8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会



小豆島での体験はまさに命がけの強烈なものであっただけに、私にとっては忘れ得ないものであったが、戦後は生活に追われて気にはかけながらも小豆島はじめ青春思い出の地を訪ねることは出来なかった。戦後31年を経た昭和51年に始めて一人で小豆島を訪ねた。その後家族や戦友たちと毎年のようにこの地を訪れるようになった。その足跡を辿ってみたいと思う。


◯ 戦後始めての小豆島訪問(昭和51年)

戦後31年を経た昭和51年7月、漸く小豆島再訪の機会を得た。一人で観光バスに乗る。


・ 寒 霞 渓


寒霞渓は観光のポイントになっているので下車見学が出来た。終戦直後、この山まで登ってウイスキーを痛飲、慣れぬ酒にすっかり足をとられ、戦友の肩につかまって下山したのを昨日のように思い出す。


寒霞渓 (昭和51.7)

寒霞渓 (昭和51.7)
終戦直後、隊員一同この山に登り、ウイスキーを痛飲、戦友の肩につかまって下山、2、3日寝込んでしまった思い出の山。




・ 太陽の丘


寒霞渓を後にしたバスは太陽の丘という所で止まる。ここからの眺めは素晴らしい。内海湾が目の下にある。私たちの基地はあの湾の一番奥まったあたりにあった筈だ。二十四の瞳の分教場もあの岬の突端のあたりにある筈だ。國破れて山河ありの感を強くする。 


太陽の丘より望む内海湾 (昭和51.7)

太陽の丘より望む内海湾 (昭和51.7)




・ 丸金醤油の工場


観光バスは草壁から土庄の方へ戻ってしまい、苗羽の方には行かない。仕方ないので、草壁で観光バスを降りタクシーを拾って基地跡を尋ねてみる。昔懐かしい丸金醤油の工場が見えて来た。工場の中に入って青年学校とか基地跡とか聞いてみるが、知っている人はいない。私の記憶もぼやけてしまっている。タクシーの運転手と付近を探してみたが結局分からなかった。31年の時の流れをしみじみと感じさせられた。

結局、私たちの宿舎であった丸金醤油の青年学校も分からず、かめや旅館の名前も思い出せず、丸金醤油付近の海岸から基地跡らしいと見当をつけて撮ったのがこの写真である。決定的な場所を特定できなかったのは残念であったが、30年余を経て小豆島を訪ねた感激は筆舌に尽くしがたいものがあった。高松〜土庄間を船で往復したのだが、懐かしい島山を眺め、波しぶきを浴びていると、何時の間にか心は海軍時代に戻って「軍艦マーチ」や「海行かば」を口ずさんでいた。


特殊潜航艇基地跡 (昭和51.7)

特殊潜航艇基地跡 (昭和51.7)
宿舎であった丸金醤油の青年学校も見付からず、基地跡らしいと見当をつけて撮ったのがこの写真である。




◯ 定年記念旅行で家族と小豆島を訪ねる(昭和59年)


昭和59年3月、定年記念旅行と称して、この地には家内と長男と一緒に訪ねた。

昭和51年に訪ねた時は寒霞渓と、丸金醤油の工場、その付近の海くらいしか分からなかったが、今回は、タクシーの運転手が宮山に忠魂碑があることを知っていて案内してくれた。


・ 忠魂碑 宮山


立派な忠魂碑や特殊潜航艇の模型の碑が建てられており、私どもが訓練に励んだ基地跡も眼下に見下ろすことが出来る。私ももちろんだが、家族も感動感銘したようである。

忠魂碑には播磨灘において芙蓉丸で訓練中敵機の銃撃にあって戦死された方々、私どもの指導教官だった伊熊隆平海軍中佐の名とともに、私どもの同期斎禎身、末竹十三雄、伊藤仁三郎中尉の名も刻まれている。

