資料   「渡雲会四十年回顧」より (謡舞観巡 別冊2 平成15.6)

        ま え が き

          (「渡雲会40年回顧」の作成について)


 昭和39年に渡雲会に入門させていただいてから、早くも40年近くが経過しました。この間渡邊先生はじめ実に多くの先輩や同僚の方々にいろいろとご指導をいただき、また一緒に謡い、舞い、語り合う機会を得ましたことは、会社の仕事では得られない貴重な体験でございました。謡曲のおかげで、定年後二十年近くを毎日充実した気持で過ごすことが出来たと感謝しております。


 昭和54年に嘱託の免状をいただき、KDD宝生会で会員の指導を分担するようになってから、参考資料としてその曲の解説やその曲の思い出などを書いて稽古に来る方に差し上げてまいりましたが、平成6年の頃からは「謡舞観巡」(謡曲の自分史)と名付けて、五十音順に曲目を取り上げ、私が訪ねた謡蹟なども載せることにしました。主な曲を100曲程度とりあげほぼ一巡したのですが、平成12年から180曲全曲をめざして前回のものに改訂を加えながら書き進めております。現在「須磨源氏」のところまで進めてまいりました。 


 そして、180曲分が終ったら、個々の曲から離れて私が入会させていただいた、KDD宝生会、渡雲会、教授嘱託会、弥生会、青葉宝生会等のこと、謡曲名所めぐりのこと、謡曲を通して知り合った方々の思い出なども綴ってみたいと思っていました。


 しかし、残された曲はまだ100曲近くもあり、これが終るまでにはまだかなりの年月がかかりそうです。それに来年は私が謡曲と巡り合った「KDD宝生会」の50周年、渡雲会入門40周年の年ともなります。78歳になった今日、悠長にかまえていると気持はあっても、何も出来なくなってしまうのではとも思い、手始めにKDD宝生会の資料を整理し、「謡舞観巡別冊」第1号として「KDD宝生会五十年回顧」をまとめてみました。


 今回は別冊第2号として渡雲会を取り上げてみました。会の記録、先生の能の写真、私の出演した能や舞囃子の写真、その他長年に亘って書き留めてきた駄文等を中心にまとめてみようと思い立った次第です。資料が多すぎて要領よくまとめることが出来ませんでしたが、写真だけでもパラパラめくっていただければ幸いです。


        平成15年6月

                     高 橋 春 雄




      渡雲会四十年回顧 目次(抄)


ま え が き                   上記

渡雲会催会一覧(昭和12年〜平成15年) @ 5頁(割愛)

渡邊三郎先生の演能記録(昭和13年〜平成11年)    A 3頁(割愛) 

渡雲会会員の演能記録(昭和27年〜平成14年)     B 8頁(割愛) 

渡邊三郎先生の能の写真 13枚            C 10頁(割愛)

四十年間の渡雲会と私  D 74頁(割愛)

渡雲会関係の思い出の片々 63件73頁より23件を抜粋  E

渡雲会出演一覧  F  10頁(割愛)



  渡雲会関係の思い出の片々(抜粋)


     1 演じた能・舞囃子・仕舞の思い出      

       @ 能「紅葉狩」に初出演

       A 思い出 能「草紙洗」(シテ村本脩三氏)出演

       B 思い出 能「土蜘」演能

       C 思い出 能「蝉丸」出演

       D 思い出 能「夜討曽我」

       E 能「絃上」出演

       F 思い出 能「田村」演能と「能「田村」とその周辺」

       G 能「七騎落」を舞わせていただいて

       H 思い出 舞囃子初舞台「玉葛」

       I 思い出 舞囃子「胡蝶」の「中ノ舞」

       J 舞囃子「猩々」(渡雲会)

       K 舞囃子「葛城」と序ノ舞

       L 舞囃子「放下僧」

       M 舞囃子「養老」

       N 仕舞 「養老」立ち往生

       O 仕舞 「笠之段」

       P 仕舞 「女郎花」

     2 故人の思い出

       Q 中山幹朗さんと渡雲会

       R 思い出 斎藤基房さんとの「安宅」

       S 秋元亮一さんと、外の浜(青森)、善知鳥

       (21) 八角菊栄さんの思い出

     3 その他

       (22) 思い出 嘱託披露

       (23) 追善の曲「江口」




@ 能「紅葉狩」に初出演      (平11・4記)


 初めて、能に出演させていただいた思い出の曲である。昭和44年5月、渡雲会の春季大会で、この曲のツレ役を演じさせていただいた。シテは丹野貞次さん、ツレは冨田林平、嶋内敏雄さんも一緒だった。ワキは森茂好さん。

 番組にはこのほか、大鼓、柿原崇志、小鼓、鵜沢寿、太鼓、柿本豊次、笛、一噌庸二、間狂言、三宅藤九郎、三宅右近、後見、宝生英雄、渡邊三郎、小林与志郎、當山孝道、前田晴啓、田崎隆三、地謡前列亀井保雄、村本脩三、秋元亮一、木内勲、岡安正巳、後列に佐野萌、野村蘭作、宝生九郎、波吉信和、本間英孝の方々の名前が載っている。

 その時の写真を眺めていると、宝生九郎宗家ほか今は亡き方々の姿も見え懐かしい。すでに30年もの歳月が流れ去ってしまったのだ。

 (写真は 記念誌「渡雲」 参照)



A 思い出 能「草紙洗」(シテ村本脩三氏)出演                        
                           (平9・3記)


 昭和47年5月、渡雲会の35周年記念大会で、立衆という軽い役ではあるが、能「草紙洗」に出演させていただいた。シテは私どもの大先輩村本脩三さんである。

 村本さんにとっては永年務めたKDDの定年退職記念という意味もあって、お役の皆さんは、貫之には秋元亮一、立衆には冨田林平、児玉栄太郎の皆さんに私とKDDグループの人たちが選ばれたものと思う。

 当日の番組と写真を次ページに掲げてみた。(番組割愛)

 この時は35周年記念ということで記念誌が作成されたのを思いだし久しぶりに取り出してみた。「草紙洗」に関しては、シテの村本さんと私のものが載っていた。村本さんのものに比べ余りに幼稚なことを書いているので恥ずかしいが、当時はまだこんな状況だったのかと懐かしい気持ちもするのでその要点を抜粋してみよう。


「     草紙洗によせて    村本 脩三(日本ITU協会勤務)

  ・・・私も永年勤めました会社を最近卒業致しましたので、その思い出にということもあり、かねてから演能をお願いしておりましたところ、草紙洗を選んで頂いた次第であります。

 (曲の紹介)・・・渡雲会では、私は最古参の一人でありますが、いたずらに古いというだけで、ちっとも会のお役に立っておりませんので、せめてものことにできるだけ自習をして、教えて頂く先生のご苦労を少くしたいと及ばずながら日頃心がけております。また稽古不足の不安を抱きながら本番を迎える場合、かりに大過なく終えたとしてもあとに心に残るものがあります。特に今回は始めての三番目もののことですので、面をつけたときの狭い視野でぐらぐらしないで静かに運ぶこと、品のよい柔らかい謡い、草紙を洗う所作、最後の晴れ晴れとした気持での舞など、この曲のポイントをどこまで仕終えることができるか、それこそ草紙を洗う小町の心情さながらに、余す二か月足らずを、寸暇をさいてせいいっぱいの努力をしたいと考えております。」


