最初にお詣りしたのが、第一番札所の那智山青岸渡寺、昭和58年9月、家内と一緒。最後にお詣りしたのが、第33番の谷汲山華厳寺、平成2年6月、家内と長男と一緒であった。7年間かかった訳である。そのうち一人で廻ったのが三分の一、残りは家内と一緒に廻った。最後だけは長男も連れていった。
西国札所の御詠歌は幼い頃から念仏の時よく耳にしていたようで、特に
一番の 補陀落や岸うつ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬
九番の 春の日は南円堂にかがやきて 三笠の山に晴るるうす雲
二四番 野をも過ぎ里をも行きて中山の 寺へ参るは後の世のため
などは何故かよく覚えており、大きくなったらお詣りしたいと願っていた。
京都で開催のクラス会に出席するため、南紀経由で那智山にお詣りしたのがきっかけとなり、秩父、坂東、四国と続くこととなった。
西国33ヶ所の思い出も尽きない。那智の滝、紀三井寺の急な石段、岡寺近くの石舞台や大和三山、長谷寺の牡丹、興福寺(南円堂)近くの猿沢の池、三室戸寺近くの宇治平等院、上醍醐寺三宝院庭園にある藤戸石、石山寺の源氏の間、三井寺の鐘、何回となく訪ねた謡曲の舞台清水寺、満仲という多田源氏の頭領にまつわる悲しい物語に登場する中山寺、成相寺と天橋立、観音正寺の長い道のり、満願を実感できる谷汲山華厳寺等々。
西国札所にはもう一つの思い出がある。小学校同級生の青木恵治君が郷里の33観音を移設復元したことである。郷里小出町の松琴平という丘に昭和7年に33観音が点々と建てられた。それが敗戦後食糧難のための開墾、スキー場の建設等で、観音像は仮置きされたままになっていた。これを役場を退職して建設業をはじめていた青木氏が、一念発起し、町と話し合い私財を投じて、忠魂碑を中心に一個所に集め、台座を築き移設安置させた。しかも彼が心臓病を患う身で奥さんと二人で、西国33ヶ所を廻り各札所より霊地の浄土を拝受して持ち帰り台座に納め、開眼の式まで行って大事業を完成させたのである。昭和63年頃のことである。私が西国札所を廻っている頃に、彼はこのような大事業を行っていたのである。彼はこれを「西国三十三番観音巡礼旅日記」にまとめた。復元の経緯、各札所の御本尊、お寺の写真、ご朱印、御詠歌、ご自分の感想等を収録した立派なご本である。私も一冊頂戴したのを思い出し、今回読み直して彼の偉業に改めて感激した次第である。
第1番 補陀落山寺 和歌山県那智勝浦町 (昭58.9)
第9番 興福寺南円堂 奈良市 (平1.5)
第24番 中山寺 兵庫県宝塚市 (昭60.9)
第33番 谷汲寺 岐阜県谷汲村 (平2.6)
移設が完了した33観音像 新潟県小出町 青木恵治氏著書より
西国札所御朱印 掛軸
「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−