旅順海軍予備学生教育部での基礎教育が終り、昭和20年2月20日修業式、満州、朝鮮半島を経て広島県の大竹潜水学校に着いたのは2月26日、いよいよ特殊潜航艇艇長講習員としての訓練が始まる。潜水艦の乗船見学、地文航法、天文航法、通信、機関等々。1ケ月後の3月30日には山口県の柳井分校に移る。
ある日全員が集められ、出陣の賦を書けと言われる。いわば辞世の句を作れということである。
瀬戸内の海の底より龍となり 皇国(すめくに)護る時機(とき)近づきぬ
が私の句である。訓練は厳しかったが、たまの外出で眺めるのどかな瀬戸内の春の風景、カッターでよるの海を漕ぐと櫂が水を切る度に夜光虫がキラキラと光る風景などは戦時とは思えないものであった。
6月には倉橋島へ移り大浦崎の造船所で建造中の蛟龍(特殊潜航艇)の実物についてその機構を勉強した。
7月には小豆島の基地に移っていよいよ本物の潜航艇に乗っての訓練である。
艇は4人乗りである。艇長のほか4人の艇付がいる。艇付は縦舵、横舵、通信、機関を受け持つ。私も予科練出身の武田実、吉田孝至、平田稔、南昭二の4名を部下として預かった。このうち武田、吉田の2名とは昭和63年以来、毎年小豆島での戦友会で顔を合わせる幸運に恵まれている。
播磨灘で毎日の訓練が続いたが、米軍機の空襲も激しくなり、魚雷攻撃訓練の目標艦に乗っていた同僚が敵機の銃撃にあって何人か戦死した。
決号作戦も発令されて、私たちも四国南岸、現在の阿南市橘湾の小勝島にある出撃基地まで、鳴門海峡を越え出撃の訓練を行った。ここで待機して敵の現れるのを待つのである。
いよいよ小豆島突撃隊の全艇出撃の時がきた。8月13日、小豆島にいた10隻の蛟龍は橘湾に向けて出撃した。私たちの艇は修理のため玉野の造船所に行っていたので実際の出撃には参加できず、8月15日の終戦は玉野の造船所で迎えた。出撃した先輩同僚たちも終戦になったので小豆島に戻った。このような状況の下、戰争がもう少し長びいていたならおそらく四国沖で水漬く屍となっていたことと思う。
(海軍関係ついては、別のホームページ 特殊潜航艇「蛟龍」(海軍の自分史) に詳細に記述してあるので、そちらも参照願いたい。)
外出日丘の上より眺むれば 戦さなきごと春の瀬戸内
音戸瀬戸渡れば呉の大軍港 連合艦隊いづこにありや
橘湾小勝島なる秘密基地 もとより生還望めぬところ
憤懣のはけ口求め戦友と 痛飲したり寒霞渓にて
「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−