「    能 草 紙 洗         立衆  高 橋 春 雄

 ・・・その村本さんの能に、同じ会社の先輩諸氏に互して参加させていただけることを大変光栄に思っております。

 私の役は立衆で御同役が三人おりますのでその点気分的には比較的楽ですが、心配なのは足です。片ひざを立てて三、四十分坐ったあと、草紙を洗ってみようとの帝の御言葉に応じ「金(こがね)の半ぞうに水を入れ、銀(しろがね)のたらい取出」すため、立ち上ってすぐ歩き出さなければならないのですが、果して足が云うことをきいてくれるかどうか、この点が悩みの種です。

 かって会社の大会で素謡のあと足がしびれて舞台のまんなかでひっくりかえり、友人の肩を借りて退場した経験があるだけに、このあやまちを繰り返してはならじと、家庭においてもテレビをみるとき、食事をするとき等機会を見つけて片ひざを立てて坐る練習をしている昨今であります。」

 この時から25年を経て、両者を読み比べてみるとあまりの格差にあきれてしまう。シテの立衆の位の違いと云ってしまえばそれまでかも知れないが、芸に対する心構えを改めて教えられたような気がする。今年は渡雲会も六十周年記念ということで、私も今回は能「七騎落」のシテという大役を仰せつかっている。足のことも気にならないことはないが、それよりもシテとしての心構えを村本さんの一文から汲み取って悔いのない舞台を勤めなければと思っている。


能「草紙洗」 水道橋能楽堂 (昭和47.5)
能「草紙洗」 水道橋能楽堂 (昭和47.5)
左から 後見 塚田光太郎 宝生英雄(宗家) シテ 村本脩三 小鼓 住駒明弘 
ワキ 森茂好 笛 一噌庸二 立衆 冨田林平 立衆 高橋春雄 
地謡 井上晃一 立衆 児玉栄太郎





B 思い出  能「土蜘」演能  (平4・8記)


昭和55年6月、渡雲会の宝生能楽堂竣工記念大会で、能「土蜘」に「頼光」の役で出演させていただいた。

シテ役は、はま松会館社長の鹿島清さん、ツレは阿部理一さん、小蝶は柏山聡子さんである。ワキは宝生閑さんが勤めて下さった。

 その時、渡邊先生もご一緒で撮った写真が手元にあるが、これを見ているとお互い皆若かったなあと思う。

 髪も黒々としておられた先生も、最近では白いのが少し目につくようになられたが、お元気で大曲「鸚鵡小町」を舞われ、渡雲会55周年記念全国大会も無事済まされたのは何よりである。 

 鹿島さんはこの後、能「竹生島」「葛城」「山姥」「半蔀」のそれぞれシテ役を勤められ、ますます円熟した芸を見せてくれている。

 阿部さんはこの翌年京都に移られてしまったので、彼の謡を聞く機会も殆どなくなってしまったが、お元気の様子である。

 聡子さんは、小蝶の役で「テンニャクノカミヨリ、オンクスリヲモチ・・」と可愛い声で頼光の私に薬を渡してくれたのが、つい先日のように思われるが、その後、芸大の邦楽科に進み謡の道を選んで、目下プロとしての道を目指して精進中である。

 私が一番だらしなく、頭も真っ白になり、病気などして好きなお酒もやめてしまったが、なんとか謡だけは続けられるので有難いことと思っている。鹿島さん扮する土蜘が投げかける千條の糸が、抜いた刀や手足にからまって、稽古の時とはだいぶ勝手が違うと思ったことなど思いだす。


<補足 平9・5記>

 これを書いた時から5年が経過した。従って「土蜘」演能からは16年が過ぎ去ったことになる。関係の皆さんの最近の消息を記してみよう。

 渡邊三郎先生 時折身体の不調を訴えられることもあるが、60周年記念大会を控えて最近はすこぶるお元気で何よりである。能7番をはじめ、囃子、仕舞などの稽古をつけるかたわら、番組、記念誌、名簿の作成等、大変お忙しい毎日を送っておられる。近く先生のご本が出来上がるとのことで楽しみにしている。

 鹿島清さん 前記のように鹿島さんは「土蜘」の後にも能を4番舞われており、「土蜘」の前にも能「枕慈童シテ」「景清ツレ」「蝉丸の蝉丸役」「俊成忠度シテ」「小鍛治前シテ」と5番の大役を勤められている。渡雲会でも能の出演回数では丹野貞次、中山幹朗、八角菊栄の皆さんに次ぐ記録を作られたベテランである。平成6年頃からご自分の会社のお仕事が忙しくなり、稽古に見えないのは残念だが、時折月並能などで元気なお姿を見受け、能には変わらぬ関心を持っておられる樣子なので、再び復帰される日を楽しみにしている。

 阿部理一さん 残念ながら平成8年2月物故された。昭和29年、KDD宝生会が発足した時からの仲間なので残念至極である。彼がいなかったらおそらく私は途中で謡を投げ出していたと思う。だいぶ前から京都に移ったため一緒に謡う機会もなくなってしまった。謡会のあと、一杯入るとよく「籠の鳥」「紅屋の娘」など大正、昭和初期のナツメロが飛び出してくるのを懐かしく思い出す。

 柏山聡子さん この人の成長ぶりには目を見張るものがある。芸大も卒業されていよいよプロの仲間に入られた。本年1月、東京芸術大学大学院音楽研究科修士課程の邦楽専攻(能楽)学位審査会で、能「花月」を舞われたのを拝見する機会を得た。

 場所は芸大の第四ホール、普段ではなかなか入れてもらえない芸大の構内にあり、能舞台そっくりに作られている。シテはもちろん聡子さん。ワキはワキ方最高の宝生閑さん、囃子方、狂言方、地謡も東川光夫さんはじめ全員プロ。後見は芸大で指導されている武田孝史先生である。さらに驚いたのは審査員として、宗家宝生英照先生がただ一人で見ておられる。

 この雰囲気の中で聡子さんはみごと舞いおさめた。小蝶役をやったあの可愛らしい聡子さんがこのように立派に成長されたかと、見ていて自分のことのように嬉しかった。婦人能にも出演され、その他いろいろの会で活躍されている姿をよく見かけ頼もしく思っている。

能「土蜘」 宝生能楽堂 (昭和55.6)
能「土蜘」 宝生能楽堂 (昭和55.6)
左 シテ 鹿島清  中 ツレ 阿部理一 右 頼光 高橋春雄





C 思い出 能「蝉 丸」出演   (平9・1記)


 昭和51年5月渡雲会の春季大会で、能「蝉丸」の「蝉丸」役を演ずる機会があった。この時までに能といえば、「紅葉狩」のツレ役と「草紙洗」の立衆に出していただいたくらいで、このような大役は始めての経験である。シテは秋元亮一さん、ワキは本職の野口敦弘先生、地頭は前の宗家の宝生英雄師、地謡にはKDDの皆さんにも出ていただいた。記憶も薄れてきたが、盲の面にしてはよく見えたのを思い出す。

 参考までにその時の番組を掲げてみる。(番組割愛)

 この時からすでに20年あまりの歳月が流れてしまった。写真を眺めているとお互いにまだ若くこんな時もあったのだと感慨無量である。

 宗家の英雄先生と朝倉粂太郎先生がすでに物故されており、私どもの仲間でも秋元亮一、阿部理一のお二人が亡くなられてしまった。秋元さんとはこのほかにも「夜討曽我」や「絃上」で、阿部理一さんとは「土蜘」で一緒に能を舞わせていただいており、お二人とも昭和29年KDD宝生会が発足した時からご指導をいただいた仲である。振り返ると思い出は尽きないが今は冥福を祈るのみである。