忠魂碑裏面には次のように記されている。

「大東亜戦争酣ナルニ方リ軍ハ昭和二十年五月二日特攻潜艦基地ヲ当内海湾ニ設ケ其ノ部隊本拠ヲ小豆島中学校ニ置キ以テ急迫セル本土防衛決戦ニ備エント日夜訓練ニ従事ス然ル処同年七月二十二日坂手湾沖海上ニ於テ空襲ニ遭イ此ノ戦闘ニ於テ伊熊少佐以下九士戦死ス尋テ八月二日播磨灘ニ於テ機雷ニ触レ堀川中尉外五士職ニ殉ス同月八日女神丸屋島沖航行中機銃掃射ノ遭難ニ下山中尉外一士又散華ス然リト雖モ旺盛ナル士気何ゾ之ニ屈セン奮起以テ時ノ到ルヲ待ツ突如終戦ノ詔ヲ拝シ全軍悲憤慷慨スレド奈何トモ為ス能ハズ大谷司令憂国ノ涙ヲ払イ切歯扼腕スル部下将兵ヲ慰諭シテ曰ク我等ノ任既ニ極マル唯一国民トシテ和平建国ニ尽サンノミト徐カニ隊ヲ解ク去ルニ望ンデ将士相謀リ戦没勇士ノ芳ヲ不朽ニ伝エント茲ニ霊碑ヲ建ツ後人能ク慰霊敬慕ノ誠ヲ致サンコトヲ、銘ニ曰ク
錦山秀岳聖海清温 十七英霊厳安陵園
一身殉国燦栄誉尊 粛然呑涙敬弔雄魂
昭和二十年晩秋
郷土中学校教諭勲八等 中村米次広光撰并書」


宮山 忠魂碑 (昭和59.3)

宮山 忠魂碑 (昭和59.3)
妻と長男を伴って訪ねる。タクシーの運転手が知っていて案内してくれた。



特殊潜航艇の碑 (昭和59.3)

特殊潜航艇の碑 (昭和59.3)
忠魂碑の傍らには潜航艇の模型の碑も建てられていた。




忠魂碑の傍らに石彫の蛟竜を型取った石を載せた建碑記が建てられている。

坂口忠次氏が「勇者の霊よ安かれ」と私費を注がれ「英霊が一命を捧げた特殊潜航艇の模型を刻んで勇魂を後世に伝え、永久にその栄誉をたたえる」との由来が記されている。


・ 二十四の瞳 岬の分教場跡


基地の近くには映画で有名になった「二十四の瞳」の岬の分教場がある。折角近くまで来たのだからと、家族とともに見学する。


二十四の瞳 岬の分教場 (昭和59.3)

二十四の瞳 岬の分教場 (昭和59.3)
基地の近くにあるので家族を案内する。



鳴門大橋 (昭和59.3)

鳴門大橋 (昭和59.3)
訪ねた時は鳴門大橋の工事も完成目前だった。




・ 鳴門海峡と鳴門大橋 (徳島県鳴門市?淡路島間)


特殊潜航艇の訓練を受けていたとき、出撃訓練ということで、あの小さな艇でこの鳴門海峡を渡り、徳島県阿南市橘湾の小勝島基地まで行ったことがある。鳴門大橋は建設中であった。観潮船に乗って海峡を渡ったがさすが鳴門の渦潮はすさまじい。ここを乗り越えて太平洋に出た時ホッとしたことを思い出す。 


鳴門海峡 (昭和59.3)

鳴門海峡 (昭和59.3)
四国の小勝島基地への出撃訓練の時には特殊潜航艇に乗ってこの海峡を通過した。




◯ 戦友会(蛟竜艇長第17期会総員集合)


小豆島再訪の翌年、昭和60年9月には小豆島で終戦を迎えた仲間達の戦友会(蛟竜艇長第17期会)の第1回総員集合が小豆島の基地近く、寒霞渓荘で開催された。仲間の桜井力、上原保郎、中尾英俊の皆さんが苦労して仲間の所在を確かめ、第1回の開催に漕ぎつけてくれた。

