13  海軍思い出の地・行事



以上、私が海軍に入ってから復員するまでの約1年間に亘って訓練を受けてきた旅順、大竹潜水学校、柳井分校、倉橋島基地、小豆島基地を中心にした思い出、戦後の訪問を概略ながら見てきた。

この項では、これら私が足跡を残した地とは直接関係ないが、海軍に関することで思い出に残るものを取り上げてみることとする。


◯ 大津島 回天基地跡  山口県徳山市大津島


「回天」も私どもの「蛟竜」と同じ海中特攻兵器である。しかも一人乗りで生還を期し難い人間魚雷である。大津島に立派な記念館が出来ていると聞いて訪ねてみた。旅順で一緒に学んだ仲間も大勢ここで訓練を受けた筈である。

基地の由来について、案内には次のようにしるされている。

「 昭和12年頃、旧海軍魚雷発射試験地がここ大津島に建設され、第2次大戦末期の昭和19年9月1日、回天の草案者、黒木、仁科両隊員が着任し、回天訓練基地が発足、直ちに訓練が開始された。

回天は、当時、世界最高の性能を誇った93式酸素魚雷を人間が操縦出来るよう改装したものであり、昭和19年11月8日菊水隊を第1陣として南太平洋各地に出撃、米艦隊の恐怖の的となった。この作戦に参加した若人は2,000余名にのぼり、このうち145名が回天特別攻撃隊員として南の海に散華していった。

記念館は、昭和43年、旧兵舎跡に彼等の遺徳をしのび建設され、遺品遺書約1,500点を展示、回天発射場跡も当時のまま保存され、まぎれもない現実を今に語りかける・・


最初に訪ねたのは昭和53年11月で、一人で訪ねた。海の中に突出して造られた魚雷発射場の入り口には「魚雷発射場 この地より海の砦として若ものは征く」と刻まれた碑が立っており、発射場も往時の姿をそのまま留めており、私たちの蛟竜停泊地のように何も残っていない所と違い、30余年の昔に引き戻されたような感じがした。

次回訪ねたのは平成5年9月で、蛟竜艇長第17期会の連中と一緒である。この時は回天記念館の館長さんが「回天」出身の方で、同じ特攻仲間の我々が訪ねてきてくれたと喜んでくれ、実に熱の入った説明をしてくれた。

記念館の庭には実物大の「回天」の模型も展示されている。

案内板によると全長14.5m、胴直系1.0m、全重量8.3t、最高速力30.0ノット、行動半径10ノットで78,000m、20ノットで43,000m、30ノットで23,000m、機関 93式酸素魚雷機関、燃料 酸素及び石油、軸馬力 550馬力、頭部炸薬量1.6t 等と記されている。

また、「回天烈士の芳名」の碑には多くの方の氏名が刻まれており、さらに「回天を搭載して出撃した戦没潜水艦」の碑には8隻の潜水艦名が記され、その乗員の数811柱と記されている。

万感の思いを胸に、魚雷発射場跡で記念撮影をする。


魚雷発射場跡 (昭和53.11)

魚雷発射場跡 (昭和53.11)



「回天」記念館 (平成5.9)

「回天」記念館 (平成5.9)



「回天」実物大模型 (平成5.9)

「回天」実物大模型 (平成5.9)



魚雷発射場跡で記念撮影 (平成5.9)

魚雷発射場跡で記念撮影 (平成5.9)




◯ 三机湾 九軍神訓練の地 愛媛県伊方町須賀公園


佐多岬半島の中央にある三机湾は地形が真珠湾に似ているところから、九軍神が真珠湾に見立てて特殊潜航艇の訓練をした所である。須賀公園内には佐藤栄作総理大臣書の「大東亜戦争九軍神慰霊碑」と刻まれた大きな碑が建っている。

