資料5  佐久間艇長を偲ぶ



大竹潜水学校で訓練を受けていた昭和19年19年3月、外出を許され、岩国市装港小学校で、我々潜水艦乗りの大先輩、佐久間艇長の遺品や「最後の遺言」を見て感激したことは「大竹潜水学校」の項に記載したが、戦後、艇長の遺徳顕彰会に出席したり、遺跡を訪ねたりしたのでその一部を紹介させていただく。


○ 佐久間艇長遺徳顕彰祭


平成10年4月、戦友会の行事で艇長の出身地である福井県三方町で開催された「佐久間艇長遺徳顕彰祭」に参加し、海上自衛隊の音楽演奏、英国大使館付武官のスピーチに感銘を受け、またさまざまの資料も入手出来たのでその一部を紹介のこととする。


海上自衛隊音楽隊による佐久間艇長を偲ぶ音楽会

海上自衛隊音楽隊による佐久間艇長を偲ぶ音楽会
福井県三方町 佐久間記念館 (平10.4.15)



佐久間艇長生誕地記念碑

佐久間艇長生誕地記念碑
福井県三方町 佐久間記念館(平10.4.15)



英国大使館付武官  ロバートソン大佐によるスピーチ

英国大使館付武官  ロバートソン大佐によるスピーチ
佐久間艇長遺徳顕彰式  佐久間記念館 (平10.4.15)



佐久間艇長顕彰祭

佐久間艇長顕彰祭
小浜市小浜公園 佐久間艇長銅像前 (平10.4.15)



同式典  戦友会代表として献花する筆者

同式典  戦友会代表として献花する筆者
佐久間艇長銅像前 (平10.4.15)




・ 「沈勇」 (戦前の小学校六年生用修身教科書より)


明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口県新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出来て海水が侵入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽しましたが、艇はどうしても浮揚りません。その上悪ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないようになったので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいって来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺書を書きつけました。

遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守ったことを述べ、又この異変のために潜水艇の発達の勢を挫くような事があってはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくわしく記してあります。次に部下の遺族が困らぬようにして下さいと願い、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。

艇の引揚げられた時には、艇長飫以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだありありと見えていました。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。

格言  人事ヲ尽クシテ天命ヲ待ツ。


・ 第六号潜水艇 艇長:佐久間勉海軍大尉


明治43年4月15日 09:50、第六号潜水艇は山口県新湊沖において半潜航実験の後、全潜航に入り海底沈座などの潜航訓練を開始した。しかし間もなく海水が浸入し必死の排水作業にも係わらず、佐久間勉艇長以下14名を載せた六号艇が再び自力で浮上することはなかった。

翌16日に沈没した艇体が発見され、17日になって浅瀬に回航された。当時の潜水艇の性能から生存者の望みは無かった。問題は乗組員が帝國海軍軍人として相応しい死に方をしているか、という一点にあった。直近で外国の海軍に同様の事故があり、乗組員の醜態が世間に知られていたからだ。

「よろしいっ」。まさに絶叫であった。引き揚げられた六号艇の状況を検分した吉川中佐の絶叫は号泣に変わり、男泣きに泣き崩れた。艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は空気圧搾管の前に、14名の乗組員は全員それぞれの部署を離れず艇の修復に全力を尽くし、従容として見事な最期を遂げていた。

その後、収容された佐久間艇長の遺体のポケットから遺書が発見された。沈没後電燈が消えて、酸素は刻々と消費されていく。ガソリンによる瓦斯は艇内に充満し、おそらく部下は一人また一人と絶命していったことだろう。佐久間艇長はそのような環境の下、天皇陛下の艇を沈め部下を死なせる罪を謝し、乗組員全員が職分を守った事を述べ、沈没の原因・沈据後の状況を説明した後、公言遺書を記している。

公言遺書 

謹んで陛下に白す 部下の遺族をして 窮するもの無からしめ給わんことを 
我が念頭に懸るもの之あるのみ

当時、事故に対する遺族への補償金などの支払規定は無かった。佐久間艇長の遺言は上奏され、勅命によって直ちに裁可された。

「十二時四十分なり」と記して遺書は終わっている。


・ 佐久間艇長について  佐久間榮(佐久間艇長の甥)


