この頃ニューヨークにはKDD事務所が開設されており有竹所長以下2名が駐在していたが、外債発行の具体化に伴い経理の分かる人を1名増員することとなり私に白羽の矢が向けられた。
増田次長から単身で約1年間ニューヨークへ行かないかと内示を受けた時は正直どうしようかと迷った。結婚後13年目でやっと産まれた長女がまだ100日くらいの乳呑児である。それでも妻の「行くべきだ」との一言に励まされてお受けすることとした。
増田次長と同じ飛行機でニューヨークへ着くと翌日から早速増田さん、興銀の二村支店長、有竹所長達の後について各方面を廻る。そしてその日の状況を電報で要点を文書にして本社へ報告するのが私の役目である。皆さんの懸命の努力によりこのプロジェクトがアメリカ最大の電話会社ATTとの共同事業であることが次第に認識されてきて、米国最大の生保エクエイタブルが1,500万ドルの名乗りを挙げると、これに続く投資家が続々と現れ目標の2,500万ドル(90 億円)全額調達の目鼻がついた。このときの増田次長の嬉しそうな顔は今でも瞼に焼き付いている。増田次長は大任を無事果たして帰国された。
KDDの社債2,500万ドルは37年9月、38年4月、7月、10月の4回に分け発行されることとなり、第一回の調印式には浜口社長も参加された。第4回の調印式には社長と共に経理部長に昇進された増田さんも出席、ニューヨークでも格式の高いワルドルフアストリアホテルでKDDのレセプションを開催、外債発行の行事は終了した。
念願の太平洋横断ケーブルは昭和39年開通し、品質の向上に伴って電話収入は急激に上昇、会社の業績を押し上げた。一方外債の償還も随時行われて昭和52 年には完済することが出来た。しかも途中から円相場が急騰したので外為差益も大きかったはずである。そのころ私は経理部次長として経理部に戻っており完済の祝賀会にも参列させていただいた。
会社発足以来最大のプロジェクトを決断した当時のトップの方々に敬意を表すると共に、経理面で少しでもお手伝いすることが出来たのは経理や冥利に尽きるものと感謝している。
(「外債発行関係」については、後日、経理部OBの春秋会の皆様に差上げた資料「元経理屋の昔話より」の中の「外債こぼれ話」にも書いているので参照願いたい。また、NY滞在中は妻とは手紙の交換をかなり頻繁に行なってきたが、これも後日2冊にまとめ、二人の子供に贈った(NY時代の交換書信集)。ここでは「NY事務所着任の頃妻にあてた手紙」を紹介する。)
ニューヨーク事務所の内命に 頭をよぎる妻と乳呑児
乳呑児を抱えし妻の「行くべし」の 一言我を勇気づけたり
到着の翌日からは早々に 上司のお供各社を廻る
大任を無事に果たした増田さん 瞼に残る嬉しげな顔
ケーブルの完成により日米の 電話の需要空前の伸び
妻と長女 自宅にて 渡米前日 (昭和37.6.5)
羽田空港より出発 (昭和37.6.6)
ニューヨーク事務所のあるカナダハウス 五番街 (昭和37.6)
事務所にて有竹所長と (昭和37.6)
KDD主催レセプション ワルドル不アストリア (昭和38.10)
左から二人目、増田(後の社長)
社長一行と (昭和38.10)
左より高橋、増田経理部長、浜口雄彦社長、笹本所長、新堀常務、木下秘書課長
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