資料   青葉宝生会 「発会二十年記念帳」より

      青葉宝生会二十年のあゆみ

                           村 本 脩 三


 昭和三十七年秋、逓信同窓会のときであった。大間知、藤田、山根、米沢さん方にお目にかかり、以前逓宝会があったことを聞いているが、謡の会を又、始めようぢゃないですか、と話したのがきっかけとなった。

 出来るだけ広い範囲で参加していただくため、世話人には長津、滝波、田近、吉川、細野さんにも加わって頂き「謡曲を楽しむ会」開催のPRをした。会場の斡旋は大嶺経三さんにお願いした。


 こうして三十七年十二月八日、青葉荘(渋谷)での旗揚げとなった。当日の出席は

秋元亮一、石川武三郎、大間知季治、大嶺経三、河東義方、組村保、滝波健吉、田倉八郎、田近老雄、田辺梅太郎、外川謹吾、中村喜由、長津定、林茂、藤田栄吉、細野春雄、村本脩三、森平八郎、吉川武男、米沢平次郎のみなさん、計二十名。

 番組は次の通りであった。(役、抽籤)

   嵐 山   シテ 秋元  ツレ 林   ワキ 滝波

   田 村   シテ 吉川         ワキ 大嶺 

   熊 野   シテ 米沢  ツレ 藤田  ワキ 大間知

   俊 寛   シテ 田倉  康頼 石川  成経  森   ワキ  田辺

   国 栖   シテ 河東  ツレ 外川

 会に名前をつけようということになり、田倉さんの発案で「青葉宝生会」に決まった。青葉荘は庭が広く閑静で謡を楽しむ場所として快適であったのである。年四回の開催も申し合わせた。


 第四回(三八・九)から、希望の方に仕舞を舞ってもらうことにした。その最初を飾っていただいたのは次の方々である。

 細野(半蔀)、河東(鞍馬天狗)、堀内(実盛)、村本(野守)。その後、増井常太、田倉、吉川さん方が舞われたこともある。ずっと後のことになるが、第七十三回(五六・二)からは若干趣向を変えて、それ迄の素謡五番を四番とし、代わって独吟または仕舞を全員順番で出すことにした。以前にも最長老の山田さんが独吟をなさったことがあり、それは老化防止のため、と話されたことにヒントを得たものである。

 新趣向当日の独吟は、大原御幸(鈴木)、隅田川(山田)、仕舞は難波(村本)、熊野(吉川)、班女クセ(岡安)。


 第七回(三九・六)からシテを予め決めることとし、また第二十八回(四四・一○)からは地頭も予告することにして、会を一層充実し、より楽しいものにすることにした。


 第四十回(四七・一○)は十周年を記念して、田辺さんに麗筆を揮っていただき素謡扇を配った。又この時から七十七才または八十才を超えた方に「翁」を謡ってもらい、会として長寿お祝いの微意を表わすことにした。第一号は山田さんのシテ、田倉さんの千歳で謡われた。

 五十年八月の会(第五十一回)は旧盆にも当たるので物故者の追善の会とし、謡と華を手向けた。亡くなられた方々のお名前は名簿に付綴したのでここでは当日の番組のみ。

    海 人  シテ 大宮  子方 児玉  ワキ 冨田  地頭 嶋沢

    実 盛  シテ 倉沢  ワキ 細野  ワキツレ 大間知 地頭 山田

    江 口  シテ 村本  ツレ 田辺  ワキ 原田  地頭 長田

    百 万  シテ 田辺  子方 岡安  ワキ 武内  地頭 滝沢

    融    シテ 高橋         ワキ 中村  地頭 大嶺 


 最初の会費三◯◯円でも判るように、謡い終えたあとの軽食浅酌はつつましいものであったが、そうそう毎回青葉荘に迷惑をかけるわけにもゆかず、会費は漸次改定を余儀なくされた。初めの頃は度々赤字が出たが(回収ずみ)、それは主に予約済み後の取消しや無断欠席に原因したもので、うまく収まるよう世話人は頭を使った。又その頃、倉沢さんや上柿さんから屡々飲物のご寄贈があって一同余慶に預かったものである。

 

