私の履歴書20    謡曲2(末広会・讃和会)    昭和36〜平成7 3620

昭和28年4月、KDDが発足すると相次いで謡曲のサークルが発足した。宝生流は私どものKDD宝生会のみであったが、観世流では本社に「親謡会」、東京国際電報局に「鳳声会」、名古屋国際電報局に「慶謳会」、大阪支社に「国謡会」が発足した。


昭和36年1月にKDD謡曲各サークルの全国大会が愛知県の西浦温泉末広別館で始めて開催された。私どもの宝生会からは村本先生ただ一人の参加であった。

第2回は熱海の旅館「聚楽」で催され、宝生会からは、村本、秋元、高橋、児玉の4名が参加し、素謡「俊寛」と仕舞「葵上」を演じた。

その後、大津市・晩鐘閣、清水市三保・羽衣ホテル、愛知県西浦・末広別館、中野区・武田修能館、鳥羽市・扇芳閣、熱海市・つるやホテル、愛知県・三ヶ根簡易保険センター、各務原市鵜沼・ホテル喜月、京都市原谷・松山閣、修善寺・あさば旅館、浜松市舘山寺・ホテルニュー大東、奈良市・ホテル三笠会館、京都市賀茂川畔・くに荘、東京のKDD新宿会館等、全国各地で21回にわたり会合を重ねて来た。

時にはKDD会長古池信三氏、社長の大野勝三氏、町田辰次郎氏も参加されたことがあった。修善寺のあさば旅館には池を隔てて「月桂殿」の舞台が配置され素晴らしい景観であったが、古池さんは奥さんと同伴で終始熱心に観覧され、自らも「道成寺」を気品よく謡われた。また、昭和55年の新宿会館落成記念大会は、観世の渋谷先生、小川先生、宝生の渡邊先生も出席されての賑やかな会となった。思えばこの頃が末広会の最盛期で、その後小池会長、広島通、古瀬利蔵、清水精次の末広会の重鎮が相次いで亡くなられ、次第に衰退の道をたどることとなった。

また、末広会と並行して、東京近辺のサークル、私どもの宝生会、親謡会、鳳声会の3サークルの合同謡会「讃和会」が組織されて、これも昭和40年から61年まで、原則として年一回、KDD新宿クラブ(改装して新宿会館)で謡会を開催してきた。

その後、平成4年には私どもの宝生会の秋元亮一さんも逝去され、その追善供養の末広会が行なわれた後、しばらくこの会合は開かれなかった。このまま自然消滅させるのは誠に残念なので、最後の会を盛大に開催、記念誌も作って終止符を打つことを提案、実施された。

平成7年2月、新宿会館もストラーダ新宿と名前が変わったが、ここで「留扇」の会を開催、席上記念誌「留扇」も配布した。私も「末広会断想」「編集後記」を書かせていただいた。

第12回末広会の行なわれた修善寺 あさば旅館 月桂殿舞台 (昭和51.6)<br />  古池信三氏(KDD会長)も参加された
第12回末広会の行なわれた修善寺 あさば旅館 月桂殿舞台 (昭和51.6)
  古池信三氏(KDD会長)も参加された

KDD新宿会館落成記念 第14回末広会大会 昭和55年3月<br />  古池KDD会長のほか、各サークルの先生方、小川明宏、渋谷晴一、渡邊三郎の各先生も参加された
KDD新宿会館落成記念 第14回末広会大会 昭和55年3月
  古池KDD会長のほか、各サークルの先生方、小川明宏、渋谷晴一、渡邊三郎の各先生も参加された

第21回末広会(留扇の会) ストラーダ新宿(新宿会館) (平成7.2)
第21回末広会(留扇の会) ストラーダ新宿(新宿会館) (平成7.2)



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