q基地 特殊潜航艇基地碑 
長男と訪ねる (昭和59.3)


Q基地 機動艇発着場

Q基地 機動艇発着場
前回より小さくなってしまった。(昭和59.3)


嗚呼特殊潜航艇碑

嗚呼特殊潜航艇碑
広島県倉橋島音戸町 八幡山神社




◯ 「嗚呼特殊潜航艇」碑 その建立と除幕式の模様


小豆島時代の私達の教官、佐野大和氏が戦後「特殊潜航艇」なる本を著した。その中にこの「嗚呼特殊潜航艇」碑の建立と除幕式の光景が詳しく記述されているので、資料として引用させていただく。

特に特潜碑建立委員長八巻悌次氏の祭文は涙なくして読めない。氏は九軍神とともに訓練をともにし、シドニーの第二次特別攻撃に加わって出撃しながら艇の故障のため生き残り、終戦時にはP基地の特攻隊長として我々の指導にあたっておられた方という。どのような気持で祭文を読み上げられたことであろうか。

「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様


◯ 戦友たちと倉橋島を訪ねる・特攻基地大浦崎(P基地)の碑


平成4年9月には、戦友たち(17期蛟竜艇長会)と一緒に三度この地を訪ねた。この時は家内も一緒に同行した。

大浦崎の「P基地」の跡、広島県立水産試験場のあたりには公園が出来ており、その一角には「特攻基地大浦崎(P基地)」の碑が建っていた。平成4年2月建立とあるから、出来たばかりの碑である。碑には次のような文章が刻まれている。

「昭和17年10月極秘裡に工場の建設が始められ、翌18年3月操業開始。これが特殊潜航艇(甲標的)制作専門の呉海軍工廠分工場であった。また時を同じうして搭乗員の養成が始められ、受講者は艇長、艇付合せて約2,600名、内戦死者は439柱に及んだ。当基地の任務は甲標的の生産、搭乗員の養成、特攻兵器の研究、開発で昭和20年になると甲標的丁型(蛟竜)の完成をみ、一方「回天(人間魚雷)も実用段階に達して来るべき本土決戦に備えたが、同年8月15日終戦をむかえて基地は廃止され、現在は平和な公園、町民いこいの場所となっている。 平成4.2建之 」


特攻基地大浦崎(P基地) 碑

特攻基地大浦崎(P基地) 碑     
広島県倉橋島音戸町 (平成4.9)


嗚呼特殊潜航艇碑前にて同期の戦友

嗚呼特殊潜航艇碑前にて同期の戦友
広島県倉橋島 八幡山神社 (平成4.9)




「嗚呼特殊潜航艇」の碑の前で一同記念撮影、次いで大迫の「Q基地」跡に向かう。

「特殊潜航艇基地」の碑は以前に訪ねた時と同じ姿を保っていた。最初に来た時は私一人、次は長男と一緒。今回は家内も参加して戦友達と一緒である。「碑」も戦友たちに囲まれて心なしか嬉しそうに見える。

しかし、周囲の光景は訪ねる度に少しづつ変化しているようである。機動艇の発着場も最初の時はまだ、艇が発着出来るほどの高さがあったが、次の時は大分低くなっていた。今回はその一部分がやっと見えるだけ。おそらくこれから12年余を経た現在は何も見えなくなっていることであろう。

最初に訪ねた時は一面の蜜柑畑であったが、今回はビニールハウスが並んでいて、遠くからみると兵舎のように見えるのは私達の眼の錯覚であろうか。


Q基地  特殊潜航艇基地碑

Q基地  特殊潜航艇基地碑
艇長会の皆さんと (平成4.9)


Q基地  機動艇発着場跡 (平成4.9)

Q基地  機動艇発着場跡 (平成4.9)
発着場の跡は一部見えるだけになっていた。


Q基地跡  倉橋島大迫 (平成4.9)

Q基地跡  倉橋島大迫 (平成4.9)
ビニールハウスが兵舎のように並んでいた。




◯ 呉港、音戸の瀬戸


倉橋島勤務中、上陸と言って外出を許され、呉を訪ねたことはある筈だが、何処を訪ねたか思い出せないが、狭い音戸の瀬戸を通ったこと、軍港であるにも拘わらず、軍艦の姿はあまり見かけなかったことなどを朧気ながら覚えている。

戦後倉橋島を訪ねる時、呉の市内も訪ねてみた。港で海上自衛隊の潜水艦が軍艦旗が翻っているのを見た時は目頭が熱くなった。

また戦友たちと一緒に行った時は、潜水艦の館内見学も許され、息子のような青年士官に館内を案内してもらい、その姿に往時の自分の姿をだぶらせ、一同目を輝かせて艦内を廻った。

呉港  海上自衛隊潜水艦 (昭和53.11)

呉港  海上自衛隊潜水艦 (昭和53.11)


潜水艦見学  呉港 (平成4.9)

潜水艦見学  呉港 (平成4.9)


音戸の瀬戸と音戸大橋

音戸の瀬戸と音戸大橋  呉市、倉橋島 (昭和60.9)
上陸の時はこの瀬戸を通った。まだ大橋はなかったように思う。







はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−