資料   外国出張記録 − 春秋会配布「元経理屋の昔話」より 平成10年12月

      日中・沖台ケーブル会議余話


 太平洋横断ケープルに続いてアジアにおいても沢山のケーブルが建設されるようになった。ケーブル建設には必ず支払手続きが必要になるので、経理の人もあちこちの会議に出席する機会があったが、ATTが入る会議はいわば受け身の形で、先方の説明を理解できればなんとか用が足りたが、日中・沖台・日韓となると、こちらが説明する立場になる。しかも日本語では駄目である。

 昭和50年12月と51年4月には上海へ、52年11月には台湾へ出張して説明に当たった。


○ 頼みの綱、堀越通訳

 太平洋横断ケーブルの建設では “Indefeasible Right of Use (I R U)” 日本語に訳して「破棄し得ざる使用権」という言葉が出てきて、甚だ理解に苦しんだが、この概念を中国側に説明しなければならない。勿論日本語も英語も駄目である。こちらは中国語はさっぱり分からない。

 私たち業務系は海底建設部業務部長の関光造氏が団長で、通訳は堀越清氏である。I R Uの説明は私の担当である。堀越氏もKDDの人間であるから、おおよそのことは知っているが、相手に納得してもらわなければならない。堀越氏がよく理解してくれれば私は本番では、このことに関してはしゃべる必要はない。堀越氏には勿論日本語で彼が納得するまで説明した。おかげで本番の会議では彼は大変苦労したが、私は時間を持て余した。

 このように込み入った話になると理解してもらうのに苦労するが、その他の議題では間に通訳が入るので、時間に随分余裕が出来る。自分で話して通訳され、相手が返事して通訳するまで時間がたっぷりあるので、考える余裕が出来る。その点では楽であった。ただ相手側通訳の日本語がよく分からない時があり閉口することもあったが・・・・


○ 通訳がいなければ筆談でいこう

 会議の時は通訳が入るから比較的楽であるが、通訳が入らないと事情は逆転する。中国の場合、会議の期間は大抵2週間程度あり、休みの日には観光に連れて行ってくれた。おかげで最初の時は蘇州、2回目の時は無錫(太湖)を訪ねることが出来た。観光は大変有難いのだが、汽車に乗った時など長い時間中国の方と同じ席になると全く困ってしまう。通訳はお偉方につくので私たちは自分でなんとかしなければならない。

 窮余の一策、筆談を思いついた。中国は文字の国、近頃はだいぶ簡略化した字が使われているが、同乗の方はかなり年輩だから昔の漢字でも通ずるかも知れない。幸い太湖の眺めは素晴らしい。まさに春たけなわ、湖上の島には朱塗りの楼閣が映え、桃の花や菜の花が咲き匂って桃源郷とはこんな所かと思うようであった。

 同席したのは童全忠という方で幸い古い漢字をよく知っていた。車窓からの眺めを話題にして、お互いに「桃色紅」「菜花黄色」「湖上点在無数山」「偲三千年前呉越時」という風に、単語を並べるだけでも結構意思は通ずる。筆談を重ねているうちにだんだん興味が湧いてきて、単語をつなぎ合わせて詩の形にまとめあげた。私のは勿論「韻」とか「平仄」とかは知らないから全然無視。素養のある人から見れば噴飯ものかも知れないが、恥を忍んで当時の手帳に書いてあったものをそのまま紹介してみる。


          太湖湖畔      高橋

  桃花李花油菜花 百花燎乱香馥郁 湖上遙望亀頭渚 纜友共楽桃源郷


          於無錫上海列車中  童全忠

  金黄色油菜花 緑油油小麦地 紅白色李桃花 無錫風景佳美

  蒸調美味可口 祖国一片好風光


          太 湖       高橋

  湖上点在無数山 我等周遊豪華船 立三山偲呉越時 帆船多数営漁撈

  湖水注到五県地 現時尚養数億民


                    童全忠

  車船兼程五百里 恵山脚下話友誼 太湖水清柳更緑 百花鮮艶陰中記

  問友何時欲重遊 虹通之日再赴錫


 おかげでかなり長い汽車の旅もあっという間に過ぎてしまった。


○ 英語でしゃべるのが一番つらいよ

 昭和52年11月には5日間ほど、沖台ケーブルの経理専門家会合に出席のため、台北に出張を命ぜられた。一緒に行ったのは、NASCの石谷宗晴総務課長と財務課の小池陸夫社員で私を入れて全部で3人、私は当時経理部次長だったので団長格にまつりあげられてしまった。中国本土の時と違って台湾では英語で説明するのだそうである。これが私には頭痛の種である。


 ATT相手の時はこちらから余り話す必要はないし、中国本土の時は通訳が入るから気が楽だったが、英語でケーブル関係の支払手続を説明するとなるとちょっとしんどい。幸い石谷、小池のお二人は英語が堪能だから詳細説明は二人にお願いするとしても、団長となれば会議でも挨拶くらいはしなければならないだろうし、招宴の時もスピーチを要請されるかも知れない。


 会議では台湾側は9名も出席した。冒頭、局長の Mr. Chiang が挨拶した。小職もお礼の言葉を述べたと当時の日記には書いてある。何をしゃべったか全然覚えていない。会議では私も少しはしゃべった記憶もあるが、ほとんど石谷、小池の両君に説明してもらったような気がする。なんとかお役目を果たして帰国できたのもお二人のおかげと今でも感謝している。

 


(参考)     KDD在職中の私の外国出張記録


 期間     日数 役職     目的        出張先


46.5.31〜6.10 11日 動産副参事  第24回ICSC財政諮問委員会  ロンドン


49.9.22〜9.31  9日 主計課長   第2TPC会計諮問委員会  ニューヨーク


50.12.1〜16  16日 主計課長   日中ケーブル専門家会合  上海


51.4.11〜23 13日 主計課長   日中ケーブル専門家会合  上海


52.9.18〜24 7日 経理部次長  OLUHOケーブル会合  マニラ


52.11.15〜19 5日 経理部次長  沖台ケーブル経理専門家会合  台北


53.4.16〜20 5日 経理部次長  フィリピン/シンガポールケーブル
管理委員会、契約財務小委出席 マニラ


53.8.8〜16 9日 経理部次長   ASEANフィリピン/シンガポール
            ケーブル第3回管理委員会関係会合 
                               シンガポール


54.4.17〜26 10日 総合計画部次長 第1次海外調査団西独班団長  西独


57.7.17〜29  13日 経理部長 豪州、ニュージーランド産業経済調査団参加
                    オークランド、キャンベラ、シドニー、
                    パース、デンパサール



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