 (写真は「昭和51年」参照)


能「蝉丸」 水道橋能楽堂 (昭和51.6)
能「蝉丸」 水道橋能楽堂 (昭和51.6)
左より 後見 三川淳雄 シテ 秋元亮一 大鼓 亀井忠雄 小鼓 住駒昭弘 
笛 寺井啓之 地謡 長島経治 阿部理一 小嶋郁文 金井章先生 
その他の地謡の方ははっきりしない。藁屋の中が蝉丸 高橋春雄 





D 思い出  能「夜討曽我」  (平5・1記)


 昭和56年渡雲会春季大会に、能「夜討曽我」の十郎役で出演した。「シテ」秋元亮一、「団三郎」中村正巳、「鬼王」丸山乗一、「古屋」児玉栄太郎、「立衆」長島経治、山田元就、「五郎丸」朝倉俊樹の皆さん。


 当時稽古に使った謡本を取り出して見た。朱で書き入れた「ツケ」を見ながら読みすすむと、一生懸命稽古した頃の光景が目の前に浮かんでくる。

 中村さんの団三郎「いざさらば刺し違よう」

 丸山さんの鬼王「尤もにて候」

    ツケ 二人トモ扇ステ組合、小刀ニ手ヲカケル。扇前ヘ置クベシ。右のハダヌグ。

 秋元さんのシテ五郎「ああ暫く。これは何事を仕るぞ」

    ツケ シテ見ツケ立行二人ノ間へ両手ヲ入レ下ニ居ツレを見廻ス

 私の十郎「やあ兄弟の者帰すまじきぞ、帰すまじきぞ・・・」

    ツケ 十郎立二人ヘ向ケ出謡

 お互い気合いを入れて稽古した頃が懐かしい。


 ここまで書いてきて、たしかこの能のビデオがあった筈と思い出す。早速探してみると埃をかぶったビデオテープが見つかった。少しだけでもと思って見始めたらとうとう最後まで見てしまった。

 地謡には太田延男、井上晃一、西謙一の皆さんも参加されている。地頭は今井泰男先生。幕が上がると私が真っ先に登場する。厚板を着附に着て、白大口をはき、上に掛直垂を着て腰帯をしめ、小刀をさす。そして弓矢を持った姿は馬子にも衣装といったところ。幸い私の役は舞もなく、動くところも少ないので大助かり。その代わり言葉や謡うところは多い。シテ秋元さんの堂々たる謡い方に比べかなり見劣りするが、なんとか立ち往生せずに謡い納めており、今回十三年ぶりに見てもほっとした。

 後半に入って、私十郎はすでに討たれてしまっているので、登場しないのだが、秋元さんの五郎が

 「十郎殿、十郎殿。何とてお返事はなきぞ十郎殿・・・口惜しや死なば一所とこそ思いしに・・・」

 という場面で私の胸はぐっと詰まりそうな感じがした。今は亡き秋元さんから呼びかけられているように思われたからである。

 この曲の前半を一緒に演じた方々、秋元さん、丸山さん、中村さん三名とも13年の間に幽明境を異にしてしまったのである。


能「夜討曽我」十郎 高橋春雄
能「夜討曽我」十郎 高橋春雄

能「夜討曽我」 宝生能楽堂 (昭和55.5)
能「夜討曽我」 宝生能楽堂 (昭和55.5)
左より シテ 秋元亮一 鬼王 丸山乗一 団三郎 中村正己 十郎 高橋春雄





E 能「絃上」出演  (平7・10記)


 昭和60年6月渡雲会の春季大会で、能「絃上」の「師長」役を演ずる機会を得た。この曲は役の数が多いが、この時はシテ方の役、地謡ともプロの先生方を除いては全部KDDのメンバーで演じられたのが印象に残っている。

 参考までに、番組を再現してみよう。(番組は割愛)

 ワキ方、囃子方、後見、間狂言の方々はもちろんプロの方ばかりであるが、シテ方では鬼神の武田孝史さんを除いた4名、すなわち前シテの老翁は長島経治さん、後シテの村上天皇は秋元亮一さん、ツレの老嫗は太田延男さん、ツレの師長は私とすべてKDDメンバーであり、また、地謡前列の児玉栄太郎、小嶋郁文、石川恭久、佐藤信顕の4名の皆さんも同様にKDDメンバーである。


 渡雲会でも数多くの能が出されてきたが、一曲の能でプロ以外の全員、しかも8名もの方が全部同じ謡曲サークル出身というのも例がないのではないかと思い、過去の記録を調べてみた。

 以下は同じ曲目で、役と地謡を併せてKDDメンバーが4名以上出演しているものの一覧表である。(省略)


 調査の結果以上の15曲が該当したが、この中でKDDメンバー8名というのも、またプロ以外の出演者が全部KDDメンバーというのも、予想どおり、この「絃上」のみであった。

 あの時から早くも10年の歳月が流れた。今その時の番組やアルバムを眺めていると、あたかも自分が師長になって須磨の浦で琵琶を弾じているような気がしてくる。・・

 須磨といえば「松風」「敦盛」の曲も思い出される。阪神大震災でこのあたりどのようになったことであろう。

 

 <追記 平14・8>

 この後の記録を調べてみたが、次のとおり、平成9年の「七騎落」と12年の「経政」に4名以上が出演している。そして私がシテ役を仰せつかった「七騎落」が9名の参加で「絃上」の8名をこえて記録を更新している。

 平9 七騎落シテ 高橋春雄 頼朝 石川恭久 岡崎 長島経治 立衆 太田延男 柳川英夫 米永和人 山田清重 地  佐藤信顕 児玉栄太郎 9名


能「絃上」 師長 高橋春雄
能「絃上」 師長 高橋春雄

能「絃上」 宝生能楽堂 (昭和60.6)
能「絃上」 宝生能楽堂 (昭和60.6)
左 前シテ 長島経治 右 師長 高橋春雄





F 思い出  能「田村」演能と『能「田村」とその周辺』 

                         ( 平4・6記)

 昨年6月、宝生能楽堂における渡雲会の春季大会で能「田村」を舞わせていただいた。私にとっては、始めてのシテ役であり、思い出深いものとなった。

 また、「経政」の項で紹介した西謙一さんの『能「忠度」とその周辺』なる小冊子に影響を受け、西さんのアドバイスもあって、その真似をして『能「田村」とその周辺』 なる印刷物を作成、見にきていただいた方にお配りした。

 出来上がって見れば30頁に満たない小冊子であるが、それでも原稿を書くためには、坂上田村麻呂についていろいろの書物を読んだり、その謡蹟めぐりの旅行をしたりして、このことが能を舞ったのと同じく良い思い出となっている。

 現在、テキストの6月分と7月分の作成を手がけているが、この時期、「渡雲会催会番組抄録」の作成・配布、渡雲会の55周年記念大会のお手伝い、教授嘱託会東京支部の支部大会・全国大会・東北大会・関東甲信越大会への参加準備のお手伝い、郷土会の総会準備のお手伝い、「秋元さん追想録」の作成等期限に追われる作業が立て込んで、テキスト作成が遅れてしまった。

