資料   外債関係こぼれ話 〜 平成10年12月春秋会配布「元経理屋の昔話」から

        外債関係こぼれ話


 KDDでは太平洋横断海底ケーブル建設のための資金を調達するため、昭和37年から38年にかけて、米国において2,500万ドル(90億円)の外債を発行し、15年後の昭和52年に全額償還した。(その概要については別表1参照)

 私は昭和34年12月、財務課資金係の主任を拝命していたので、外債発行の話が持ち上がると、否応無しにその渦中に巻き込まれ、やがてそのため、1年8ケ月のニューヨーク事務所勤務、戻ってきて再び第一資金係主任を昭和41年6月まで勤めた。

 外債を償還した昭和52年6月の直前、52年3月には経理部次長として経理部に戻ってきていたので、結果的には外債の発行(最初)と償還(最後)の双方にタッチしたこととなる。それだけに私の外債に対する思い出はひとしおである。思いつくままにいくつかの思い出を披露してみたい。なにしろ40年近くも昔の話になるので、勘違いがあるかも知れないがご容赦願いたい。


○ 経理屋がなんで英語を勉強せにゃならんの?

 昭和34年12月、財務課資金係主任を拝命した頃の主な仕事といえば、資金計画の作成、有価証券の管理、有価証券報告書の作成、法人税の申告納付、従業員預り金、住宅貸付金等で、これを私と佐藤広雄君(後にKDDを退職、公認会計士として独立)、太田延男君の3名で処理していたように思う。従って英語の必要性など少しも感じたことはなかった。


 ところが、36年頃になると、事情が急変してきた。太平洋横断ケーブルの建設資金を米国で調達するという話が浮上してきたのである。米国から金を借りるにはどうしても英文で財務諸表その他の書類を作る必要がある。私は戦時中に逓信関係の学校で英語を習うには習ったが、敵性国語ということであまり熱心には勉強しておらず、最後の授業が終った時点で英語の教科書を破いてしまったくらいだから英語には全然自信はない。KDDに入ったのもたまたま国際電報局にいたから自動的に移っただけで、英語の実力とは関係ない。KDDでも国際部あたりならともかく、経理部で英語を使うことは先ずあるまいと考えていた。佐藤、太田のお二人もそれほど得意ではなさそうだ。

 しかし、上の人は私どもの心情にはおかまいなく、どんどん仕事をお下げ渡しになる。仕事は取締役の山岸経理部長、増田経理部次長、坂内財務課長、秋元調査役の線を通って、私たちに下りてくる。私たち三人のところでどうしても受け止めなくてはならない。何処にも持って行くところがないのだから。もっと英語を勉強しておけばよかったと後悔しても後の祭りである。ATTの年次報告書等を参考に一生懸命勉強を始めた。


 昭和36年6月頃のこと。佐藤、太田君と3人で飲み屋で雑談の際、佐藤君から英語の会計の本をグループで読むことが提案された。必要に迫られていたので二人とも即座に同意した。翌日、早速佐藤君と神保町へ行き、“Principles of Accounting”という本を購入、勉強会をスタートさせた。毎週水曜日の勤務終了後の夕方、会社の小会議室で3人のうち1人が1章を受け持ち説明するやり方で、その年の暮れまでには、かなり厚いこの本を読み終えたように思う。


 36 年も12月に入ると、山岸経理部長の外国出張に伴う、外資導入関係書類作成でますます忙しくなった。昭和39年までに、太平洋横断電話ケーブル建設するため、KDDは2、3年内に130億円の資金を調達しなければならない。現在当社には20億円しかない。財務部門のトップクラスは、大蔵省、日本興業銀行と協議を重ね、米国から資金を調達する腹をきめ、大野副社長、山岸経理部長、海底ケーブル建設部森次長が渡米し、ATTおよびいくつかの銀行と資金調達について打ち合わせをすることとなった。

 そのため、私たちには次のような数々の資料の作成が下命された。

・ 年次報告

・ 過去5年間の英文財務諸表

・ 財務内容の説明(英文および日本文)

・ 今後10年間の収支見込み(英文および日本文)

