私の履歴書10 KDD発足、経理部勤務、太平洋横断海底ケーブル建設資金調達
 (昭和26-37年)(26-37歳)

昭和26年3月、一橋大学の研修を終了すると元の職場、中央電信局に戻ったが、この頃から電電公社の国際通信部門を民営の会社にする話が出始め、昭和28 年4月には国際電信電話株式会社(KDD)が発足し、私たちは自動的に新会社に移り私は間もなく本社の経理部に勤務を命ぜられ、爾来主としてKDDの経理畑を歩くこととなった。

最初は会計課で伝票を切ったり帳簿を付けたり決算諸表を作ったりしていたがそのうち財務課の資金係主任を仰せつかった。資金調達や財務が主な仕事である。昭和 35-36年頃になると日本とアメリカとの間に太平洋横断海底ケーブルを建設しようと言う話が持ち上がってきた。当時の金で100億円以上の資金が必要だという。その時のKDDの資本金は33億円。その3倍もの金をしかもアメリカで調達しようという話になってきた。

経営陣の間で基本方針が打ち出されると日本興業銀行や米国の投資会社キダー・ビボディを介して調達のための仕事が動き出した。そのためには早速KDDの財務諸表その他を英文で作成しなければならない。国際電話の会社だから外国と折渉する国際部門には英語の出来る人はいるが、経理部には英語の出来る人は余りいない。否応なしに資金係で対応しなければならない。米国のATTの財務諸表を参考にしたり、3人の係員で英語の会計の本を買ってきて輪読会を始めたりの俄か勉強である。

そのころは日本で外債を発行した会社は1,2社ある程度で前例も見あたらない。戦時中敵性国語というので英語など余り勉強していなかったのが悔やまれたが後の祭り。

資料を作る方も大変だったが、その資料で外国と折衝するお偉方はもっと大変だったろう。それでも話は順調に進捗して37年6月には同時経理部次長(後のKDD社長)増田元一氏がアメリカに渡り直接交渉することとなった。


新会社設立されてKDD お役人から新会社員

新会社経理の仕事命ぜられ それ以後たどる経理屋の道

太平洋横断ケーブル建設の 資金外資で調達すべし

財務課の資金係の主任なり 逃げも隠れも出来ない立場

外国に届ける資料作るため 仲間とともに英書の研究

KDD大手町ビル 昭和30年9月完成
KDD大手町ビル 昭和30年9月完成

財務課事務室 (昭和33.5)
財務課事務室 (昭和33.5)

財務課忘年会 浅草鮒忠 (昭和35.12)
財務課忘年会 浅草鮒忠 (昭和35.12)



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「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−