 たまたまテキストの順番が、「忠度」「田村」の順番になったので、作成準備に取りかかったが、この二曲とも小冊子があったことを思い出し、今回はこの一部をコピーすることで、若干の手抜きをさせてもらうこととした。  (平成4.6.14)

 (内容はあまり長くなるので割愛する。)


能「田村」 前シテ
能「田村」 前シテ

能「田村」 後シテ 宝生能楽堂 (平成3.6)
能「田村」 後シテ 宝生能楽堂 (平成3.6)





G 能「七騎落」を舞わせていただいて   (平15・1記)


 師匠渡邊三郎先生の渡雲会60周年記念全国大会が、平成9年8月30、31の両日、宝生能楽堂において開催され、能は「俊成忠度」「東北」「船弁慶」「俊寛」「葛城」「七騎落」「猩々」の7曲が出された。

 私は第二日目、8月31日の出演で、「七騎落」のシテ役を仰せつかった。これまでに「紅葉狩」「草紙洗」「蝉丸」「土蜘」「夜討曽我」「絃上」と何回か能に出演させていただいたが、シテ役を努めるのは「田村」に次いで二回目である。

 この能で特筆したいのは素人で出演した11名のうち、9名までが私の出身母体である「KDD宝生会」から渡雲会に入門したメンバーだということである。次に示す役割表のように括弧で囲んだ方以外は全部プロの方である。そしてお役の方はワキの野口敦弘、子方の東川周史のプロの方を除くと全員がKDD宝生会出身の連中である。

 このような仲間と一緒に能を舞わせていただいたことは、私の50年にも近い謡曲人生の中で最高、最良の出来事であったと思っている。

 (番組割愛、写真は記念誌「渡雲」参照)


・ 稽古の思い出

 渡邊先生に60周年の記念大会に能をやれ、と云われてお受けした明確な月日ははっきりしないが、多分平成8年の9月頃のようである。その頃の日記を見ると「七騎落」の暗記、舞囃子「七騎落」の稽古(舞囃子は平成7年に出演)、『能「七騎落」とその周辺』作成などの文字が頻繁に登場してくる。どうやら、ほぼ1年間私の頭からは1日たりといえども「七騎落」のことが頭から離れなかったようである。

 先生から能の型付を拝借して、新しく買い求めた謡本に写させていただいたのが、9年の2月6日、本格的な先生の稽古は2月11日から始められた。最初は謡い方の稽古から、前半、後半に分けて型の稽古、お役の方が水道橋支部に多いので、そちらの稽古場に出かけたり、宝生能楽堂の本舞台の特別稽古3回を含め、先生からは21回に亘って指導をいただいた。

 最後の8月28日の申合せ、これには本番に出演される全員が集まっての最終リハーサルである。

 当初、大会は例年どおり5月か6月に開催の予定であったが、途中で変更となり8月末となってしまった。早く終ってこの重圧から解放されたいと願っていたが、結果的には稽古の時間を多くとることが出来、それだけ自信につながったものと感謝している。

 当日はなんとか立ち往生せずに舞い納めることが出来たのが何より嬉しかった。

 大会終了後、東京會舘で祝宴が開かれ170余名の方々が列席された、渡邊三郎先生には名誉教授の称号を授与する等の余興もあり和やかな雰囲気であったが、その席で能のシテ役をつとめた方々に、挨拶する機会が与えられた。私はKDDグループがこのように大勢で能を舞うことが出来たことへの感謝の言葉を述べた。


 ・ 『能「七騎落」とその周辺』等の作成配付と反響

 能のシテ役を演ずることなど滅多にない機会なので、前回の「田村」の時にならって、親戚、知人に事前に、30ページほどのパンフレット『能「七騎落」とその周辺』を、会が終ってからは、能のテレカ、絵はがき大の写真を作成贈呈した。

 『能「七騎落」とその周辺』には次のものを収録した。

1 能「七騎落」役割表

  「七騎落」のあらすじ・みどころ  謡本・藤城繼夫著「能への招待」より引用

  「七騎落」謡本  謡本全文に解説(佐成健太郎「謡曲大観」を参考)をつける

  「七騎落」の出典 同上著書より「源平盛衰記」部分を引用

2 石橋山の合戦と頼朝成功の秘密 石井進著「日本の歴史7」を抜粋紹介

3 「七騎落」の謡蹟を訪ねて

  石橋山古戦場、土肥の大杉、頼朝船出の地、土肥実平・遠平、岡崎四郎義実、佐奈田与一、田代冠者信綱、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、安達藤九郎盛長、土佐坊昌俊、和田小太郎、大庭景親、俣野五郎関係を主とし、その他頼朝関係の謡蹟を、写真46葉を添えて収録した。


 当日は多くの方が観にきてくれたのが嬉しかった。能楽堂入口に設けた受付で記帳していただいた方だけでも74名にのぼった。親戚、小学校同級生、官練同級生、会社関係、渡雲会関係、教授嘱託会関係など多彩な顔ぶれである。また多くの方からお祝いを頂戴した。

 会が済んでからは68名の方々からお便りを頂戴した。私の能やお配りしたパンフレットについての感想が記されており、私にとっては何よりの宝物となった。頂戴したお便りは全部パソコンに入力、印出したが、B5版にかなり細かい字で20ページになったので、ほかの関係資料とともに、『能「七騎落」出演関係記録』として一冊に製本し、時々取り出して懐かしく拝見している。

 そのほか26名の方から電話を頂戴し、また7名の方からは写真を送っていただいた。
写真はアルバムに納めて大切に保存している。



H 思い出 舞囃子初舞台「玉葛」   (平5・7記)


 「玉葛」は私が舞囃子として最初に舞わせていただいた曲として大変懐かしい曲である。昭和61年6月の渡雲会春季大会の時である。

 渡邊三郎先生から仕舞の稽古も随分すすめられたが、仕舞など柄でもないと思って長いことお断りし続けてきた。しかし、能に出させていただくようになったり、仕舞や舞囃子の魅力がだんだん分かるようになり、昭和57年11月から仕舞の稽古もお願いすることとなった。

 あれから10年ほどが経過した。今になってみれば、もっと早く稽古を始めておけばよかったと思うのであるが後の祭である。渡雲会での仕舞の初舞台は58年春の「紅葉狩」である。この時もかなり緊張したような気がするが、舞囃子の「玉葛」はもっと緊張した。仕舞よりも謡う箇所が長いし、「カケリ」という得体の知れないものも入ってくる。笛、大鼓、小鼓に合わせて舞うというのが、始めての者には物凄い重圧感を与えるのだ。

 その時の番組を取り出してみた。囃子方は大鼓、佃良勝、小鼓、鵜沢速雄、笛、藤田朝太郎の各先生。地謡は三川淳雄、田崎隆三、武田孝史、佐野登の各先生と印刷されている。亀田邦平氏撮影の記念写真もあった。大勢のプロの先生方の間で素人は私だけ。考えてみれば贅沢な道楽だ。ビデオも残っていた。写真は動かないからよいが、ビデオは見るのがこわい。おそるおそるかけて見た。拍子を踏むたびに頭は動くし、足の運びもなっていない。自分で描いていたイメージが大分こわされてしまった。ビデオは練習のためにはよいが、自分のを記録するには向いていないようだ。

 (写真は割愛)



I 思い出 舞囃子「胡蝶」の「中ノ舞」 (平5・7記)


 平成4年6月、渡雲会の春季大会で、舞囃子「胡蝶」を仰せつかった。それまでに3曲ほど舞囃子を舞ったが、その中の舞いは「カケリ」か「ハタラキ」で比較的簡単なものであった。しかし、「胡蝶」の舞は「中ノ舞」である。