坂手港に近い寒霞渓荘というホテルに集合、用意してくれたマイクロバスで基地近くの宮山山頂の忠魂碑の前に向かう。軍艦旗の掲揚、神官を招いての慰霊祭、軍歌演習、記念撮影等を行った後、ホテルに戻り、総会、懇親会を開き旧交をあたためる。年によっては翌日海上慰霊祭、霊場めぐり、思い出の基地跡探訪などを行ってきた。

このような行事を第1回の昭和60年から20年後の平成16年の第20回まで毎年行ってきた。慰霊祭は宮山の忠魂碑前と変わらない。宿舎は主として寒霞渓荘であるが、寒霞渓荘が閉鎖されてからは、高橋旅館に場所を移して継続してきた。しかし会員も全員が80歳と高齢となり、世話人にも体調不良の方が出るに及んで、八幡神社に永代祭祀基金を奉納するなどの措置を講じて、16年9月の第20回会合をもって一応の区切りをつけることとなった。
平成17年からは有志のみ高橋旅館に集り宮山の忠魂碑で慰霊を行なうこととし、17、18、19と現在まで3年間、毎年10名程度が集り、慰霊の行事を行なってきた。今後何時まで続くかは神のみの知るところであろう。

私も病気で1回と、台風のため当初の予定が延期となった時の2回欠席したが、その他は全部参加することが出来た。また、この年1回の小豆島集合のほかにも各地で開催された行事にも参加してきた。その詳細は資料「蛟竜艇長第17期会総員集合参加記録」として収録したが、数々の思い出の中から特に印象の深いものを拾い上げてみる。


・ 第1回総員集合(昭和60年) 戦友と再会、基地跡の塔、当時の宿舎等の発見


40年ぶりに、しかも終戦を迎えた地での再会は感激であった。この戦友会は懇親の場だけではない。宮山の忠魂碑前に行き慰霊祭の行事を執り行うのである。慰霊碑の前には祭壇を設け供物を供えられ、神官も待機している。行事は先ず軍艦旗掲揚から始まる。テープレコーダーには軍艦旗掲揚の時のラッパの音も吹き込まれている。軍艦旗、旗竿も用意されている。ラッパの音にあわせて軍艦旗が掲揚される。私たちは一斉に挙手の礼をする。
次いで神事、祝詞の奏上、追悼の辞、玉串奉奠などの儀を終えると、一同で軍歌を歌う。軍歌集も用意されている。「艦船勤務」「如何に狂風」「軍艦マーチ」等を歌って最後は「海行かば」である。このスタイルは20年間変ることなく続けられた。


第1回総員集合 小豆島 宮山 忠魂碑前 (昭和60.9)

第1回総員集合 小豆島 宮山 忠魂碑前 (昭和60.9)



軍艦旗掲揚 忠魂碑前 (昭和60.9)

軍艦旗掲揚 忠魂碑前 (昭和60.9)
基地がすぐ下に見えるこの地で、戦友たちと一緒に軍艦旗に敬礼、慰霊の行事を終え、「海行かば」他軍歌を歌う。感慨無量。




宮山からの帰途、私達が居住していた宿舎(丸金青年学校)や基地跡に案内してくれた。宿舎は昔のままの姿を留めていたのには感激、かめや旅館も残っており、基地跡の風景も昔とあまり変わっていないように見受けられた。


私たちの宿舎跡 (昭和60.9)

私たちの宿舎跡 (昭和60.9)
丸金醤油の青年学校が私たちの宿舎であったが、当時の姿をそのままに残されていた。倉庫として使用されていたようである。



かめや旅館 (昭和60.9)