・ 資金状況説明

・ 外資の借入および返済計画

・ ケーブル建設に関する会計手続の質問

・ 経理用語の解説書

・ ケーブル建設費用の詳細

・ 財務分析

 これだけのものを日本語で作成するだけでも容易な仕事ではない。それを英文も作るのだから大変だ。今にして思えば我々も大変だったが、私たちの作った拙い英文の資料を携えて、米国で説明する立場の山岸経理部長こそ一番の被害者ではなかったか。でもなんとか話がうまく進んだということは、私たちの作った資料も多少は役に立ったのだろうと確信?している。


○ 大命降下、ニューヨーク事務所勤務

 忘れもしない昭和37年4月25日、増田経理部次長より、ニューヨーク事務所勤務につき打診があった。外資導入のため、経理のわかる人を1名増員するので、約1年間、単身赴任でどうかというのである。まさに青天の霹靂である。内心行ってみたいという気持と、結婚して13年目にやっと生まれたばかりの子を置いては行かれないという気持が錯綜した。結局、自分は希望したいが、妻とも相談したいので明朝まで回答を待って欲しい旨お願いし、次長も了承してくれた。

 帰宅してすぐ妻にこのことを話したら、妻は即座に「行くべきだ」と言ってくれた。長いこと願っていた始めての赤ちゃんが生まれてからまだ70日、乳呑児と二人きりの生活が長く続くことになるのだから、内心は行ってほしくないのだという気持は分かり過ぎるくらい分かる。それでも「行くべきだ」と言ってくれた。私はこの言葉を有難く受け入れることとした。

 翌日出勤するとすぐ増田次長に昨日の提案をお受けする旨回答した。


 しかし、お受けしたからといってすぐ出発できるような状況ではなかった。今日のように海外旅行が簡単ではなく、まして駐在となると条件がうるさかったようである。資金調達事務の手伝いというのでは見込みないとあって、私は5月12日付けで海底線建設部管理課主任を命ぜられ、海底ケーブルの技術者ということで渡航の申請をしてもらったようである。


 増田次長が太平洋海底ケーブルに関する資金等について打合せのため、ニューヨークに出張することとなったので、私も一緒に連れて行ってもらうこととなった。6月6日羽田空港を出発する日になったが、まだ海外旅行が珍しい時代だったので、田舎から親兄弟、親戚の方も見送りにきてくれた。生後100余日となった娘や、妻にしばしの別れを告げてJALの機上の人となる。やがて機体が動き出す。窓越しに見送りの人が手を振っているのが見える。滑走路に入りスピードが出たと思うと機体は宙に浮く。あっという間に羽田空港も見えなくなってしまった。

 ハワイを経てロスに着くまでは日本人の乗客が多かったので、気が楽だったが、ロスからはTWAに乗り換えると周りは全部外国人ばかり、増田次長はファーストクラスだから姿は見えない。いよいよ外国に来たのだと観念する。飛行機の中で妻あてに書いた絵はがきには「隣りの人もアメリカ人です。話をしても半分くらいしか分らぬので、チョットガッカリ、あと一時間位でニューヨークです。」と書いてある。

 ニューヨーク空港に無事到着して、有竹所長や日本の銀行の方々が迎えに出て、日本語で話してくれた時、「さいとう」というレストランで日本料理をいただいた時は日本に帰ったような気がしてほっとした。なんとも頼りないスタートだった。


○ 増田次長奔走、外資調達の目鼻をつけて帰国

 6月7日、ニューヨーク事務所に初出勤。早速資金調達に関する活動が開始された。KDDの外資調達については興銀を窓口にして、キダー・ピーボデイに斡旋をお願いしてあったようだ。連日興銀を訪ね、必要に応じてキダーとも打ち合わせをする日が続いた。興銀ではニューヨーク支店の二村支店長と岩崎さんが担当しており、キダーではカークランドというまだ若い人が担当であった。KDD側は増田次長、有竹ニューヨーク事務所長、それに私がお供した。打ち合わせが終わると、興銀の事務所で、あるいはKDDの事務所に戻って1日の経過をまとめ、要点を電文で、詳細は報告書にして本社に送った。