 今まで「中ノ舞」とか「序ノ舞」とかを見ていても、よく鼓や笛の音を聞き分けて間違いなく拍子を踏めるものと感心していたが、いざ自分がやることになると感心ばかりしてはいられなくなった。鼓や笛の音が「オヒャーラ、ヒウヤー」と聞こえなくてはいけないのだそうだ。ビデオ「宝生の華」に収録されている田巻利夫先生の「舞囃子・胡蝶」を手本にして何回稽古したことか。その点ビデオは有難い。何回かけ直してもいやな顔ひとつせず何回でも相手をしてくれる。

 なんとか大会でも立ち往生せずに出発点に戻ってきた。まがりなりに「中ノ舞」が理解できてくると、能を見る目も全然違ってくる。今までは「序ノ舞」など正直言って退屈で仕方なかったが、今度は待ち遠しいくらい。

 中ノ舞が分かると他の舞にも共通点が多いのに気がつく。「楽」や「羯鼓」が舞えるようになったらさらに一段と能が面白くなるだろうと思う。



J 舞囃子 「猩々」(渡雲会)  (平成8・5記)


 平成5年6月、渡雲会の春季大会(宝生能楽堂)において舞囃子「猩々」を舞わせていただいた。

 東京支部の囃子謡研究会では毎年7月の支部大会で、その年の研究曲目を舞囃子として出演することになっており、その順番が廻ってきてなにかを舞わなければならぬ羽目となった。「猩々」を推薦されたので、師匠のお許しを得てからと、渡邊三郎先生に申し上げ、6月の渡雲会にもこの曲をお願いして稽古をつけていただいた。「中ノ舞」は前に習ったので少しは気が楽であったが、「渉り拍子」のところは苦労した。今までいい加減に謡っていたが、囃子が入るのでは囃子方にあまり迷惑はかけたくない。地拍子謡本の△▲△▲○●○○と、テープを頼りに何回となく繰り返し練習した。本番の結果については余り自信はない。

 (写真は割愛)



K 舞囃子「葛城」と「序ノ舞」  (平7・4記)


 本年6月、渡雲会の春季大会で舞囃子「葛城」を舞うことになった。まだまだと思っているうちに、早いもので大会まであと1ケ月ちょっとになってしまった。

 この曲の舞は「序ノ舞」である。「序ノ舞」は記念切手にとりあげられたこともあり、その舞姿に憧れに似た思いをもっていたが、仕舞や舞囃子を習っていない時は、たまに能楽堂で能の「序ノ舞」を見ても、とても難しそうでとても自分の手に負える代物ではないと思っていた。

 その後、仕舞や舞囃子を習い始めると、舞い物に興味が増してきた。舞囃子もカケリ、ハタラキ、中ノ舞、男舞と進んできたので、今年は思いきって「序ノ舞」に挑戦してみようと師匠の渡邊三郎先生にお願いして「葛城」の曲を選んでいただいた。目下「序ノ舞」の稽古に励んでいる。「中ノ舞」と基本は同じようであるが、ゆっくりしたテンポにあわせるのと、拍子を踏む所が難しい。笛にも一噌流と森田流があるとかでなかなか聞き分けられない。今年の大会では一噌流の先生が予定されているとのことである。

 渡雲会で何人くらいの方が舞囃子「葛城」を舞っているのか興味を覚えたので調べてみた。昭和37年以降の記録をたどると、高瀬瑶子、松尾真江、横川節子、新井恭子、阿部秀世、原田治子、荒井房代、北島幾代、本川直江、松坂朋子、赤井千容、鹿島清、糠加八重、長島経治、八角菊栄の15名の方がこの曲を舞っている。男性の数が少ないのは残念であるが、こんなに多くの方々が同じように笛の音に苦労しながら稽古したのかと思うと、仲間意識みたいな感慨が湧いてくるとともに、渡雲会の歴史の重みを感じざるを得ない。

<追記 平13・10 舞囃子「葛城」の写真>

 これを書いた時から6年以上を経過した。今回改めてその時の番組と写真を取り出して見た。

 平成7年6月4日、春季大会番組の一番最後に私の舞囃子「葛城」が載っている。大鼓上條芳暉、小鼓亀井俊一、太鼓大江照夫、笛藤田次郎、地謡は宗家宝生英照、当山孝道、田崎隆三、登坂武雄の各先生の豪華メンバーである。

 舞囃子もその後、「放下僧」(鞨鼓)、「養老」(神舞)、「安宅」(男舞)等を舞わせていただき、来年6月の65周年大会には、「唐船」(楽)を舞う予定になっている。拍子を踏む数が多いのでなかなか難しいが楽しそうな曲である。

 (写真は割愛)



L 舞囃子「放下僧」   (平11・1記)


 平成8年6月、宝生能楽堂における渡雲会追善春季大会で、舞囃子「放下僧」を舞わせていただいた。

 囃子方は、大鼓、国川純、小鼓、幸清次郎、笛、藤田次郎の各先生、地謡は地頭今井泰男先生でその他金井章、小林与志郎、辰巳満次郎の各先生方である。舞台といい、先生方といい、これ以上は望めない豪華メンバーである。

 「放下僧」の舞は「鞨鼓」である。「鞨鼓」は中の舞や序の舞と違った難しさと面白さがあり、途中少し間違えたところもあるが、私にとっては忘れ得ない舞台となった。

 この写真はKDDの謡友、金子忠三郎さんが撮ってくれたものである。


舞囃子 「放下僧」(羯鼓) 宝生能楽堂 (平成8.6)
舞囃子 「放下僧」(羯鼓) 宝生能楽堂 (平成8.6)





M 舞囃子「養老」      (平11・12記)


 平成10年6月7日、渡雲会春季大会で、舞囃子「養老」を舞わせていただいた。囃子方は、大鼓 内田輝幸、小鼓 鵜沢洋太郎、笛 一噌庸二、太鼓 大江照夫の諸先生。地謡は今井泰男、寺井良雄、當山孝道、今井泰行の諸先生という豪華メンバーである。

 当初、「高砂」を舞う予定で稽古が進んでいたが、途中で、太田典子さんが「高砂」を希望している由で、「高砂」と同じ神舞を舞う「養老」に変更してほしい旨、先生からお話があった。

 「養老」は前に仕舞で失敗した経験があるので、あまり気乗りはしなかったが、一方今度こそはという気持にもなって、喜んでお受けすることとした。新しく文句も暗記しなければならないし、神舞はテンポが早いので、チョットでも間違うと元に戻すのが容易ではない。前回の徹を踏まぬよう一生懸命稽古をした。

 その甲斐あってか、当日は大過なく舞い納めることが出来てほっとした。懇親会ではお酒は呑めないので、ウーロン茶をいただいたが、これが養老の水かと思うほど美味しかった。

 (写真は割愛) 



N 仕舞「養老」立ち往生   (平2・5記)


  昭和61年10月、渡邊三郎先生の渡雲会秋期大会が、椎名町の観昭会館で開催され、仕舞「養老」を舞わせていただいた。

 すべり出しは順調だったが、中程にさしかかった時、一瞬雑念が頭をかすめると頭の中がマッシロになった感じで、舞台のまん中で立ち往生してしまった。

 先生が何かドナッテいるが、よくわからない。どこをどう回ったか覚えていないが、とにかく出発点に戻って来た。

 先生は「稽古の時はよく出来ていたのにね・・」と慰めて下さったが、気分はスッキリしない。その夜の懇親会のお酒の味はホロニガかった。養老の瀧の水のように美味しい筈なのに。

