私の履歴書9         結   婚         昭和25年(25歳)

家内のふさ子とは中央電信局の職場で知り合い、昭和25年4月に結婚した。彼女もやはり私と同じように働きながら女子経済専門学校(現在の嘉悦学園)に通学していた。栃木県壬生町出身、21歳であった。結婚式は私の新潟の実家の座敷で、母方のおじいさんと父方の叔母さんに仲人になっていただきささやかではあるが厳粛な式を挙げていただいた。栃木からはふさ子の父親が一人出席しただけである。もちろん新婚旅行もなかった。

結婚と同時にふさ子は電信局を退職し、東中野に6畳一間をかりて新しい生活をスタートさせた。隣の部屋とは襖越し、狭い部屋で炊事もするのだから現在では想像できない風景である。周囲が似たような暮らし方だったのでさほど苦にはならなかった。

結婚したばかりの頃、私は昼間は委託研修生として一橋大学に通い、夜は早稲田大学に引き続き通学しており、ふさは家でぶらぶらしているのは勿体ないと、新しい仕事を見つけて印刷会社、経理事務所等に通い、夜は編み物研究所に通っていた。今考えると二人とも若かったのだなあと思う。

お互いの実家へ仕送りすることはあっても、住宅取得のために資金の援助を受けられる様な状況ではなかったので、都営住宅、住宅公団の募集があるとその都度申し込んだ。昭和28年、漸く板橋区志村蓮根町の一戸建て都営住宅に入居できたときは本当に嬉しかった。その後KDDの中村社宅を経て昭和41年に現在の中野の住宅供給公社の分譲住宅に移り、今日に至っている。

幸か不幸か子宝にはなかなか恵まれなかった。それでも昭和37年2月には長女が生まれ、その後ニューヨーク勤務を終えて帰国した翌年の40年6月には長男が生まれた。二人とも成人、娘には孫が二人、長男には孫が一人生まれ元気に育っている。

家計を助けるためふさ子も印刷会社、経理事務所、水産会社、幼稚園等いろいろ勤めを変え、塾を開いたり等もした。そして、2人の子供が手を離れるようになる頃は小学校教諭の免状をとり、小学校の教諭として定年まで働き通してくれた。今日ささやかながら何とか不自由なく暮らせるのも全く妻のお陰と感謝している。

平成12年4月には結婚50周年を祝って子供達が桜の花満開の鎌倉で金婚式のお祝いをしてくれた。お礼に金婚記念写真集を差し上げた。新婚旅行も出来なかった妻にせめて罪滅ぼしの意味も込めて暇を作りだしてはクラス会、兄弟会、戦友会、定年旅行、札所めぐり、謡蹟めぐり等と名目を付けて旅を楽しんでいる。


質素なる挙式なれとも(彦七)じいさんの 高砂の謡耳に残れり

省みて悔ゆることなし二人して 共に過ごせし五十余年は

結婚記念 (昭和25.4)
結婚記念 (昭和25.4)

結婚式 新潟県小出町青島 私の実家にて (昭和25.4)
結婚式 新潟県小出町青島 私の実家にて (昭和25.4)



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「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−