 米国ではまだ名を知られていない日本のKDDが、資本金の3倍もの資金を米国で調達しようというのだから容易ではない。当時、米国で資金を調達したのは、住友金属工業とあと1,2社くらいではなかったのではなかろうか。それでも当社の場合、ATTと共同でやるというのが大変強みだったようだ。


 キダーのカークランド氏も必死になってあちこち投資家を探してくれた。6月半ば過ぎの頃だったろうか。生保大手のエクイタブルがオーケーを出したとの知らせが飛び込んだ。「ベルカウ」をつけたようなものだと言っていた。牛の牧場では、リーダー格の牛の首に鈴(ベル)をつけると、あとの牛はそのあとについてくるというのである。その言葉どおり、エクイタブルが1,500万ドルを引き受けると決まると、フォード・ファンデーションほかが続々と名乗りをあげ、6月の下旬には総額2,500万ドル(90億円)調達の目鼻がついた。この知らせを受けた時の増田次長の嬉しそうな顔は今も忘れることは出来ない。


 6月29日にはキダーの招待で、増田次長を主賓とするランチパーテイが開催され、エクイタブルからは Mr. Robert E. Benson および  Edward C. White, Jr. というお偉方、ATTからも William R. Wheeler さん、キダーからは  Joseph C. Fox および担当の William G. Kirkland の皆さん、興銀からは二村支店長および岩崎氏、KDDからは増田次長、有竹所長、それに私も出席させていただいた。

 KDD側でも7月2日、「さいとう」レストランに、キダー(フォックス氏およびカークランド氏)、興銀(二村、岩崎両氏)の関係者を招待して、謝意を表明した。


 増田次長はニューヨークに約1カ月滞在し、大任を果たして7月4日帰国された。帰国直前の7月1日、増田さんと一緒に遊覧船に乗り、ニューヨーク近郊の陸軍士官学校のあるウエストポイントを訪ねたのはよき思い出である。


○ 借入調印式の実況中継

 KDDの社債2,500万ドルは37年9月、38年4月、7月、10月の4回に分けて発行されることとなり、9月12日に第1回の調印式には、本社から浜口社長、山岸常務、米田社長室長も出張されて、式典に参加された。

 その時の模様を記した日記があったので少しくどく、私自身思い出せないところもあるが紹介してみる。


「午前11時、Equitable Building 38階の会議室で、第1回のKDD借款のClosing が行われ、私も参列の栄に浴した。

KDD、東銀、興銀(共に保証銀行)、東銀信託(Paying Agent), Kidder Peabody(あっせん投資銀行)、Equitable Assuarance Society of the U.S., Ford Foundation(共に投資家)のお歴々20数名が集まり、11時に投資家側の弁護士、Mr. Merrill の司会で開会、まず、浜口社長が投資家に渡すNote (Shasai) に署名、これが10通、次に Cross Receipt という領収証(各投資家に4通)に署名して次々に保証銀行の方へ廻す。

保証銀行がこれらにサインしている中に、KDD側に渡される小切手9通(1,000万ドル)のチェックを所長と私が行う。

Note の署名が全部終ったところで、この Note と Commitment fee を各投資家に配布、その確認が終ったところで小切手が弁護士の手から浜口社長に渡され、社長がそれを裏書し、それを受け取って、私が持参した会社名のゴム印をそれに押す。

その小切手を東銀さんに400万ドル、興銀さんに600万ドル渡して、日本へ送金してもらうようお願いして一切は完了、約30分間で終った。


その後、女子事務員の案内で、一同 Equitable Building の38階と37階を見学、ここが役員室及び会議室等にあてられているのだが、その豪華なこと、また広々としていること、とてもKDDの社長室、役員室の比ではない。我々だけでなく、一緒に見た興銀や東銀の連中も、ただ溜息をつくのみ。山岸常務、米田さんも、こんなものを作れと社長が言ったらどうしようというような顔つき。


見学が終った所で昼食会、関係者20数名が役員室用の食堂に集まり、一緒に食事をしたが、私の両わきには、今日の進行係をした弁護士の Mr. Merill と、 Equitable 生命保険の Mr. White という方。お偉方に挟まれて食事するさえ気づまりのうえ、英語でなければ通じないと来ているから、その苦労は想像に余りある。米田さんも大分気づまりのようだった。 Merill さんは日本に先日行って来たから、その時の感想を聞いたり、White さんとは会社の話、家族の話等、まあまあ何とか間を持たせたが、シンが疲れた。