その裏面には、九軍神の氏名を刻み、その下に次のような碑文が記されている。 

「 噫 殉国忠勇平和礎石ノ九軍神 昭和十六年十二月八日未明 大東亜戦争ノ先陣トシテ ハワイ真珠湾攻撃ニ挺身 決死隊第一号面目躍如 輝ク戦果ヲ挙ゲ マタ能ク我ガ空軍爆的ノ烽火トナリ海空呼応壮絶無比一大緒戦ヲ展開 自ラハ従容愛艇ト運命ヲ与ニシ 壮烈湾深キ所浪ノ華ト散リ行キシ九軍神 三机湾ハ当時日本ノ真珠湾トシテ諸勇士ノ特殊潜航艇ガ 一心同体生死諦観決死ノ猛訓練基地トナリ 海軍ヲ泣カシメル門外不出ノ秘境デアッタ。十七年三月  九軍神ノ勲功氏名ノ発表セラルルヤ 沈黙果敢天晴レノ最期ニ驚嘆シ三机ノ人々ハ感泣シタ。当時若桜ノ九軍神 マダガスカル・シドニー等デ散華シタ諸勇士ガ三机ニ遺シタ逸話美談ハ一斉ニ花ト咲イタ。歌書ヨリモ軍書ニ悲シ三机湾モ 今ヤ戦争ノ真珠湾カラ平和ノ真珠湾ニ衣更エ 日米ヲ真珠デ結ブ山紫水明ノ平和境トナリ観光客モ次第ニソノ数ヲ増シツツアル。九軍神ハ戦争ノ犠牲トナリ マタ平和ノ礎石トモナル 戦争放棄平和憲法治下国土平安ノ福祉国家トシテ 新生日本ハ逞シク前進スル。 嗚呼芳シキカナ護国の英霊 瀬戸町有志ハ広ク浄財ヲ募ッテ軍神由緒ノ地ニ慰霊碑ヲ建立シ ソノ功績ヲ敬仰スル。九軍神ノ英霊永久ニ瞑セラレヨ。 
昭和四十一年八月吉日」


平成19年10月、小豆島での戦友会に出席の途次、少し廻り道になるが思い切って訪ねてみた。幸い快晴に恵まれ、南国を思わせる公園も美しかったが、タクシーの運転手が案内してくれた権現山から眺める三机湾の眺望も素晴らしかった。


「大東亜戦争九軍神慰霊碑

「大東亜戦争九軍神慰霊碑」
愛媛県伊方町須賀公園 (平成19.10)



同上

同上



権現山から三机湾を望む (平成19.10)

権現山から三机湾を望む (平成19.10)




◯ 海軍予備学生碑と顕彰式


横須賀市の武山海兵団跡は現在、海上自衛隊横須賀教育隊になっているが、その敷地に「海軍予備学生碑」が建立されている。 この碑は昭和43年、第3期予備学生の有志が中心となって、横須賀教育隊司令上村嵐氏に懇請し、上村氏の当局との折衝により認可を得、昭和45年1月に完成した由である。碑の傍らの説明板には次のように記されている。

「海軍予備学生は、太平洋戦争開戦の直前、大学、高等専門学校出身者をもって、第一線指揮官として養成すべく、日本海軍に設けられた制度であった。これに選ばれて参加した若人は二万五千名におよぶ。

各地の海兵団、航空隊、台湾東港、旅順、館山あるいは各術科学校において夜を日につぐ厳しい訓練と専門教育をうけ、しかるのち海軍少尉に任ぜられた彼等は、直ちに戦場に向った。

太平洋全域から印度洋にわたる広大な戦域で、彼等はつねに第一線に立ち、ある者は特攻隊指揮官として勇戦奮斗した。海、空、陸に散華した若人は、その数三千八百名に達する。

当時彼等が訓練をうけたこの地武山海兵団跡にこの碑を建て、海軍予備学生を永く、後世に伝えようとするものである。

昭和四十五年一月十日   
海軍第三期兵科予備学生会」


海軍予備学生顕彰式では、海上自衛隊教育隊の皆さんによる軍艦旗掲揚、軍楽隊による国歌吹奏、昼食、分列行進などがあり、往時の自分たちの面影が偲ばれた。昼食時には隊員の皆さんと同じ席で隊員の話す機会も与えられたが、自分たちの国は自分たちで護らなければという気概が感じられ頼もしい限りであった。また、女性の隊員が一緒に訓練している姿は私には新鮮であった。


海軍予備学生碑

海軍予備学生碑
海上自衛隊教育隊 (平成18.6)



隊員の分列行進

隊員の分列行進



海軍予備学生顕彰式 参加者一同

海軍予備学生顕彰式 参加者一同
海上自衛隊教育隊 (平成18.6)




◯ 観艦式見学


平成18年10月、思いがけなく大阪にいる戦友の方から海上自衛隊の観艦式の切符を入手見学することが出来た。

横須賀の船越岸壁より掃海母艦「うらが」の乗艦、観音崎、剣崎を経て相模湾に出る。海上には何処から来たのか40数隻の艦船が集り、空中には多数の航空機、ヘリコプターが何回となく飛来する。まことに壮観である。潜水艦の潜航・浮上、飛行艇の離着水、対潜爆弾投下などの光景も見ることが出来た。

私たちの乗った「うらが」だけでも1,000人位は乗っているの思われ、それが40数隻も出るのだから観客の数も膨大なものと思われる。海上自衛隊の有様を自分の目で確かめることが出来、心強く思ったのではなかろうか。