かめや旅館 (昭和60.9)
基地近くの旅館である。この旅館の左側の道を降りて行くと潜航艇の停泊地である。まだ昔の面影が残っていた。




基地のそばには古江庵という小さなお寺があり、寺の入口には「古江庵」の標識と並んで「特殊潜航艇基地跡の塔」の標識が立ち、寺の裏の小高い丘には、坂口忠次氏が中心となって建立した「特殊潜航艇基地跡の塔」が立っており、次のように刻まれていた。


「       永遠の平和を願って
多くの若人が広茫太平洋に通じるこの内海湾の基地で日夜訓練に励んだが、
昭和二十年八月十五日太平洋戦争終結とともに数ヶ月で解除された。併建の
寄進石はその当時四国琴平神宮から応召されたものである。

特殊潜航艇基地跡の塔

大洋の 波静まして 晩夏かな    一歩
平和なる 古き入江に 月上げて   艶華   」

また、碑の裏面には次のように記されている。

「       基地の概要
本   部     旧小豆島中学校
支   部     旧丸金青年学校
教育支隊      旧苗羽国民学校
隊   員     約二千名
潜 航 艇     十二隻
停 泊 地     古江湾
魚雷調整工場    古 江
火 薬 庫     宮山山麓
綜合基地      片城埋立地    
発 起 人     庭田 尚三
建 立 者     坂口 忠次
協 力 者     古江部落  山本石工所
          岩本松香園 吉岡 敏晴   」


特殊潜航艇基地跡の塔 (昭和60.9)

特殊潜航艇基地跡の塔 (昭和60.9)
このあたりの海面に特殊潜航艇(蛟竜)が停泊していた。




おそらく、戦友会に参加しなければ、この塔の存在を知ることは出来なかったと思う。参加した戦友たちも忠魂碑やこの塔、かつての宿舎などを見て感激ひとしおであった。

懇親会でも宴たけなわになると軍歌が出る。一同輪になって歌う「同期の桜」は忘れがたい。翌日の観光では「二十四の瞳」の岬の分教場跡、寒霞渓などを見て土庄港で解散した。


・ 海上慰霊祭・霊場めぐり


坂手沖の播磨灘において、私たちの先輩、同僚が多く戦死されている。陸上では毎年宮山の忠魂碑前で慰霊祭を行ってきたが、何回かは翌日、海上慰霊祭も行ってきた。芙蓉丸が銃撃を受けたと思われるあたりで、海中に花束を投じ冥福を祈ってきた。

また、小豆島には88ケ所の霊場がある。何回か総員集合の翌日霊場の何カ所かを巡って戦死者の冥福を祈ったこともある。特に極楽寺は戦死者の葬儀を行った寺でもあり、本堂に上がって一同で般若心経を唱えたこともある。


海上慰霊祭  坂手沖 播磨灘 (昭和61.9)

海上慰霊祭  坂手沖 播磨灘 (昭和61.9)



同上  (昭和63.9)

同上  (昭和63.9)



小豆島一番霊場 洞雲山 (平成1.9)

小豆島一番霊場  洞雲山 (平成1.9)          
小豆島には88ヶ所の霊場がありここが一番。



極楽寺 (平成3.9)

極楽寺 (平成3.9)
一同で「般若心経」を唱え、終って法話を聞く。




・ 追悼の辞を捧げる


慰霊祭では毎年誰かが追悼の辞を読むことになっているが、平成4年、第8回の総員集合では私に順番が廻ってきた。非才をも顧みず次のような一文を草し、戦友の霊前に捧げた。

「       追 悼 の 辞

本日ここに嵐部隊小豆島突撃隊蛟竜艇長十七期会会員相集い、第八回総員集合を行うに当たり、謹んで同期諸兄の御霊に申し上げます。

「国破れて山河あり」と申します。日本が敗れてからおよそ半世紀の時が流れ去りましたが、今ここ小豆島の一角に立って四囲を眺めますと、海や山、自然の風景は往時の面影をそのままとどめておりますが、ここに立つ当時の若者の頭には白いものが目立っており、自然の偉大さと、歳月の流れを痛感させられるのであります。