昼食会を終り、一旦KDDの連中は全員事務所に引き上げ、もらって来た書類を本社へ送るため包装、何しろ分量が多いうえに重要書類なので、ボール紙で厳重包装、書留航空郵便で発送、3ケで92ドルもとられた。1ケは重量超過で、明日分割して発送する。

本社、興銀、東銀へ電報も打った。どうやら、第一の山は越した訳だ。」


○ 白井博輔氏着任、選手交代、帰国

 そのあと38年4月の第2回の調印式には山岸常務がお出でになった。

6月には有竹所長が管財部長となり、後任の所長には笹本さんが着任された。増田次長も経理部長になられたようだ。

 7月の第3回調印式には山岸常務、10月の第4回(最終)の調印式には浜口社長、増田経理部長、木下秘書課長がお見えになり、式のあと、ニューヨークでも格式の高いといわれる、ワルドルフアストリアホテルでKDDのレセプションを開催、外債発行の行事は終了した。

 11月22日には、街頭を歩いていたら黒山の人だかり、何かと思ったらケネデイ暗殺のテレビニュース、慌てて事務所に戻り笹本所長に報告したことを思い出す。


 38年も暮れようとする12月28日、転勤の発令があった。経理部財務課第一資金係主任とのこと。私のあとには白井博輔氏が来るそうだ。1年の予定がだいぶ延びてしまったが、帰国が決まると妙に懐かしい気持にもなるから不思議だ。


 39年1月24日、白井博輔氏がニューヨークに到着する日だがハプニングがおきた。その日の日記に曰く

「(白井氏が)AA14でケネデイ空港に1650到着予定で、(笹本)所長と二人で迎えに出たが、突然の濃霧のためとうとう着陸出来ず、コネチカ州のハットフォードという所へ着陸、陸路バスでニューヨーク入り、そのため EastsideAir Terminal に着いたのが午後9時頃。事務所で待機していた我々3人(笹本、塩原、私)はすぐタクシーで出かけ、漸く彼に会い、ニューヨークヒルトンに連れて行く。 Room 3852, ホテル代は23ドル。4人で暫く話した後、所長は帰宅、それからホテルのバーで3人で飲む。」


 初めての外国で到着予定地から200キロも離れた空港へ一人放り出されたのだから、白井氏もさぞびっくりしたことと思う。それでもちゃんと電話をかけてよこし、ニューヨーク行きのバスに乗り、3時間もかけて無事に到着したのだから、たいしたものだと一同感心したことを覚えている。

 彼にホテルの予約を頼まれて、比較的高級なヒルトンを予約したような気がするが、当時の私たちの給料からするとかなり割高だったようだ。翌日にはチェックアウトし、私が住んでいた格安のホテルマスターに移ったと私の日記には記してある。


 白井氏に事務引継を終え、1月31日、ニューヨークを出発、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ハワイを経由して2月5日帰国した。


○ 外債全額償還、外債完済祝賀会 

 昭和39年2月帰国してから、財務課第一資金係主任、総務課調査役、計画参事室動産副参事、主計課長、文書課長を経て、52年3月には経理部次長として経理部に戻ってきていた。

 そして、その年の5月26日には、外債が全額償還された。第1回の発行は昭和37年9月だから約15年が経過している。発行当時、償還のことなど遠い先の他人事と思っていたが、この記念すべき時に自分がまた経理部に戻っているとは、驚きでもあり感激でもあった。まことに経理屋冥利につきるということであろう。


 6月10日には、外債完済祝賀会が般若苑で開催された。出席者は次のとおりである。

KDD 山岸重孝(当時常務取締役)

    増田元一(当時経理部次長、後社長)

    三輪正二(当時会計課長、後経理部長、取締役)

    笹本 昇(当時NY所長、後取締役) 

    秋元亮一(当時調査役、後経理部長)

    白井博輔(当時資金係主任、NY事務所、後経理部長)