 第十二回(四◯・一一)以降は配膳婦の傭いあげを要求されるようになったので、第十九回目(四二・七)から会場をKDDの新宿分室に移した。ここではKDDの若手会員に会場整理其他を大変助けてもらった。同分室が改築されることになった二年間は鳩森神社のお世話になった。

 第六十九回(五五・二)からは新装なった新宿会館で開催されている。立派な舞台、広々とした座敷、これ以上の所はない。もとよりこれらは、謡専用のものではないが、秋元さんを初めとするKDD謡曲サークル(宝生・観世)の熱心な要望と、観世流ご堪能の古池会長(当時)の強いご支援があってこそ実現したものである。建築担当では折よく再建中であった水道橋能楽堂の見学もして参考にした。因みに舞台バックの松は古池会長のご斡旋によって守屋多々志先生(高松塚壁画修復の責任者、近年は高野山金剛峰寺別殿の襖絵八十二面を制作された)が腕をふるわれたものである。


 旧会員で思い出される方も多い。

 山内秀胤さん、菊田熊太郎さん、深尾栄四郎さんの謡は我々とは一時代違うことを感じさせる正確、且迫力のあるもので、ご修練の程が偲ばれた。長くご教示を願いたかったが、山内さんは伊豆へご転居のため、菊田さんはお家で遠出を心配されるため、深尾さんは数回のお出でだけで、残念ながらいずれも退会された。菊田さんとは、つい先日、電話でお元気な声を聞くことができた。会員の皆さんに呉々もよろしくと話されていた。

 いまは亡き方々であるが会の名付け親であった田倉さんには渋い謡で啓発していただいた。森平八郎さん、芦原覚了さんは殆ど皆出席、藤田栄吉さん、上柿虎男さんもご精勤でそれぞれ会を盛り立てていただき、そのお人柄とともに心に残るのである。


 創会以来二十年、五十二年二月で七十七回を重ねたがこの間の出席人数を見ると、二十一人から二十四人までの参加が最も多く、いずれも九回(延三六回)、次いで十九人八回、二十五人六回、二十人五回、二十八人・十八人・十七人が各四回、二十九人・二十六人が各三回、二十七人・十六人が各二回となっている。新宿会館に移ってからの平均は二十五人余で益々盛会である。

 偏に、鈴木、山田、田倉、大間知、倉沢さんら、ご長老の熱心なご支持があったからで、皆さんが欣然参加される姿を見ると、ひところ青葉荘へその都度見台を運搬したようなことも一向に苦とはならず、この会は永続きさせねばならないと思った次第。世話人として嬉しいお世話であったのであるが、これまでに二回に亘って記念品を頂戴して却って恐縮、感謝の極みである。高橋さんには早くから手伝いをお願いして来たが、私が四十六年夏、一時日本ITU協会へ転じたことなどから、第三十六回(四六・一○)以来今日まで、万般の世話を引き継いでいただいている。


 今年が二十周年になるについて、何かふさわしい記念をとの提案が予てからあり、去る二月の会で、記念撮影、記念帖の作成・また多数回出席などで会の継続発展に協力いただいた方々(山田・大間知・倉沢・田辺・田近・高橋・村本)への感謝などが決定した。


 拙文を省みず二十年を回顧したが、最後に一言、この会には会則がない。OBに限るということはないのである。現会員は会の名で判る通り、年令を超越して常に青葉の如くではあるが、現役の方々の参加があれば一層の精彩を加えることになる。ご紹介をお願いする次第である。(村本記)





    ( 昭57年5月発行 「青葉宝生会 発会20周年記念帖」より )


        私 の 謡 歴


                      高 橋 春 雄(大正14.2.21生)

○ KDD宝生会

 昭和29年、勤務先のKDDにおいて謡曲サークル「KDD宝生会」発足の折、秋元さんにすすめられて入会したのが、謡と縁のできた最初です。KDD本社のあった丸の内三菱21号館の建物の一室で、村本さんから「竹生島」を最初に手ほどきしていただきました。

 村本さんにはその後ずっと御指導をいただいており、仕事のうえでも直接の上司でおられたこともあり、公私ともにお世話になっております。「もう一回」「もう一回」の連続で、私なども一緒に始めた阿部理一さんの激励がなければ、早い時期に脱落していたかも知れません。今になってやめないでよかったと思っております。