顧みますと、我等、昭和十九年祖国存亡の危機に臨み、拱手傍観するに忍びず、身をもって国難に殉ぜんと学業を擲って帝国海軍に身を投じたのであります。武山・旅順における基礎教育の過程で特攻隊を熱烈志願し、大竹潜水学校及び同校柳井分校に於ける術科教程、倉橋島に於ける潜航艇の構造実習を経て、最後はこの地小豆島に於いて特殊潜航艇艇長講習員として日夜を分かたぬ実地訓練に励み、出撃の日に備えていたのであります。

思い起こせば昭和二十年七月二十二日一三○○頃、坂手沖十五マイル、播磨灘洋上にありて魚雷発射訓練の標的艦として航行中の芙蓉丸に、敵戦闘機四機後方から襲来、繰り返し繰り返し機銃掃射を浴びせてきました。我が艦も十三ミリ機銃にて応戦せしも敵弾雨霰のごとく降り注ぎ、忽ちにして伊熊隆平少佐はじめ我等が同期、斉藤禎身中尉、末竹十三雄中尉、伊藤仁三郎中尉の三柱を含む九柱の方々が大きな犠牲となって散華され、今ここに護国の神としてお眠りになっておられるのであります。

醜敵も今こそ知るやこの花ぞ
国を埋めて今ぞ盛りなり 
斉藤 禎身

国のため君の為とて若人は
水漬く屍と出で征かむとす
末竹十三雄

我も亦軍神になる身ぞ心して
身つつしまん散る其の日まで
必ずや後に続かん回天の
聴きし勲に心しびれて
伊藤仁三郎

これは兄等が残された「出陣の賦」であります。我等とて同じく出陣の賦を残した仲間。死なば敵艦諸共と願っておられた兄等にとって、訓練中に敵機の銃弾にたおれるとは無念の極み、又死の瞬間には親兄弟のことが目に浮かんだことであろうと、その胸中を察し我等只々涙するのみであります。

この日より数えて四十七年、顧みるとまさに平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・」の言葉のとおりでございます。太平洋戦争の勝者米国は日本の経済力の前に圧倒され、同じ勝者の大国ソ連も崩壊してしまいました。また、ヨーロッパ、中近東、アジア諸国に於いては今なお戦争による難民が続出している状態でございます。

その間にあって日本のみが平和と繁栄を維持しております。もとより、この平和と繁栄、何時まで続くという保証はございませんが、ここまでもってこれたのは、ひとえに兄等はじめこの戦争に於いて尊くも護国の礎となり散華された多くの御霊に見守られつつ、生き残った我等の年代が中心になって、焦土と化した国土の再建に日夜努力してきた賜物と信じております。願わくはこの平和と繁栄が我等の子々孫々にまで永く続くよう、我等も一層努力することをお誓いするとともに、在天の御霊におかれても御加護を賜りますようお祈り申し上げる次第でございます。

「散る桜 残る桜も 散る桜」

我等も歳を重ねること七十年近くになりました。やがて皆散ってしまった後誰も訪れる人がなくなる日を心配しておりました。幸い在島の坂口忠次氏及び関係者の一方ならぬご尽力により、ここ宮山八幡神社宮司に忠魂碑の管理と永代祭祀をお願い出来た由承りました。然し、我等少しでも残っている間は出来る限りこの島を訪れて兄等と共に語り合いたいと念願しておるものでございます。

在天の御霊も、我等の意のある所をお汲みとり下され、安らかにお眠り下さい。

平成四年九月十二日

蛟竜艇長十七期会   高 橋 春 雄  合掌  」


宮司の祝詞奏上 (平成4.9)

宮司の祝詞奏上 (平成4.9)



筆者の追悼の辞 (平成4.9)

筆者の追悼の辞 (平成4.9)