観艦式を済んで出発点に戻る時は軍楽隊による音楽会となる。久しぶりに「軍艦行進曲」を聞き目頭が熱くなってしまった。


観艦式に集った艦艇部隊 (平成18.10)

観艦式に集った艦艇部隊 (平成18.10)



潜水艦の姿も見えた (平成18.10)

潜水艦の姿も見えた (平成18.10)



軍楽隊の演奏 「うらが」艦上(平成18.10)

軍楽隊の演奏 「うらが」艦上(平成18.10)



軍楽隊の演奏に聴き入る観客 (平成18.10)

軍楽隊の演奏に聴き入る観客 (平成18.10)




◯ 出陣学徒壮行の地


平成6年4月、靖国神社の遊就館で「学徒出陣五十周年 蘇る殉国学徒の至情」と題する特別展が開催されており、見学する機会を得た。その展示品の中に「出陣学徒壮行の地」と書かれた書があった。日本芸術院会員、日展理事長、日本画家、大山忠作氏の筆になるものとのことである。これを碑にしたものが千駄ヶ谷の国立競技場入口に建立されたと記されているのを見て、同年11月国立競技場を訪ねてみた。

展示のものと同じ文字が刻まれた碑が建っており、碑の下には碑の由来が次のように刻まれている。

「 昭和十八年(一九四三)十月一日、勅令により在学徴集延期臨時特例が公布され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年十二月、約十万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。

全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年十月二十一日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺七十七校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってその実況を報道した。翌十九年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。

時流れて半世紀。今、学徒出陣五十周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。

平成五年(一九九三)十月二十一日
学徒出陣五十周年を記念した
出陣学徒有志  」


この壮行会の場面は、学徒出陣が話題になるとテレビなどでも繰り返し報道されている。この時、私は逓信省の学校「逓信官吏練習所」一年生に在学中であり、この会には参加しなかったが、翌年私たちも学徒出陣ということで、海軍に入ることとなった。

碑の近くには学徒出陣五十年を記念して「同期の桜(染井吉野桜)」「萬朶の桜(八重桜)」等が植樹されていた。碑の向こうには国立競技場の建物が見える。競技場に立つと場内はひっそりとしていて、ここであの壮行会やオリンピックが開催されたとは信じられないように静まり返っていた。


「出陣学徒壮行の地」書  遊就館 (平成6.4)

「出陣学徒壮行の地」書  遊就館 (平成6.4)



「出陣学徒壮行の地」碑  国立競技場入口 (平成6.11)

「出陣学徒壮行の地」碑  国立競技場入口 (平成6.11)



同上  国立競技場入口 

同上  国立競技場入口 



国立競技場  港区北青山 (平成6.11)

国立競技場  港区北青山 (平成6.11)




◯ ハワイ 真珠湾


昭和59年4月、定年を記念して家内とともに念願の地、ハワイの真珠湾を訪ねてみた。真珠湾といえば太平洋戦争幕開けの地、航空機と特殊潜航艇により奇襲をおこなった所である。私たちの大先輩、九軍神の偉業を偲んで一度訪ねてみたいものと長年願っていたがようやく念願を達成することが出来た。

真珠湾めぐりというコースがあるのでこれに参加した。先ず真珠湾の入口が思ったより狭いのに驚いた。防潜網が張り巡らされており、しかも敵の砲火の降り注ぐ中を、この狭い水路をもちろん潜航したままで、よく艦隊が集結している湾の奥まで入りこんだものと感服した。

船内の放送は英語のため、私にはよく理解出来なかったが、当時の戦闘の模様を説明しているものと思う。いただいた資料によると、当時停泊中の戦艦アリゾナを含む94隻のうち、18隻が撃沈又は撃破され、米国将兵の戦死者は3,067名に達しているとのことである。日本中が踊りあがって喜んだ大戦果であったが、この奇襲は米国民を団結させ、「リメンバー、パールハーバー」が合い言葉として繰り返され、日本帝國の無条件降伏という形になってしまった。

湾内にはマストの上に国旗をひるがえした建造物が見られる。撃沈された戦艦アリゾナの英霊を慰めるために造られた「アリゾナ記念館」ではなかろうか。またアメリカ海軍の軍艦や潜水艦ともすれ違う。当然のことながら、ここは今でも立派なアメリカ海軍の軍港なのだ。

船の中はほとんどがアメリカ人はじめ外国人で、日本人は我々二人だけ。気のせいか白い目で睨まれているように感じて、あまり良い気持ではなかった。

真珠湾で撃沈された特殊潜航艇5隻のうち引き揚げられた1隻が、江田島の旧海軍兵学校の資料館前に展示されている。その詳細は「旧海軍兵学校」の項で紹介したとおりである。


