小豆島で終戦を迎えた私は昭和20年8月、郷里の新潟県小出町に帰ることが出来た。何の顔(かんばせ)あっておめおめ帰れるかという気もないではなかったが、母や弟妹たちの喜ぶ顔を見て生きて帰れた喜びを実感することが出来た。
官練を卒業しすぐ海軍に入ってしまったが、逓信省での身分は東京中央電信局となっていたので復員した旨報告したところすぐに上京勤務せよと言うことになった。
幸い焼け残った電信局の玄関の前には進駐軍の兵隊が立っているのに驚いた。敗戦を実感させられる。直ちに外信課へ配属。日本の国際通信を一手に取り扱うところである。
仲間達もどんどん復員してきた。寮もお粗末、食糧も不足、窓からやっと乗るほどの満員列車に乗ってサツマイモを買い出しに行ったりしながらの生活であったが、私たちの仲間は学問に対する情熱は失っていなかった。それぞれ高等文官試験(間もなく廃止になった)、司法試験、公認会計士試験などを目指して勉学に励んでいた。
私は豊山中学(夜間)を経て、早稲田専門学校(後の早稲田大学第二政治経済学部一夜間)へ進み、昭和26年3月に卒業できた。
早稲田に行っている頃、勤務先(電電公社になっていたと思う)でも有名大学に委託研修生を派遣する制度が出来、私も運良く選ばれて一橋大学(国立市)で昭和25年度一年間勉強させてもらった。昼間一橋大学、夜は早稲田と二足の草鞋をはいて勉強した。せっかく会計の勉強をしたのだからと26年の公認会計士二次試験を受験したところ幸運にも合格することが出来た。三次試験を受けて会計士として独立することも真剣に考えたが等々踏み切れなかったが、これが縁となって勤務先でも経理の仕事を担当することとなった。
負けいくさ残念無念と思えども じわり沁みくる生ける喜び
母上の喜ぶ姿前にして 生きて戻りし喜びを知る
国家試験目指す若者多くいて なまけ心によき刺激受く
選ばれて一橋大委託生 一年間の研修を受く
試みに受けたる公認会計士 二次試験には合格の栄
終戦・復員記念 家族一同と山吉叔母さん (昭和20.9)
豊山第二中学校 (昭和21年頃)
一橋大学にて 研修生仲間と (昭和26.3)
早稲田大学にて ゼミの仲間と(昭和26.3)
公認会計士第二次試験合格証書(昭和26.8)
「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−