 短い曲だからと軽くみて、稽古をミッチリやらなかった罰と自戒したことである。



O 思い出 仕舞「笠之段」 (平6・3記)


 渡雲会の平成5年秋季大会で仕舞「笠之段」を舞わせていただいた。笠之段は芦刈の一節である。舞台は前田晴啓先生の涛朋会舞台、珍しく地階に造られた立派な舞台である。

 地謡は中村孝太郎、水上輝和、辰巳満次郎の諸先生が謡って下さった。番組には渡邊先生の名も書かれていたのだが、この会の時は喉をいためられ地謡には出られなかった。こんなことは初めてのことなので、私どもも心配したが、先生はさぞ辛かったことと思う。幸い間もなく全快されたので私ども門下生一同も喜んでいる。

 この曲は結構長く、拍子を踏むところも沢山あってだいぶ苦労させられた。


 田無市民文化祭の謡曲と仕舞の会で仲間の長島経治君が「笹之段」を舞うことになり、私が地謡を謡った。この会は田無市が毎年文化の日に観世、宝生、金剛、喜多等各流派のサークルが参加する恒例行事である。宝生流からは先輩の秋元亮一さんが、お弟子さんの佐藤良夫、長谷部麻子、堀口修司の皆さんと毎年参加しており、長島君と私も助っ人として参加してきた。その秋元さんが、平成4年1月急逝されたが、その後も宝生流として参加してほしい旨の要請があるようで、佐藤良夫君が中心になって灯をともし続けている。

 長島君が「笠之段」をやるというので、仕舞を習っている私が地頭をやらざるを得ない。ところがこの曲の地謡は大変難しい。地謡をマスターするには、自分で仕舞も稽古するに限ると思って、渡邊先生に稽古をお願いした。幸い文化祭では3名の協力を得て大過なく謡うことができた。私は「桜川クセ」を舞ったが、これは長島君が地頭をつとめてくれた。

 不思議なのは、この文化祭の会では、観世流からも仕舞「笹之段」「桜川クセ」が出され、期せずして、宝生、観世の競演となったことである。

 (写真は割愛)



P 仕舞「女郎花」  (平13・5記)


 「女郎花」も好きな曲である。特に「此花恨みたるけしきにて、夫の寄れば靡きのき又立ちのけばもとの如し」の部分は謡って舞っても感慨深いところである。

 渡雲会では平成11年1月、銀座能楽堂における初会でこの曲を舞わせていただいた。地謡は渡邊三郎、中村孝太郎、登坂武雄、澤田宏司の諸先生である。

 同じく平成11年2月、名古屋の料亭松岡において教授嘱託会の東海連合大会が開催され、この時も「女郎花」を舞わせていただいた。その時地謡を謡って下さったのが、辰村直治(当時東京支部長、理事長候補なるも11年10月急死)、大谷龍祐(当時理事長、現在顧問)、小林秀夫(当時東京支部副支部長、辰村氏死亡後東京支部長、現在理事長)の3名である。理事長格の3名の方に地謡を謡っていただき仕舞を舞えたのは大変光栄で、私にとっては貴重な写真となったので掲げさせていただく。

 (写真は割愛)



Q 中山幹朗さんと渡雲会   (平9・12記)


 中山さんは昭和38年7月、三代目の渡雲会会長に就任され、爾来今日まで34年余に及んでいる。渡雲会の60周年記念がつい先日盛会裡に終了したが、この長い渡雲会の歴史のうち、半分以上の期間に亘って会長職を続けるということは誰にでも出来ることではない。

 昭和39年、私が渡雲会に入門させていただいた時には、中山さんはすでに会長になっておられた。駆け出しの私にとっては雲の上の方で、渡雲会の会合のたびにお目にかかってはいるが、当初はちょっと近づきがたい存在であった。

 しかし中山さんの能や舞囃子、仕舞、謡などを拝見、拝聴し、懇親会における簡潔にして要を得たご挨拶や懇談に接しているうちに次第に親しみを覚えるようになった。私が入門する前にも数多くの能を舞われていると聞かされ、何時、どんな曲を舞われたのか知りたいと思い何人かに聞いてみたが、明快に答えてくれる方はいなかった。自分で調べるしかないと思い、先輩に古い番組をお借りしたりして能に関する分だけは調べることが出来た。こんなことがきっかけになって「渡雲会の催会番組抄録」のようなものを作ろうと思い始めたようである。作成の動機を与えた下さった中山さんに感謝したい気持ちである。

 この機会に私が作成した「番組抄録」と、私の手元にある「渡雲会30周年記念誌」以降5年ごとに作成されている「記念誌」によって中山会長の渡雲会における足跡の一部をたどってみたいと思う。


◎ 「渡雲会催会番組抄録」より中山会長分抜粋

・ 能(全部シテ)

 俊寛(昭27) 羽衣 船弁慶 黒塚 井筒 花筺 阿漕 乱 海人 隅田川 熊野 松風 綾鼓(昭55)の13曲

・ 舞囃子(昭37以降)

 山姥 松風 遊行柳 鶴亀 枕慈童 実盛 弱法師 の7曲

・ 仕舞(昭46以降)

 籠太鼓 実盛キリ 善知鳥 高野物狂クセ 忠度 玉之段 雲林院 遊行柳キリ 芭蕉 難波 三井寺 熊野キリ 野宮 松風 三笑 笠之段 西行桜クセ 鶴亀クセ 高野物狂クセ 鶴亀クセ 三山 笠之段 鉄輪 山姥キリ 駒之段 江口キリ 藤戸 邯鄲 木賊 砧マエ  難波 柏崎ミチユキ 山姥キリ 雲林院クセ 雨月マエ 鷺 高砂 三井寺 籠太鼓 老松 高野物狂ミチユキ 木賊クセ 芭蕉キリ 遊行柳クセ 芭蕉キリ 難波 西行桜 雲林院クセ 雨月マエ 高野物狂 遊行柳クセ 高砂 三井寺 西行桜クセ 三笑 東北キリ 木賊 の57曲 

・ 素謡・連吟(シテ役のみ)・独吟(昭46以降)

 弱法師 葵上 通小町 土車 海人 邯鄲 玉之段 隅田川 歌占 熊野 江口 鸚鵡小町 弱法師 卒塔婆小町 一字題 綾鼓 遊行柳 綾鼓 唐船 景清 翁 鉄輪 絃上 遊行柳 実盛 砧 通小町 鸚鵡小町 西行桜 求塚 葵上 大原御幸 木賊 鉢木 隅田川 木賊 野宮 三井寺 雲林院 綾鼓 朝長 江口 雨月 弱法師 綾鼓 大原御幸 鉢木 景清 隅田川 卒塔婆小町 の50曲

 これだけの大曲・難曲を数多く演じられた方は、渡雲会会員の中ではちょっと見当たらないのではなかろうか。


(補足)

