私の履歴書66 謡曲名所めぐり(大阪、南紀の旅)に参加して 平成20.5.13〜15
宝生流教授嘱託会では40年以上も前から、毎年2泊3日の謡曲名所めぐりを実施している。私も平成元年から病気で2回 ほど欠席したがそれ以外は参加してきた。今年の第42回の大阪、南紀(紀伊、伊勢)の旅にも参加したのでその概要をガイドブックからの抜粋と自分で撮った写真で紹介する。
◯ コースのあらまし
第1日 5月13日(火)
新大阪集合 参加約40名、大型バス1台で出発→難波宮跡→四天王寺→大阪市内・づぼらやで昼食→応神天皇陵→蟻通神社(奉謡「蟻通」)→玉津島神社→新和歌の浦温泉・萬波(泊)
第2日 5月14日(水)
ホテル→得生寺(奉謡「雲雀山」)→道成寺→潮岬(潮岬観光センターで昼食)→橋杭岩→熊野那智大社・青岸渡寺・那智の滝→勝浦港(船3分)→紀伊勝浦温泉・ホテル中の島(泊)
第3日 5月15日(水)
ホテル→尼将軍供養塔・黒潮公園(車窓)→熊野速玉大社(奉謡「巻絹」)→花の窟神社(車窓)→鬼ヶ城→(車中昼食)→斎宮跡・竹神社→伊勢神宮・内宮→宇治山田駅(解散)
観光順路略図
◯ 難波宮跡 大阪市中央区法円坂 「難波」「芦刈」
「難波」のクセに「高き屋に登りて見れば煙立つ、民のかまどは賑ひにけり」と仁徳天皇の仁政を述べている。皇居の場所はこれまで高津神社(中央区高津)として紹介されてきたが、近年の発掘調査により「難波宮跡」が本命視されてきた。
「芦刈」に「忝くも仁徳天皇この難波の浦に大宮を造り給ふ」とあり、この辺りは往時大阪湾の海水がこの近くまで寄せており、海上交通の要衝であったが、今は埋立てで陸地化し面影はない。
史跡 難波宮跡の碑
難波宮跡公園
◯ 四天王寺 大阪市天王寺区四天王寺 「弱法師」
「弱法師」では少年俊徳丸が天王寺境内をよろめき歩き、また四天王寺の縁起も説かれている。この寺は日本仏法最初の大寺で聖徳太子が建立した。
往時、四天王寺の西側は、大阪湾からの入江がすぐ側まできており、海に沈む落日は四天王寺からそのまま見ることが出来た。とくに、彼岸の中日には太陽が石の鳥居の中心を通って落ちる神秘的な光景となり、世に言う「天王寺さんのお浄土参り」として名高い。
四天王寺
四天王寺
◯ づぼらや、通天閣 大阪市
昼食は大阪の通天閣のすぐ近くの「づぼらや」という所でとった。通天閣がすぐそばにあるので、食事のあとバスの集合時間までの短い時間の間に数名の仲間と駆け足で展望台まで登ってきた。予想外の副産物である。
づぼらや 大阪市
通天閣 大阪市
◯ 応神天皇陵 羽曳野市譽田 「花筐」「呉服」
「花筐」には「応神天皇五世(いつよ)の御末」が継体天皇と紹介し、また「呉服」には織物製作技術を伝えた二人の女工渡来が「応神天皇の御宇(ぎょお)かとよ」と御名が出てくる。
応神天皇御陵
応神天皇御陵
◯ 蟻通明神 泉佐野市 「蟻通」
紀貫之が紀州からの帰り道に蟻通明神の前を通りかかった時、乗っていた馬が急に倒れてしまった。道行く人が蟻通の神のたたりだというので、急ぎ「かき曇りあやめも知らぬ大空に蟻通をば思うべしやは」と詠んで奉ったら、たちまち馬が回復したという話がある。
蟻通明神