佐久間艇長といっても、今の若い人には、ご存知ない人が多いと思うが、大正時代の学校教育に、「修身」の教科書があり、その中で「沈勇」という題名で、佐久間艇長のことがのっていた。

私が小学校六年生のときであるが、或る日突然、担任の先生に呼ばれて、「明日の修身は、君の伯父さんにあたる佐久間艇長のところだから、一言何か話しをしなさい。」といわれ、家に帰り、父(艇長の実弟)に、その話しをしたら早速、便箋一枚位いの文章を書いてくれたので、翌日、その文章を読み上げて、安堵の胸をなでおろしたのを覚えている。

佐久間艇長は、明治四十三年(一九一〇年)四月十五日、岩国市新湊沖で、第六潜水艇の艇長として、潜航訓練中、不幸にして艇の故障により、部下十三名と共に殉難した。

翌々日、艇は引き揚げられたが、総員十四名が、自己の持場を、はなれず殉職しており、又、艇長の上衣の内ポケットから、九七五文字に及ぶ遺書が発見された。その内容が発表されるに及んで、日本国内は勿論、国外の人々も、感動し、その沈着な勇気に対して称賛を送ったのである。

時に、艇長は享年三十才の若さであり、平時における殉職であるので、進級はなく、靖国神社にも祀られていない。

艇長の遺書には、「責任感、使命感、沈着な勇気、人間愛、感謝」の精神が漲っており、戦前の教科書の最後に、「格言」として、のっていた「人事を尽して天命をまつ」そのとおりの最後だったのである。

当時、病床にあった文豪・夏目漱石が、この遺書を名文と激賞し、歌人・与謝野晶子が追悼歌を十余首も読んで賞賛している。

毎年、四月十五日の艇長の命日には、そのゆかりの地である呉市、岩国市、福井県の各地で慰霊祭が盛大に挙行されているが、昭和六十二年(一九八七年)以来駐日英国大使館付海軍武官が、二年おきに、各地の慰霊祭に参列されており、流暢な日本語で、「スピーチ」をされている。

現在、英国ロンドン市の南部にある「ゴスポート潜水艦資料館」には、艇長のコーナーがあって、艇長の写真や遺書のコピーが展示してあり、艇長の遺訓をたたえ、英国人の士気を鼓舞しているということを、スピーチで述べている。

かく考えるとき、現在の日本は、佐久間精神を思いおこし全国民あげて、精神面の教育に立ち上がらなければならないと痛感するものである。


・ 「 佐久間 艇長 の遺言 」


小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ 我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ

沈没原因

瓦素林潜航ノ際 過度深入セシ為「スルイス・バルブ」ヲ諦メントセシモ 途中「チエン」キレ依ッテ手ニテ之シメタルモ後レ後部ニ満水 約廿五度ノ傾斜ニテ沈降セリ

沈拒後ノ状況

一、傾斜約仰角十三度位

一、配電盤ツカリタル為電灯消エ 悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ感ゼリ 十四日午前十時頃沈没ス此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力ム

一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ 燈消エ ゲージ見エザレドモ「メンタンク」ハ排水終レルモノト認ム 電流ハ全ク使用スル能ハズ 電液ハ溢ルモ少々海水ハ入ラズ 「クロリン」ガス発生セズ残気ハ五00磅(ポンド)位ナリ 唯々頼ム所ハ手動ポンプアルノミ「ツリム」ハ安全ノ為メ ヨビ浮量六00(モーターノトキハ二00位)トセリ (右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)

溢入ノ水ニ溢サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ 余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ 細心ノ余リ畏縮セザラン事ヲ戒メタリ 世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス

一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ 排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ 此ノ辺深度ハ八十尋位ナレバ正シキモノナラン

一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス カカルトキニ困ル故 幸ニ本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽セリ 満足ニ思フ 我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス 
サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出シノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ必要ナシ田口浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)

