私の履歴書13     平凡なサラリーマン生活     昭和39〜59(歳)

米国から帰国してからは、昭和59年3月KDDを定年退職するまで、かなり頻繁に海外出張したことと、KDD事件をのぞけばほぼ平凡なサラリーマン生活を送ることが出来た。

自宅は私の在米中、上司の計らいで練馬区中村の社宅を使わせて頂き、私も帰国後しばらくここから通勤していた。40年には長男も生まれた。41年には申し込んであった住宅供給公社の分譲住宅が当たったので、中野区江原町にある現在の所に移った。当初は仮のすみかのつもりでいたが、交通の便も良かったので40数年住み着いてしまった。

勤務先も米国へ出かけるころは大手町のKDDビルだったが、帰国後は43年に霞ヶ関ビル(日本最初の超高層ビル)、49年には新宿新都心に新築されたKDDビルに移った。ここからの西の空には晴れた日には富士山もくっきりと見えた。

仕事は帰国後は古巣の経理部財務課に戻ったが、その後社長室総務課調査役、計画参事室動産副参事、経理部主計課長、社長室文書課長、経理部次長、総合企画室次長を経て最後は経理部長で定年を迎えさせていただいた。私が在職した期間は、ちょうど電気通信の成長期にめぐり合わせた幸運で会社の成長期を歩み、今日のような競争の厳しさを知らずに卒業させていただいた。

会社の勤務が終わると同僚とサケを飲み交わし、休みの日は仲間とゴルフに出かけたり、子供達を連れて遊園地やハイキングなどに出かけた。年に1,2回は部や課の旅行もあって関東一円の各地へ出かけてよく呑んだ。

少し変わったことと言えば、会社発足直後昭和29年から先輩に勧められて始めた宝生流謡曲である。この稽古だけは、仲間に支えられながら続けてきた。KDD宝生会のこと、帰国後入門させていただいた渡邊三郎先生の渡雲会のことなど、項を改めて書いてみたいと思う。

また、世の中が落ち着いてくるにつれて、クラス会、戦友会、兄弟会などの会合も多くなり、併せて謡蹟めぐり、札所めぐりなどにも興味を持ち始め、旅行をする機会が増えてきた。この傾向は定年後今日まで続いているが、これも別の項に譲ることとする。


仕事終え家路に向かうその前に ちょっと立ち寄るところあり

お付き合い一本だけが五六本 上司肴に明日の活力

時折の部や課の旅行くつろぎて 酒酌み交わす温泉の宿

お正月ビジネスライクな事務室も 振り袖姿に華やぎにけり

窓越しに落日映えて富士の嶺の 浄土のごとく思ほゆるかな

30年永年勤続受賞 (昭和44.4)
30年永年勤続受賞 (昭和44.4)

KDDビル (昭和49.1)
KDDビル (昭和49.1)

表彰された外人を奈良京都へ案内 (昭和53.4)
表彰された外人を奈良京都へ案内 (昭和53.4)

経理部旅行 伊豆方面 (昭和53.7)
経理部旅行 伊豆方面 (昭和53.7)

信念仕事始め 経理部事務室 (昭和56.1)
信念仕事始め 経理部事務室 (昭和56.1)

経理部事務室から富士山を望む (昭和58.1)
経理部事務室から富士山を望む (昭和58.1)



次に進む: 14 海外出張

  前に戻る: 12 ニューヨーク事務所(アメリカの生活)
  「はじめに」に戻る

私の履歴書

「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−