アリゾナ記念館  真珠湾 (昭和59.4)

アリゾナ記念館  真珠湾 (昭和59.4)



真珠湾地図 (昭和59.4)

真珠湾地図 (昭和59.4)



米国潜水艦 (昭和59.4)

米国潜水艦 (昭和59.4)



米国軍艦 (昭和59.4)

米国軍艦 (昭和59.4)




◯ キャンベラ 戦争博物館 特殊潜航艇実物


日本生産性本部主催の豪州・ニュージーランド産業経済調査団の一員として、昭和57年7月、この地を訪ねた際、幸運にもこの博物館を見学することとなり、思いがけない所で陳列されている蛟竜と再会することが出来た。

太平洋戦争の最中、昭和17年5月31日、シドニー湾東部に到着した3隻の潜水艦から、松尾艇、中尾艇、伴艇と3隻の特殊潜航艇が発進、シドニー湾内に停泊中のオーストラリアの艦艇を襲撃した。

中尾艇は防潜網にからまり身動きがとれなくなり、自爆。伴艇は湾内深く進入に成功、接岸中の停泊母艦「クタバル」を撃沈、厳重な警戒をしりめにふたたび防潜網海面を抜けだし外洋に出たらしいが、母艦に帰りつくことはなかった。松尾艇は3艇の中では一番遅く湾内に入った。敵に発見され爆雷攻撃を受け、多少被害を受けたもののそのまま50メートル下の海底で5時間以上も攻撃のチャンスを待った。動き出した巡洋艦「シカゴ」を左前方にとらえた松尾艇は魚雷発射のレバーを引いた。ところが爆雷攻撃を避けて海底に激突した時、艇首の保護枠に発射管の蓋が引っかかって落ちなかったため、不運にも魚雷が出ない。艇もろともに体当たりを敢行することを決意、哨戒艇「シーミスト」に体当たりしようと直進したが、うまくかわされ逆に砲撃、爆雷攻撃を受け艇は傷つき沈下を始めた。海底に着座した艇内の松尾大尉と都竹二曹は拳銃で壮烈な自決を遂げた。

オーストラリア海軍は、松尾艇の最後を確かめるや、その日のうちに艇の引き揚げにかかり、松尾艇および中尾艇が引き揚げられた。6月9日、ロックウッドの墓地で厳粛な海軍葬が行われた。オーストラリア海軍は自国の軍人がもっとも立派に祖国に殉じたのと同じ最高栄誉礼をもって四人を遇したのである。四人の遺体はそれから、日本の習慣にしたがって荼毘に附され、遺骨は一時葬儀所の遺骨安置室に安置されたが、昭和17年8月13日、オーストラリア政府から駐豪日本公使の手に託された。

司令官グールド少将はラジオを通じて次のような放送を行ったという。

「潜航艇のシドニー攻撃で戦死した日本の勇士の葬儀を、丁重な海軍葬によって行なうことにつき、予に対し国内にある程度の批判が行われている。しかし予はあえてこれを行なう。何故ならば我が国の兵士や水兵が戦死せる際に、敵国が同様にかかる名誉をあたえんことを希望するからである。・・あのような潜航艇を操縦するには最大の勇気を必要とする。」と述べている由である。

そして、2隻の潜航艇は首都キャンベラの戦争博物館に、つなぎあわせるような形で陳列されたのである。同行の連中も私がこれと同じ艇で訓練を受けていたと知り、びっくりした様子であった。


シドニー湾を攻撃した特殊潜航艇

シドニー湾を攻撃した特殊潜航艇
オーストラリア キャンベラ 戦争博物館 (昭和57.7)



同上の解説 (昭和57.7)

同上の解説 (昭和57.7)



艇の前に立つ筆者

艇の前に立つ筆者
オーストラリア キャンベラ 戦争博物館 (平成57.7)




◯ ワシントンDC 航空宇宙博物館


平成2年、アメリカを旅行した際、ワシントンの航空宇宙博物館を訪ねた。年間1,000万人以上の人が訪れる人気の高い博物館である。この博物館には日本の零戦戦闘機が陳列されていた。また日本海軍の艦艇の絵や、真珠湾攻撃の絵も掲げられていたので紹介する。


日本海軍艦艇の絵  航空宇宙博物館 (平成2.8)

日本海軍艦艇の絵  航空宇宙博物館 (平成2.8)
潜水艦に搭載されているのは特殊潜航艇と思われる。



真珠湾攻撃の絵  航空宇宙博物館 (平成2.8)

真珠湾攻撃の絵  航空宇宙博物館 (平成2.8)







はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−