公遺言
謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ

左ノ諸君ニ宜敷(順序不順)
一、斎藤大臣  一、島村中將  一、藤井中將  一、名和中將  一、山下少將
一、成田少將  一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如キ感アリ)  一、小栗大佐 
一、井手大佐  一、松村中佐(純一)  一、松村大佐(龍)  
一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ)  一、船越大佐   一、成田綱太郎先生 
一、生田小金次先生
十二時三十分呼吸非常ニクルシイ
瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ ガソリンニヨウタ
一、中野大佐
十二時四十分ナリ


・ 英国大使館付武官ロバートソン大佐のスピーチ


今を去る88年前、広島湾において、第六潜水艇が遭難し、その結果、悲惨にも佐久間艇長以下乗組員すべてが殉職した事故について、皆さんはよくご存じのことと思います。

私も潜水艇乗りの海軍大佐であり、これまでに3隻の異なった潜水艇長をした経験がありますので、私は今から88年前に広島湾の第六潜水艇内において、佐久間艇長と艇員がいかに卓越した勇気と献身的責任感を示したかが、特によく理解できると信じております。

われわれ潜水艇に勤務するものは、潜水艇勤務上準拠すべき安全規範を樹立するのに貢献して、尊い犠牲となられた初期の人々の勇気とお手本に、多大の恩恵をこうむっているのであります。それらは「良き潜水艇乗りの処置」として知られているものであり、さらにそれらは、種々の過ちや初期のころの機器の欠陥のどから、水中で安全に操作する方法を学んだ。あとの世代の潜水艇乗りの必須知識となっているものなのであります。

今日、海中に全没したら3か月以上の間、浮上しないでいられると考えられています。私が艇長をした原子力潜水艇では、このようなことはごくありきたりの行動でした。われわれが機器の安全性と信頼性の上に立ってこのようなことができるという事実は、これらを可能にした佐久間艇長のような先人たちの、勇気とお手本があったればこそなのであります。

この意味におきまして、私が佐久間艇長の勇気と職分意識と献身的責任感の驚嘆すべきお手本を、いくら高く賞讃してもし過ぎることはありません。艇長と艇員の最後は必至、という最悪の事態において、艇長がとった処置行動は、単に潜水艇のみならず、世界中の危険な職業に勤務するすべての人々の規範として存続しているのであります。

日本では、佐久間艇長をはじめとするこれら国際的に認められている英雄たちを大きな誇りとしておられます。皆さんが今後とも永く引続いて艇長を奉賛され、その卓越した模範的遺徳を顕彰されるよお祈りいたします。

どうもありがとうございました。


・ 上坂康 「佐久間艇長は真の紳士である」(抜粋)


内外に与えた感動

六号艇員の立派な最後に関する報道は、艇長の遺書の内容とともに、4月21日から翌日にかけて世界中を駆け巡り、各国の人々、特に海軍軍人に深い感銘を与えたのであった。中でも、その数年前の潜水艇沈没事故に際し、悲惨な乗員の最後を経験していた英仏両国海軍からは、さすがに日本海軍軍人は立派であるという賛辞が早々と寄せられた。このほか、ドイツ皇帝、トルコ皇帝、イタリア海軍大臣など多くの各国代表が、続々と弔意を表されたのであった。

言い遅れたが、六号潜水艇沈没の悲報に憂愁に包まれていた日本国内は、艇長の遺書によって事の次第を知り、朝野をあげて艇員の立派な最後を賞讃したのである。

この内外に与えた大きな感動は、やがて義えん金募集の声となってこだまし、その総計は約5万6千円の多額に達した。そこでそのうち2万5百円ずつを等分に遺族に贈り、残りの2万1千円をもって呉市河原石の鯛宮神社境内に記念碑を建立した。これは高さ19mのれんが石造りの円柱塔であり、大正元年(1912)年11月29日に除幕式が挙行された。

トンプソン大佐との出合い

昭和59年12月11日、東京における海軍同期生のパーテイで、駐日英国大使館付武官R.H.Stewart THOMPSON大佐にお会いする機会を得たので、早速尋ねてみることにした。話の前に儀礼的に「貴官は日本の第六潜水艇のことをご存知ですか」と確かめてみた。するとトンプソン大佐は「オー、イエース」と大きな声で答えた。私は今でもこの時の、失礼なと言わんばかりの彼の顔を忘れることができない。それもそのはず、大佐も佐久間艇長の崇拝者だったのである。そして彼は、次のような話をしてくれたのであった。