 村本さんが大阪支社に勤務されている期間は田近さんに教えていただきました。田近さんからは謡のみならず、例会後の懇親会における後シテのほうにおいても、大変感化を受けました。また、新年謡会と称して、田近さんのお宅に多勢で押しかけ、奥さんにまでご迷惑をおかけしたのも、ついこの間のことのように想い出されます。田近さんの御回復をお祈り致します。

 村本さんが学園のほうに移られてからは、秋元さんに教えていただいております。秋元さんは私に最初に謡のサークル入会をすすめてくれた方であり、仕事のうえでも同じく経理関係で長く御指導をいただいており、かつ、よく飲める方であり、いろいろな意味において大変御世話になっております。

 今でも毎週月曜日の夜は秋元さんのけい古がありますが、けい古が終ると会社から新宿駅に至る途中の常宿に一同揃って立ちより、反省会と称するものを行なうのを常としておりますが、私などむしろこちらのほうに魅力を感じ、熱心な常連の一人となっております。

 村本さん、田近さん、秋元さんをはじめ古い会員の方々の努力により、会員の数も五十数名を数えるに至りましたが、私も会の一員として会の発展のため微力を尽くしたいと念じております。


○ 渡 雲 会

 村本さん、秋元さんのおすすめで、昭和39年から渡邊三郎先生に師事、現在に至っております。

 渡雲会では正月の初会、春の例会、夏の半歌仙会、秋の例会と毎年4回例会が開催されますが、春の例会は水道橋の宝生能楽堂で行われ、「能」を何番か出すのが例になっております。私もいままでに「蝉丸」の蝉丸(シテの逆髪は秋元さん)、「土蜘」の頼光、「夜討曽我」の十郎(シテ五郎は秋元さん)を勤めさせていただきました。

 昭和54年3月には渡邊先生のお取次で宗家より嘱託免状をいただきました。今までけい古をサボってばかりおりましたが、嘱託の名に恥じぬよう努力せねばと思っております。


○ 青葉宝生会

 村本さんのおすすめで昭和41年7月(第15回会合)から出席させていただいております。逓信界の大先輩ばかりですが、皆さんの精神年令の若いのに驚いております。

 九十歳をとっくにこえられた山田忠次さんが、独吟「隅田川」を無本で謡われた際「頭の衰えを少しでも喰いとめるため、独吟は無本でやるように励んでいる」との言葉をきき、頭をガンと殴られたような感じがしました。五十代の私など年をとったなど寝言を言っておられない気持ちです。

 青葉宝生会では村本さんのお手伝い役をさせてもらっておりますが、この会を本当に楽しみにしてくださっている会員の方々や、進んで雑務を分担してくださるKDDの会員の方々の御好意に対しても、今後も引き続きお手伝いを続けさせていただきたいと思っております。



        編 集 後 記


○ 二十周年記念事業の一環として、会員随想を主とする記念帖の発行が、昭和57年2月13日の例会で決定されましたが、準備不足のため原稿用紙の発送が遅れ、原稿を早くお送りいただいた方々にご迷惑をおかけしたことをお詫び申しあげます。


○ 会員随想については殆んど全員の31名の方々から原稿をお寄せいただき、しかもその内容は謡歴を中心としながらも、経歴、趣味、健康法、家族、研究成果等多方面にわたり、充実した内容となっており御同慶にたえません。


○ 巻頭の「青葉宝生会20年のあゆみ」は村本脩三氏が、会の記録と御自分の記憶に基づいてまとめられたもので、当会に関する得がたい歴史的記録であります。また、会のルールにも触れられておりますので、会員必見の記録とも申せましょう。


○ 表紙の題字は今回もまた田辺梅太郎氏に雄渾な筆をふるっていただき、記念帖を一層立派なものにしていただきました。


○ 会の記録は第1回分から洩れなく保存されてありますが、これに基づいて、例会開催日時、場所、出席者名、シテ役等を網羅した「例会記録」を作成していただいた小嶋郁文氏に敬意を表します。                                (高橋記) 



主な内容

青葉宝生会に十年のあゆみ

会 員 随 想   31名

青葉宝生会小史、 例会記録、 名簿、 編集後記

B5判 101頁   昭和57.5 刊行

青葉宝生会 発会二十周年記念帳 (昭和57.5)
青葉宝生会 発会二十周年記念帳 (昭和57.5)



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