明神の由緒を刻んだ碑
◯ 玉津島神社、山部赤人の歌碑 和歌山市和歌浦 「草紙洗」「鸚鵡小町」
「草紙洗」には「既に衣通姫此道のすたらんことを嘆き、和歌の浦に跡をたれ、玉津島の明神よりこの方、皆此道をたしなむなり」とある。
「鸚鵡小町」の中には「いかに小町。業平玉津嶋にての法楽の舞をまなび候へ」とあり、また曲中に「和歌の浦に、汐満ちくれば、かたを浪、芦辺をさして田鶴鳴き渡る」と、万葉歌人、山部赤人の歌が歌われている。玉津島神社の直ぐ近くの塩釜神社にその歌碑がある。
玉津島神社
山部赤人の歌碑
◯ 得生寺 有田市糸我町 「雲雀山」「当麻」
豊かな才能のため継母にうとまれ捨てられた藤原豊成公の娘(中将姫)受難の場所。
毎年5月14日が中将姫の命日で、二十五菩薩の来迎会式が行われる。今回の名所めぐりはちょうどこの日にあたり、舞台造りの作業が進められていた。お会式は午後3時頃とのことで賑わいは見られなかった。「雲雀山」の奉謡を行う。また中将姫が作ったという曼荼羅も見せていただく。
得生寺 お会式の当日でその準備が進められていた
中将姫が織ったと伝えられる曼荼羅
◯ 道成寺 和歌山県日高川町 「道成寺」
安珍・清姫の悲恋物語で有名。
境内には、安珍が鐘諸共焼かれた「鐘楼址(鐘巻の跡)」、溶けた鐘と安珍の亡骸を埋めた「安珍塚」、再び鋳造された鐘がまた落ちた「再興鐘楼址」などがある。
道成寺
鐘巻の址(鐘楼址)
安珍塚
再興鐘楼址
◯ 橋杭岩 和歌山県串本町 「高野物狂」
「その昔、串本にやって来た弘法大師と天邪鬼。弘法大師の鼻を明かしてやろうと企んだ天邪鬼は、一晩で大島まで橋を架ける架け競べを持ちかけた。ところが、大師は山から巨岩をひょいと担いで海中に立てると、2・3時間の間に早くも橋杭がずらりと並んだ。このままでは立派な橋が出来上がってしまうと、焦った天の邪鬼は大声で鶏の啼き真似をした。タイムリミットと思った大師は仕事を途中で止めてしまった」のが今の姿の由。
ここで一同の記念写真を撮る。
記念写真・橋杭岩
◯ 那智の滝・飛瀧(ひろう)神社 那智勝浦町
大滝の落差は133m、銚子口の幅13mと日本一の大きさを誇るが、下半分は岩に砕けて飛散し滝壺まで直下していない。滝壺の水は、すぐ下流にある「文覚荒行の瀧」を経て、静かに流れて那智川となり、熊野灘に注いでいる。(文覚がここで修行した時荒行で命を落としたところを、不動明王の童子2人に助けられたという伝説がある。)
飛瀧神社
那智の瀧
◯ 熊野那智大社 和歌山県那智勝浦町 「巻絹」
那智大社は、本宮大社、速玉大社とあわせて「熊野三山」といわれ世界遺産。
参道入口から500段近い石段を登ると、朱塗りに社殿が白い玉砂利と那智の原生林の緑に映えて、神聖な雰囲気を醸し出している。境内にはしばしば熊野参詣した平重盛手植えといわれる樹齢800年余の大楠が聳えている。
宝物殿に接して八咫烏を祀る御県彦(あがたひこ)神社があるが、八咫烏は神武天皇ご東征の折に道案内をしたという伝説の烏である。
熊野那智大社と平重盛手植えの大楠
八咫烏を祀る御県彦神社
◯ 青岸渡寺 那智大社に隣接
青岸渡寺は、天台宗の寺院で如意輪観世音を祀り、西国三十三ヶ所観音めぐり第一番札所として、全国より多くの信者・参詣者が訪れる。