その年の始めころ、日本に赴任する準備をしていたトンプソン大佐は、ロンドンのレストランで、日本の商社マンと会食をしたことがあった。その際、彼は「ここイングランドにおいて、戦前から、そして現在でも、英国軍人に尊敬されている日本人がいます」と言って佐久間艇長の名前をあげたところ、そこにいた数名の商社マンは、一人として艇長のことを知る者はいなかった。そこで驚いた大佐は、六号艇遭難の話を詳しく説明してやらなければならなかったというのである。・・

英国ポーツマスの対岸ゴスポーと基地にある王室海軍潜水資料館の中に、佐久間艇長の遺書の写しとその英訳及び説明が今でも展示してある。


○ 第六号潜水艇殉難顕彰碑 呉市 鯛之宮神社境内


平成18年4月20,21の両日、私たちの戦友会、旅魂会最終会の会合が呉市の森沢ホテルで開催された。海軍墓地参拝、入船山記念館、海上自衛隊呉地方総監部(旧呉鎮守府)、大和ミュージアム等を見学の後、希望者のみ9名がこの「第六号潜水艇殉難顕彰碑」を訪ねた。

115段の石段を登ると神社の境内には、高さ19メートルの巨大な顕彰碑が建っている。顕彰碑の周囲には「佐久間艇長の遺書」「乗組員の氏名」「遭難の経緯」「潜水艇の絵」が組み込まれている。
また、塔の傍らの説明板には顕彰碑建立の由来が次のように記されている。


「        第六号潜水艇殉難顕彰碑由来 

第六号潜水艇は、明治39年、わが国で始めて建造された排水量僅か57トン、水中速力3ノット、水上でも8ノットで、当時「どん亀」と呼ばれ、それまで外国から購入したものに比べ、最小のものでありました。

すべて艇の劣勢は訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から第六号艇も、訓練につぐ訓練を重ねていたのであります。

しかるに、不幸にも明治43年4月15日、呉港を出航した第六号潜水艇は、山口県岩国新湊沖で半潜航訓練中、遭難し、艇長佐久間大尉以下、乗組員14士と共に海底に沈没したのであります。

「艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」佐久間艇長の遺書の一部に書き残されているとおり、遭難沈没した午前10時から12時40分まで、乗組員全員、最後まで持ち場を離れず、修復に力を尽くしつつ従容として死を迎えた崇高な使命感は、佐久間艇長の沈着剛勇の精神とともに、日本国民はもとより、全世界の人々に深い感銘を与えました。

この事蹟は、国民精神の鑑として、広く共感を呼び、大正3年呉港ゆかりのこの地、三津田丘鯛の宮境内に、各方面から拠出された浄財により、高さ19メートルの壮麗な殉難記念碑が建立されました。
その後、毎年4月15日には、盛大な慰霊・追悼式典が催されて今日に及んでおります。 
  第六号潜水艇顕彰保存会  謹記 」 


第六号潜水艇殉難顕彰碑  呉市 鯛之宮神社 (平成18.4)

第六号潜水艇殉難顕彰碑  呉市 鯛之宮神社 (平成18.4)



同上

同上




○ 第六号潜水艇殉難者記念碑 岩国市 


平成19年10月、小豆島にける戦友会に出席の途次、少し回り道になったがここを訪ねてみた。岩国駅から国道を北に向かいかなり走った所に「第六潜水艇記念碑」の看板がある。記念碑までは急な坂であるが、小高い山の上は広場となっていて大きな記念碑が建っている。

傍らの案内板には「佐久間艇長の遺書」の抜粋が記されている。眼下には瀬戸内の海が広がっている。「第6潜水艇の沈没場所」の案内図によると、現在地より当方約2000メートルの地点とのことである。


第六潜水艇殉難者記念碑  岩国市 (平成19.10)

第六潜水艇殉難者記念碑  岩国市 (平成19.10)







はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−