私の履歴書62   好きなうた(謡曲)

黄纐纈の林色を含むといへども朝の霜にうつろふ、松風蘿月に詞をかはす賓客も、去って来ることなし、翠帳紅閨に枕を並べし妹背もいつの間にかは隔つらん

「江 口」



春宵一刻値千金、花に清香、月に影

「田 村」



往時渺茫としてすべて夢に似たり、旧友零落して半ば泉に帰す

「歌 占」



朝に紅顔あって世路にほこるといへども、夕べには白骨となって郊原に朽ちぬ

「朝 長」



それ雪は鵞毛に似て飛んで散乱し、人は鶴しょうを着て立って徘徊すといへり

「鉢 木」



げにや廬生が見し栄華の夢は五十年、其邯鄲の仮枕、一睡の夢のさめしも、粟飯かしく程ぞかし

「鉢 木」



かくて時過ぎ頃去れば、五十年の栄花も尽きて、真は夢のうちなれば、皆消え消えと失せ果てて、ありつる邯鄲の枕の上に眠りの夢は覚めにけり

「邯 鄲」



天にあらばねがはくは、比翼の鳥とならん、地にあらば願はくは連理の枝とならんと誓ひし事を、ひそかに伝へよや、私語なれども今洩れそむる涙かな

「楊貴妃」



庭の砂は金銀の、庭の砂は金銀の、玉をつらねて敷妙の、五百重の錦や瑠璃の枢、しゃこの行桁瑪瑙の橋、池の汀の鶴亀は蓬莱山も余所ならず、君の恵みぞ有難き君の恵みぞ有難き

「鶴 亀」



千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命をのぶ、相生の松風颯々の声ぞ楽しむ颯々の声ぞ楽しむ
「高 砂」



花は雨の過ぐるによって紅まさにおひたり、柳は風に欺かれて緑漸く垂れり、人更に若き事なし、終には老の鶯の、百囀りの春は来れども、昔に帰る秋はなし、あら来し方恋しやあら来し方恋しや 

「関寺小町」



松門独り閉ぢて、年月を送り、みづから、清光を得ざれば、時の移るをもわきまへず、暗々たる庵室に徒に眠り、衣寒暖に与へざれば、膚は、ぎょう骨と、衰へたり

「景 清」



偖は我が妻の、女郎花になりけるよと、なほ花色もなつかしく、草の袂も我が袖も、露ふれそめて立ち寄れば、此花恨みたるけしきにて、夫の寄れば靡きのき又立ちのけばもとの如し

「女郎花」



千声万声の憂きを人に知らせばや、月の色、風のけしき、影におく霜までも心凄きをりふしに、砧の音、夜嵐悲しみの声虫の音まじりて落つる、露涙、ほろ、ほろはらはらはらと、いづれ砧の音やらん

「 砧 」



老いせぬや、老いせぬや、薬の名をも菊の水、盃も浮み出でて友に逢ふぞ嬉しき此友に逢ふぞうれしき

「猩 々」



月の夜念仏諸共に、心は西へと一筋に、南無や西方極楽世界、三十六萬億、同号同名阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 

「隅田川」



影かたむきて明方の、雲となり雨となる、此光陰に誘はれて、月の都に入り給ふ粧ひあら名残をしの面影や名残をしのおもかげ

「 融 」

「鉢木」常世神社<br />  高崎市佐野 (平7.3)
「鉢木」常世神社
  高崎市佐野 (平7.3)

「楊貴妃」楊貴妃観音<br />  京都市東山区 泉湧寺観音堂
「楊貴妃」楊貴妃観音
  京都市東山区 泉湧寺観音堂

「高砂」相生の松<br />  高砂市 高砂神社 (平7.9)
「高砂」相生の松
  高砂市 高砂神社 (平7.9)

「景清」景清廟<br />  宮崎市下北方 (平7.11)
「景清」景清廟
  宮崎市下北方 (平7.11)

「女郎花」女郎花塚<br />  八幡市女郎花 松花堂 (平12.8)
「女郎花」女郎花塚
  八幡市女郎花 松花堂 (平12.8)

「隅田川」梅若堂<br />  墨田区堤通 木母寺 (平12.12)
「隅田川」梅若堂
  墨田区堤通 木母寺 (平12.12)



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「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−