・ 艇付、吉田孝至、武田実両君との再会


小豆島に着任直後、予科練出身の艇付4名を預かったことは前に記した通りであるが、奇しくも昭和63年第4回の総員集合の際、艇付の一人吉田孝至君と小豆島で再会することが出来た。本来この会は艇長のみの会であるが、この会の存在を知って私たち艇長の艇付で希望する者は参加を歓迎することとなり、この第4回会合には藤原達成君の艇付、服部邦久、古野善春君の艇付、加茂川仁巳君、私の艇付、吉田孝至君の3名が特別参加された。その翌年には吉田君の呼びかけで同じく私の艇付、武田実君も参加するようになった。両君の参加はその後も続き、毎年思い出の小豆島で旧交をあたためてきた。

小豆島での3人の再会は長年続いた。吉田君は奥さんが病気のため平成13,4年頃から欠席、武田君も足が弱って最近は欠席となってしまったのは残念であるが、戦後数十年を経て厚誼をいただいたことに心から感謝している。その他の艇付は1、2回の参加で終ってしまい、長年継続参加したのは私の艇付の二人だけ、他の艇長たちから羨ましがられてきた。思い出の写真を掲げてみる。


宮山 忠魂碑前にて (平成1.9)

宮山 忠魂碑前にて (平成1.9)
左より武田、高橋、吉田 



懇親会の席上で軍歌を歌う (平成4.9)

懇親会の席上で軍歌を歌う (平成4.9)
左より高橋、(臼田)、吉田、武田



寒霞渓荘ロビーにて (平成7.9)

寒霞渓荘ロビーにて (平成7.9)
左より武田、高橋、吉田




◯ 小勝島を訪ねる


平成元年、第5回総員集合の解散後、思い切って戦時中出撃訓練で行ったことのある徳島県阿南市橘湾の小勝島を訪ねてみた。その詳細を「会報」に掲載してもらったので抜粋紹介のこととする。


「橘湾、小勝島を訪ねて」  蛟竜艇長第17期会会報5号(平成2年) より

(前略)さらに、元海軍大尉佐野大和著「特殊潜航艇」なる著書に、決定的な記述があることを知るに及んで、私の長年の疑問は氷解した。そして、島の名前は小勝島であることがはっきりした。

それで、今回の第五回艇長会(平成元年9月)への出席を機に是非小勝島を訪ねてみようと思い立った。

しかし、島では突然訪ねても舟がなければどうにもならない。ガイドブックや時刻表などを調べても、島に渡る術はない。思いきって、阿南市の観光課に電話して、当時の様子や、見学の可否を聞いてみた。応対してくれたのが、賀上和代さんという若い女性の方で、「自分は当時のことは分からないので、誰か知っている人がいたら紹介しましょう」とのことであった。

一時間もしないうちに彼女より電話があり、「いま橘公民館の館長をしている沖野鉄夫さんという方が、当時のことを知っているので、電話してみたら」とのこと。

早速、沖野さんに電話する。「あまり詳しいことは知らないが、確かに海軍の基地があったようだ。今は無人島になってしまい、島にあがれるかどうかわからないが、島を廻るだけなら、舟を持っている人を知っているので、舟を出してもらうよう頼んであげてもよい」との嬉しい話。

願ってもないこと、早速手配をお願いし、今回の艇長会が九月十日午後、高松港で解散するので、汽車を乗り継いで阿南市まで行き一泊、翌十一日の午前九時、橘漁業組合事務所前でお待ちすることとした。

(中略)翌十一日も前日に劣らぬ快晴。午前九時、約束の沖野さんにお会いする。私と同年輩か少し若い位の温厚な紳士。日射しがきついからとわざわざ麦藁帽子を私のために用意して下さる。初対面の挨拶もそこそこに近くの舟着場へ向かう。