    高橋春雄(当時資金係主任、NY事務所、後経理部長)

興銀  二村龍男(当時興銀NY支店長、52年国鉄監査委員)

    岩崎英雄(当時興銀NY支店、52年合同石油開発KK常務)

    鈴木康之(当時興銀NY支店、52年興銀広島支店次長)

東銀  高垣  (不明       52年東銀企画課長)

    鈴木秀雄(不明       52年野村証券常任顧問)

    藤永誠一(不明    52年 Isiyama Co Ltd. 日本支社副社長)

    辻  璋(不明    52年ロイヤルバンクオブカナダ駐日代表)


 当時NY事務所長だった有竹秀一氏(後常務取締役技師長)は昭和51年10月逝去され、参加出来なかったのは残念であった。


 会場の般若苑がどの辺にあったか覚えていないがかなり高級な料亭であったように思う。この席で山岸常務が「この外債は会社のために随分役に立ってくれたのだから、今日は少しぐらいご馳走になってもいいだろう」という意味のことを言われたのを記憶している。


 当時日本では資金調達が殆ど不可能で、外資に依存するほかなかった。しかし外資導入の先例は極めて少なく、しかも資本金の3倍もの資金を調達しようというのである。ATTとの共同事業ということで投資家の理解も得られ外債の発行は成功し、太平洋横断海底ケーブルは昭和39年完成開通した。

 完成前の短波無線時代は興銀の二村さんが言っていたように「聞こえますか、聞こえますか・・ですぐ3分くらいたってしまう」状態だったのが、完成後は市内通話並みになって、KDDの電話収入は急激に上昇した。別表2で見るように、34年度当時65億円程度の営業収益が、40年には150億円、45年度には 350億円、50年度には770億円というように、急激に増加して会社の業績を押し上げている。

 一方外債の償還も、当初は1ドル360円で返済していたが、途中から円相場が高騰してきて、1ドル300円、270円で返済する時もあって、元本、利子その他を含めた為替差益は9億5千万円にものぼると推算される。(別表1参照)


 山岸常務の言われたことが、数字のうえでは一層はっきり裏付けられる訳で、当時の経営トップの方々の決断に改めて敬意を表する次第である。


○ 25周年記念式典にキダーのカークランド氏も招待

 KDDでは昭和53年4月1日、創業25周年記念行事の一環として、外国通信業者の主な方々20数名とその夫人を招待し表彰した。その中にKDDの外債発行に貢献したとして、キダー・ピーボデイ社のカークランド夫妻も含まれていたが、私は当時経理部次長の職にあり、彼と面識もあったことから、彼の接待担当を仰せつかった。


 3月30日、羽田空港にカークランド夫妻を出迎え帝国ホテルに送り、翌31日と4月1日の夜は、外債発行当時ニューヨーク所長だった笹本取締役の招待で、ご夫妻を京王プラザホテル内のレストラン、翌日は「千代新」で会食、KDDからは秋元経理部長、塩原次長、白井課長、私が出席した。


 4月1日、帝国ホテルでの式典の後は都内とKDDビルの見学、バスに私も同乗してお二人をアテンドした。

 4月2日から4日は、外人一行を京都、奈良に案内した。京都駅からバスで京都市内見学、金閣寺、平安神宮、二条城等を見て都ホテルに泊まる。

 3日は奈良観光、東大寺の大仏に詣り、春日神社の鹿とたわむれ、奈良ホテルで昼食をとったあと都ホテルに戻り夕方まで自由時間。夜は板野社長招待のカクテルパーテイ、琴の合奏、鏡開き、舞子のおどり、祇園ばやし等々。

 4日は三十三間堂、清水寺等を見て大阪空港に出て飛行機で羽田に戻る。


 カークランド夫妻もすっかり喜んでくれ、私も接待役の一人として大変嬉しかった。

 今にして思えばこの頃がKDDの絶頂期ともいうべき時で、もう少し遅くなるととてもこんなおもてなしは望むべくもない時代に入ってくる。その意味ではカークランド夫妻を絶好のタイミングで招待出来、私にとっての外債関係最後の行事を楽しく過ごすことができ、大変嬉しく思っている。

 注、(別表)は省略させていただきました。



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