当初約1年間の予定だったニューヨーク事務所勤務も外債の発行が4回になったこともあって約1年8ヶ月に及ぶこととなった。
外債発行の目途がつくまでと、4回にわたった調印式の時は忙しかったがそれ以外の時は比較的余裕が出来てきた。本社や在米の商社銀行などの要請により外国の通信会社と交渉したり、日本からの来訪者のお世話をしたりするのが主な仕事であるが、重要事項やVIPの接待は所長が行うので私は本社から出張してくる方の空港への送迎、案内、事務所の留守番、本社への定例報告等が大きな仕事となった。
事務所の3人は日本人だから英語の必要なし。電話も日本の会社からのものが多いので仕事のうえでは余り英語を使う機会はなかった。しかし、折角アメリカに来たのだからとニューヨーク大学、リバーサイドチャーチ(教会)等へ夜出かけて会話の講習を受けたり、休みの時には極力バス旅行などに参加してアメリカ人に接するように心がけた。バスの中でたった一人の日本人として余興に謡曲「鞍馬天狗」の一節を謡ったこともある。
車の運転免許もアメリカで取った。ニューヨークでは実用に供するまでには至らなかったが、帰国し定年退職してから役立ったのは有難い。ゴルフも事務所の市川さんから手ほどきを受けあちこち連れていってもらった。日系人会のツアーに参加し、カリブ海のプエルトリコでプレーしてきたのは良い思い出である。
日本の方々からも沢山のお手紙を頂いた。謡のサークルの方々からは例会のたびに寄せ書きを頂いたし、親戚、友人、会社の方々からのお手紙には随分励まされた。
家内からも毎日のように航空便が届き娘の成長ぶりが写真入りで克明に記されていた。私もせっせと日記代わりに家内に手紙を書いた。
最近ニューヨーク時代の往復書簡の整理をしてみたが大きなファイルが何冊も出来た。40年近くを経て読み返してみると感無量である。これを「NY時代の交換書信集」2冊にまとめたことは前述のとおりである。
1年8ヶ月の米国生活も終わって帰国したのが39年2月、羽田空港で娘がどんな顔で迎えてくれるか心配していたが、すぐに馴れてくれてホッとした。
休みには会話の勉強バス旅行 アメリカ人と話したくて
バスの中たった一人の日本人 余興に謡う謡の一節
日本より免許獲得簡単と 聞いて始める車の運転
妻からは毎日届く航空便 娘の様子詳しく書いて
私も日記代わりの手紙書き 電話などまだ使えぬ時代
セントラルパーク (昭和38.7)
グリニッチビレジ (昭和38.9)
クリスマス風景 (昭和38.12)
上の3枚の写真は、当時外国の風景が珍しかったせいか、KDDの「国際電信電話」誌、昭和39年頃の表紙に採り上げていただいた。
プエルトリコのゴルフコースにて (昭和38.2)
ニューイングランドへのバス旅行にて (昭和38.2)
KDD事務所付近 ロックフェラーセンター展望台より (昭和38.9)
「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−