ここにはすでに沖野さんから話が通じている、湯浅公平さんという方が自分の舟を用意して待っていてくださった。七十歳くらいだが見るからに健康そうな、かくしゃくたるおじいさんである。聞けば戦時中にはこの小勝島には、防空壕もあちこち掘られ、高射砲の陣地もあり、従って軍人も大勢いたそうだ。湯浅さんはこの基地「小勝島」への食料輸送の検査の責任者としての仕事を担当しておられたとのこと。

当時、この地帯は当然軍の機密地帯となっており、めったに人の近寄れぬ所であったが、湯浅さんは仕事の関係上、何回となくこの島にフリーパスで出入りしており、従って当時の島の様子はよく知っておられた。又とないよい方に巡りあえたものと幸運を感謝する。
沖野さんもめったにない機会だからと一緒に舟に乗ってくれ、一行三名はいよいよ橘港を出発する。湯浅老人の慣れた手さばきでエンジンの音も軽快に舟はすぐ目の前に見える小勝島に向かう。小勝島は数年前までは何人かの人が住んでいたが、工業化するためとかで県だか大企業だかに買収され、今では無人島になってしまったとのこと。しかし、島の姿は昔と変わっていない由。


橘湾風景 (平成1.9)

橘湾風景 (平成1.9)
この湾内に出撃の基地があった。



小勝島 (平成1.9)

小勝島 (平成1.9)
訪ねた時は無人の島であったが、今は立派な発電所がある。




島のやや南西のあたりに近づくと湯浅老人は海の上のほうに、レールが見えないかという。今日は少し水が濁っていてそれらしいものは見えなかったが、水が澄んでいると舟を引き上げるために使ったレールが見える筈だという。レールの先の陸との境界線には石垣が積まれているので、壕に直結しているとも見えぬが、この石垣は戦後構築したもので戦時中はここから舟を引き入れたとのこと。

このほかにも壕は沢山あり、人だけが入れるところ、魚雷を引き上げるところ、舟もろともに入れるところとあって、お互いに地上で連絡できるようになっていたとのこと。

先ず島を一周して島の外観を見たうえで上陸してみようという。小勝島に沿って舟は進むが、そんな壕が地上に堀りめぐらされているとはとても思えず、私には緑の平凡な島としか映らない。途中、弁天島と称する小島の素敵な眺めを見せてもらったり、高島まで足を延ばしこの島が神武天皇ゆかりの島である話など聞いたりして、再び小勝島の出発点に戻ってくる。

どこか上陸して洞穴を実際に見ようというのだが、どこにでも舟を着けられるという訳にはいかない。海水の中に飛び降りるような装備はなにもしていない。それでも湯浅老人が用意してくれたゴム長を貸してくれたので大助かりであった。

壕はここにあるのだが舟をつけられないから、少し離れた昔の舟着場に舟を着け、そこから海岸を岩づたいに歩こうという。陸からだと草木がジャングルのようになっているので、海づたいのほうが良いという。老人は馴れたもので岩肌につかまりながら、海の中のすこし顔を出している岩の上を、その辺で拾った木を杖にしながら巧みに進んで行く。私は老人の指示に従いながら必死の思いで後に続く。沖野さんはスニーカー姿で海水には入れない。岩肌をよじ登ってなんとかついてくる。

ようやく目的の場所まで来た。磯から十メートルほど離れた所に壕の入口が見えてきた。しかし、入口の前には朽ち木や、発砲スチロールの空き箱が山のように積み上げられ、入口の上の部分が僅かに見えるだけ。老人が空き箱等を片付けてくれたので、少しは奥が見えるようになったが、数メートル先で行き止まりになっているようだ。昔は奥まで続いていたとのことだが、埋めてしまったらしい。ここは兵隊が通るための壕であったとのこと。

老人の後について壕の上の方に登ったが、まさにジャングルの中。湯浅老人は「エビネ」採集が趣味でこの程度は平気と言っていたが、私と沖野さんはこんなのは初めての経験。心細い限りであった。ジャングルをくぐり抜け見通しのきく所へ出ると、私たちの舟がすぐ下に見える。どうやらあの岩づたいの海をもう一度通らずに舟に戻れそうだ。背丈を越す草をかき分けてようやく舟に戻りホッとする。