 中山さんは渡雲会以外でも大いに活躍されておられる。

 例えば昭和54年春の宝生能楽堂竣工記念大会に、宝生会理事の一人として能「枕慈童」を舞われたとのことである(50周年記念誌参照)。

 昭和54年現在の宝生能楽堂が完成し、同じ年の6月、4回(9、10(2回)、17日)にわたって舞台披きが開催され、職分の先生方が出演された。その直後、現宗家宝生英照先生の「はなぶさ会」の竣工記念大会が新装成った宝生能楽堂で開催され、能「鷺」「八島」「花筺」「枕慈童」が上演されたが、はなぶさ会会員以外では中山さんだけが「枕慈童」を舞われたとのことである。

 おそらく素人としては、新しい能楽堂で能を演じた最初の一人ではなかろうか。ひとりご本人だけでなく、渡雲会にとっても大変名誉のことである。

 また、中山さんは能楽養成会会にも関係しておられ、わが国の能楽発展のためにも尽力されてきたとのことである。能楽養成会は初めは能楽三役養成会として昭和29年に発足した。つまり、三役(ワキ方、囃子方、狂言方)の養成を主目的としたが、昭和35年からはシテ方も含めて能楽養成会と改称された由である。この養成会の修了生が大勢現在第一線で活躍されておられる。

 このように渡雲会だけでなく、日本全体の能楽界発展のため尽力されてこられた中山さんに心から敬意を表するとともに、今後もご自愛のうえ、ご指導をいただきたいものと願っている。



R 思い出 斎藤基房さんとの「安宅」 (平3・3記) 


 昭和63年8月、渡雲会半歌仙会の番組が発表され、「安宅」の曲にはシテ斎藤基房、ワキ秋元亮一となっていた。ところが秋元さんが病気か何かで欠席となり、私が代役を仰せつかってしまった。

 斎藤さんは渡雲会の中でも自他ともに許す謡の名手。その斎藤さんがシテの弁慶で、ワキは弁慶と渡り合う富樫だから大変だ。しかし、考えようによっては斎藤さんを相手に富樫をやれる機会など、私などには望むべくもないことだ。とにかくできるだけ稽古してぶつかろうと覚悟をきめた。

 その時の写真があった。シテの斎藤さん、ワキが私、ツレの同行山伏は児玉栄太郎、太田延男、柳川英夫の皆さん、判官は西謙一さんである。場所はま松会館である。

 録音したテープを今回聞いてみた。ワキの名乗りは省略して、シテ、ツレ同吟で「旅の衣は篠懸の」から始まる。シテの斎藤さんの声に混じって、ツレの同行山伏や判官の声も聞こえてくる。さすがは斎藤さんの弁慶を中心とした山伏一行の迫力は抜群。

 この一行にストップをかけるのが私の富樫の役目。どんな謡い方をしているか気にかかる。一行は関所を通り過ぎようとする。

 「なうなう客僧達これは関にて候」が私の第一声。なんとか一行には聞こえたようだ。

 ここから弁慶の斎藤さんと富樫の私の掛合が始まる。もちろんベテランの斎藤さんと比較すべくもないが、なんとか関を守ろうとする富樫の意気込みだけは感じられるようだ。

 やがて弁慶の「勧進帳」を読み上げる場面となる。凄い。これが82歳の方の声か。本当にテープをとっておいてよかったと思う。時間の制約もあり最後まで謡っていただけなかったのは残念至極である。

先日、来年の渡雲会55周年記念大会の準備打ち合せの際、昭和62年の50周年記念大会の記念誌を参考資料としていただいたが、その中に斎藤基房さんの言葉として「想い出のエキスを端的に述懐させて戴きますと、1、演能は芸道の事、心血を注いで演るべし老いぬ間に」という一文があった。この「安宅」にしても、演じられた能「景清」「弱法師」「大原御幸」などにしても、まさに心血を注いで稽古されたものであろう。

 最近、渡雲会の例会にも、青葉宝生会にも斎藤さんの姿が見られない。この時からすでに3年も経過しているので、現在は85歳になっておられる筈。元気な姿を見せあの素晴らしい謡を聞かせていただきたいものである。

 (「安宅」の写真は割愛)



S 秋元亮一さんと、外の浜(青森)、善知鳥(平成6・9記)


 私の敬愛する秋元亮一さんは平成4年1月18日に亡くなられた。秋元さんが青森の出身であることは存じていたが、青森といっても青森市の中心地、往時青函連絡船が発着していた港のすぐそばで生まれ育ったことまでは知らなかった。


 平成4年9月、私たち有志で「秋元亮一を偲ぶ」なる追想録を作成したが、その際、妹の久道雅子さんから「兄の生い立ち」という一文が寄せられた。その一部分を引用させていただく。

 「兄は大正十年三月六日、父雅豊、母ミエの長男として、青森市安方五八番地(通称秋元小路)で呱呱の声を上げた。

 当時秋元小路と市民の間で呼ばれていた所は、国鉄青森駅から繁華街に展びるメインストリートに端を発し、連絡船発着の岩壁まで延びている小路で、曾祖父の政吉は商才に長け旅館、銭湯等手広く営んでいた秋元家が軒を連ねていたためと思われる。青森駅の真正面で徒歩三分、最も地の利を得た場所で、鰊(ニシン)で繁栄を極め熱気溢れる魚市場もすぐ近くにあった。」

 「昭和二年春、青森市新町尋常小学校に入学した。新町小学校は市街地の中心部にあり、昭和二十年七月の青森大空襲で消失して以来廃校となったもので、現在その跡地は「青い森公園」となり、その一隅に記念碑がその名残りを留め、市民の憩いの場として残されている。」

 「津軽海峡は当時の面影を残しているが、兄が青森にいた期間は少年の頃までであり、その後青森もすっかり変わってしまい、父も母も他界してしまった現在、兄の面影を偲ぶ場面もすっかり少なくなってしまった。」

 

 この一文を読んでおり、また、善知鳥神社にも是非参詣したいと思っていたので、平成4年10月、札幌でクラス会が開催されたのを機会に青森に1泊した。泊った宿の窓から善知鳥神社の善知鳥沼が真下に見えたのも偶然であった。

 秋元さんの妹さんに電話して、青森に来ている旨を告げ、秋元小路や秋元さんの育った家の場所をうかがった。時間の関係で妹さんにお会いしなかったが、翌朝、北海道へ出発する際、教わった場所に行ってみた。秋元さんの生家のあったあたりはまさに繁華街のまんなか。朝早いため、人影はなかったが港はすぐそば、駅までは2、3分の距離である。

 秋元さんが通った新町小学校があったという青い森公園にも行ってみた。公園の中に「新町小学校卒業五十周年記念植樹」を見つけたので写してきた。

 秋元さんの生まれた所も善知鳥神社も同じ青森市の安方町にある。しかも外の浜は目と鼻の間である。秋元さんの「善知鳥」の曲に寄せる思いは格別のものがあったに違いない。その思いを聞く機会は永久に失われてしまった。

        

(21) 八角菊栄さんの思い出 (平15・1記)


 八角さんについては「鷺」の項でも少し触れたが、永年渡雲会の幹事長として毎年の初会、春季大会、半歌仙会、秋季大会の準備手配、写真、記録等、文字どおりこの会のかなめとして活躍してこられた方であるが、惜しくも平成14年2月に逝去された。 