本堂後方には、朱色の「三重の塔」が聳え、滝見の適所。また、那智の瀧が構図に入る三重の塔は撮影者に人気が高い。
青岸渡寺
三重の塔と那智の瀧
◯ 熊野速玉大社 新宮市新宮
世界遺産「熊野三山」の一つ。全国数千社の熊野神社の総本宮。社殿は昭和50年代に造られたもので、鮮やかな朱塗りが目を引く。また境内に聳える梛(なぎ)のご神木は、樹齢千年で熊野権現の象徴として信奉厚く、平重盛公お手植えと言われ天然記念物。ここで「巻絹」を奉謡。
熊野速玉大社
平重盛手植えの梛の神木
◯ 鬼ケ城 熊野市木本町 「田村」
鬼ケ城は熊野灘に突き出た小さな岬の絶壁に存在する波蝕洞窟で、国の名勝天然記念物。
その昔、鬼と恐れられた海賊「多蛾(たが)丸」がこの岩場に住み着き、付近の住民の物資を盗んだり、熊野灘を行きかう船から宝物を奪い、子分と共に鬼と恐れられ、「鬼の城」と呼ばれるようになった。このことが都に伝わり、桓武天皇は坂上田村麻呂に討伐を命じられた。田村麻呂の乗った船がこの千畳敷の磯まで漕ぎつけて上陸し、鬼共を滅ぼしたという。
鬼ケ城
鬼ケ城
◯ 斎宮跡 三重県明和町 「絵馬」
「絵馬」に「これははや伊勢斎宮に着きて候・・」と謡われるが、現在は斎宮はなく跡地が残っているだけ。「斎王」は天皇が即位すると未婚の内親王(天皇の皇女)から選ばれ、天皇の代わりに伊勢神宮に仕えるのが重要な任務だったが、伊勢に赴くのは6月・12月の月次(つきなみ)祭、10月の神嘗祭の3度だけ。それ以外は斎宮で慎みの日々を過ごした。
「斎宮跡」は国が定めた遺跡で、昭和45年から発掘調査が行われ、東西2km、南北700mにわたる広さ137ha(甲子園球場の35倍)と、全国屈指の広大なもので現在も調査が進められている。「斎宮歴史博物館」では、歴史資料・発掘資料・模型等を展示しているほか、ハイビジョン映像を駆使して在りし日の斎王・斎宮を紹介している。今回は時間がなくてゆっくり見学できず残念であった。
斎宮跡入口
◯ 竹神社 三重県明和町 「絵馬」「野宮」
竹神社は斎宮遺跡の一角にある。「絵馬」の曲は、斎宮において古くから行われてきた絵馬の神事を典拠としている。斎宮では節分の夜半に誰が懸けるともなく扉に絵馬が懸けられる慣習があった。白の絵馬は日照りの恵みを予言し、黒の絵馬なら雨露の恵みを予言するとされていた。ある年第47代淳仁天皇の勅使左大臣公能参拝の折、老翁夫婦が白と黒の絵馬を懸け争っていたが、結局二つ共懸けて万民快楽・国土を豊かにしようとの規模雄大な前段。
現在の竹神社は、明治44年旧斎宮村にあった23社の神を合祀して出来た神社であるが、それ以前ここの境内は「野宮」(ののみや)と呼ばれていたという。
竹神社
謡曲「絵馬」と竹神社の駒札
◯ 伊勢神宮(内宮) 伊勢市宇治館町 「絵馬」「三輪」「花筐」「大原御幸」「阿漕」
多くの曲に「伊勢神宮」「天照大神」のことが謡われている。
伊勢神宮
伊勢神宮内宮
伊勢神宮参拝の後、バスは宇治山田駅へ。解散。
(平成20.5.24記)
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