老人からもう一ヵ所、当時本部のあった所に上陸して見ようという。古い家と舟着場が残っており、舟は簡単に着けるので上陸してみたが、壕の入口まではかなりの距離があり、またあのジャングルを突破するのかと思うと、とても行く気にならず、丁重に辞退申しあげた。

海の中にレールを敷き、そこから舟ごと引き上げるようになっていたというから、あるいは私の夢みた壕がこれだったのかも知れないが、海岸には石垣が築かれ、島は無人と化し、ジャングルが道を塞いで容易に人を寄せ付けない。四十数年、半世紀近い歳月の営みの前には私は脱帽した感じである。

湯浅老人は地面に壕の見取り図を描き、詳細に説明して下され、それがご自分の体験に基づくものであるだけに、感銘はひとしおであった。そしてこの島に縦横の壕が堀り巡らされ、大勢の軍人がここで起居していたこと、また、四十四年前、私の来たのもまさしくこの島であったことを実感する。

良き友、良き先輩により、私の夢の地が小勝島なることを確認でき、また阿南市の観光課の賀上さんのご配慮、沖野館長さんの最も適切な方のご紹介、湯浅さんというかけがえのない歴史の生き証人によるご案内により、私の永年の念願がようやく果たされたことは感激にたえない。

今回、思いきって小勝島を訪ねてほんとうによかったと思う。橘港へ戻り、三人で昼食をともにしながら往時を語りあい、名残を惜しみつつ、謝辞を述べて橘湾を後にした。」


[追記]

その後、沖野さんから「小勝島戦跡調査会」なるものが発足し、湯浅良幸氏がその会長になられたことを教えていただき、平成8年5月始めて湯浅さんにお手紙を書き、その後今日に至るまで文通が続いている。戦跡調査は平成7年1月から7月まで行われ、平成9年7月には報告書がまとめられ、私も一部頂戴した。その中には私が艇長会の会報に掲載した記事や、私が参考として送った佐野大和氏の「特殊潜航艇」の中の小勝島関係の部分も掲載されている。

この調査と前後して四国電力と電源開発の橘湾発電所の建設が始まった。そして最近湯浅氏から送っていただいた発電所のパンフレットによると、平成12年6月には営業運転を開始した模様で、かっての小勝島基地も長年の無人島の時期を経て近代的な発電所に衣替えしているようである。


艇引揚げ地跡  小勝島 橘湾 (平成1.9)

艇引揚げ地跡  小勝島 橘湾 (平成1.9)
石垣の中央部分少し形が変っているが、当時ここから艇を引揚げたという。


壕の跡  小勝島 橘湾 (平成1.9)

壕の跡  小勝島 橘湾 (平成1.9)
土砂や捨てられたゴミで入口は殆どふさがっているが、その存在は充分確かめられた。




◯ 小豆島88ヶ所巡拝(平成16年11月)


小豆島88ヶ所霊場のうち、何ヶ所かは17期会の行事で参詣したことがあったが、平成12から13年にかけて四国88ヶ所霊場を巡拝してからは、何時の日にか小豆島88ヶ所を巡ってみたいと思っていた。

蛟竜艇長第17期会の行事が平成16年9月の第20回総員集合で事実上の打ち切りになったのを機会に、念願の小豆島88ヶ所霊場めぐりを思い立ち、4泊5日で巡拝することが出来た。毎年のように小豆島を訪れていたが、何時も寒霞渓荘と宮山の忠魂碑が中心であった。
この巡拝で小豆島の隅々まで廻ることが出来、別の角度から青春時代を過した思い出の地を振り返ることが出来た。


小豆島88ヶ所霊場巡拝 (平成16.11)

小豆島88ヶ所霊場巡拝 (平成16.11)






はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−