 渡雲会における八角さんの能、舞囃子の記録を調べてみた。

能   「竹生島」 後シテ   「俊 寛」 康頼   「夜討曽我」五郎 

    「鵜 飼」 シテ    「小袖曽我」五郎   「蝉 丸」 逆髪

    「経 政」 シテ    「小鍛治」 シテ   「石橋」(連獅子)赤

    「鞍馬天狗」シテ    「小 督」 シテ   「船弁慶」 シテ

    「 鷺 」 シテ    「雲林院」 シテ   「鶴 亀」 シテ

    の15曲

舞囃子 「花 月」  「生田敦盛」  「放下僧」  「養 老」

    「船弁慶」  「高野物狂」  「船弁慶」  「葛 城」

    「雲雀山」の9曲

 仕舞に至っては昭和46年以降だけでも50曲に及んでおり、曲名の記載は省略させていただく。


 八角さんとの思い出は尽きない。

・ 長島経治君と一緒に八角さんのお宅に行って渡雲会の大会の準備作業を行ったこと。

・ 千葉県の九十九里浜近くにある彼の別荘に連れて行ってもらい、北浦までドライブ、私は生まれて始めて釣りをしたこと。

・ 先生のお宅で稽古が一緒になると帰りにはよく自動車で送ってもらったこと。

・ 昭和51年、彼が発起人となってスタートした弥生会に入れてもらい、月二回の会合に参加したこと、はま松会館、練馬文化センター、狭山湖畔、飯能市竹寺等々での謡会。

・ 弥生会の謡会が500回になったので平成13年7月記念誌を作成、彼が生存中に完成、大変喜んでいただいたこと。

・ 彼が撮ってくれた写真が沢山残っていること。

・ 通夜の席では渡邊三郎先生の発声で、多くの方々と共に「江口」を奉謡したこと。

・ 彼が幹事長として準備した渡雲会65周年記念大会、逝去された後はその事務を引き継いだが、会員皆さんの協力を得て、平成14年6月無事終了することが出来たこと。

・ 平成14年8月の渡雲会夏期謡会は「八角菊栄氏追善」の会となり、「江口」の曲を長島経治君のシテ、私のワキで謡わせていただいたこと。

  ここでは八角菊栄氏通夜と八角菊栄氏追善謡会の写真を掲げることとする。

  (写真は割愛)



(22) 思い出  嘱託披露  (平成3・5記)


 昭和54年3月、渡辺先生のお取り次ぎで宗家から嘱託の免状をいただいた。そして同年11月23日、渡雲会舞台における秋季大会で嘱託披露ということでこの「善知鳥」を謡わせていただいた。ツレは小嶋郁文さん、ワキは大先輩の吉川武男さんだった。

 また、同じ日にKDD仲間の丸山乗一、長島経治のお二人、それに阿部秀世さんも嘱託披露を行った。丸山さんが「三井寺」(ワキ阿部理一氏)、長島さんが「江口」(ワキ村本脩三氏)、阿部秀世さんが「半蔀」(ワキ沢田郁代さん)を披露された。嘱託披露宴の席上で先生から私ども4名が嘱託になった旨紹介された。

 その時のテープでも残っていないかと思って探してみたが見あたらない。しかし、渡辺先生に稽古してもらっている時のテープが見つかった。昭和54年11月8日に、先生のお宅で録音したものである。

 冒頭「善知鳥、シテ謡いのみ、稽古」と先生の声が入っている。そして一句づつ口移しに丁寧に教えておられる。しかし、なかなか一回ではパスしない。「只、明けても暮れても殺生をいとなみ」のところなど、5、6回も「もう一回」の繰り返しだ。今この曲のシテをやらされても、この時のように謡えるかどうか甚だ疑問である。

 (嘱託免状と嘱託披露懇親会の写真は割愛)



(23) 追善の曲 「江 口」  (平6.9記)


 長い年月の間に多くの人の訃報を聞いた。謡曲関係の方の場合追善の曲を謡われることも少なくないようである。私も何回か経験があるが、「江口」についても忘れられぬ思い出がある。

・ 古池信三氏一周忌 奉謡

 古池信三さんといえば郵政大臣をつとめ、KDDの会長、相談役となられた方であるが、私ども謡の愛好者にとってはKDD末広会を通してご指導、ご交誼をいただいた方である。昭和58年10月逝去されたが、1年後の59年10月、東京会館において一周忌の法要が営まれた。私ども宝生グループにも参加の機会が与えられ、しかも、何か謡をということで、村本脩三、秋元亮一、小嶋郁文の皆さんとともに「江口」の一節を奉謡したことを覚えている。政財界の著名人が多勢参列する中で謡を謡うなどという機会は二度とこないものと思う。


・ 秋元亮一氏通夜 奉謡

 平成4年1月、秋元亮一さんが亡くなられた時は、お通夜の席で私ども宝生グループにより「江口」が奉謡された。村本さんを中心にしてかなり多くの方々がしみじみとした調子で謡われ、何よりの供養になったのではないかと思っている。祭壇に飾られた秋元さんの写真も心なしか少し微笑んだような気がした。


< 追記 平成13・2記 >


・ 斉藤基房氏霊前 奉謡

 斉藤基房さんは渡雲会の副会長を永年つとめられ、その芸風に私どもは魅了されていたが、平成9年12月逝去された。年が明けて10年1月、村本脩三、八角菊栄のお二人と一緒に、奥さまのご自宅を訪ね霊前で「江口」を奉謡させていただき奥さまにとても喜んでいただいた。当日謡った「江口」と、以前に斉藤さんのシテ、私のワキで謡った「安宅」の録音テープを差し上げたところ、奥さまからは斉藤さんが、昭和62年渡雲会50周年記念大会で謡った、独吟「景清」のビデオテープを頂戴した。今回久しぶりに取り出してかけて見たが、とても82歳と思えないハリのある声と姿に驚いた。途中には挿入されたご自分の能「景清」の場面を拝見して、斉藤さんがかって舞われた能「景清」や「大原御幸」の素晴らしい場面を懐かしく思いだした。


・ 秋元亮一氏墓前 奉謡

 秋元さんが逝去されてから7年余が経過した平成11年4月、生前親しくしていた佐藤良夫、長島経治、長谷部麻子、堀口修司の皆さんと一緒に御殿場、富士霊園の秋元さんのお墓詣りをした。謡の友ばかりなので墓前で「江口」を奉謡した。


・ 村本脩三氏通夜 奉謡

 平成11年11月には、KDD宝生会生みの親で渡雲会の長老、教授嘱託会埼玉県支部長を勤められた村本脩三さんが逝去された。通夜には謡曲関係の方も大勢参列、奉謡させていただいた。最初に埼玉グループ10名ほどで「誓願寺」を、次いで私どもの「江口」を霊前に捧げた。用意した「江口」のコピーを埼玉グループも含めお配りし、古瀬孝司さんに最初の一句「心とむる故」を謡っていただき、一同その後を謡った。40数名の合同謡はよく揃っていた。私も途中2回ほど声がつまってしまった。謡い終わるとすぐ長男の方が、涙ながらにお礼の言葉を述べられた。


・ 吉川武男氏通夜 奉謡

 平成12年7月には渡雲会の副会長、教授嘱託会の副理事長をつとめられた吉川武男さんが逝去された。通夜の席に謡曲関係の方が見えたらと思い「江口」をコピーして持参したところ、大谷龍祐(理事長)、小林秀夫(新理事長内定)、菅原誠之助(東京支部長)、長田儀市の皆さんが見えたので、一緒に「江口」を奉謡した。


<追記 平成20.2記>

・ 渡邊先生の奥様 通夜 奉謡

 平成20年1月には先生の奥様が逝去された。通夜の席には多くの会員が集まり、西会長の発声で一同「江口」を奉謡した。



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