資料   「東京と小出郷」誌 寄稿一覧

                   高 橋 春 雄

                  (青島出身 中野区在住)


昭和53.8  第21号  ペン書きクラス会

昭和55春   第24号  プラネタリウム雑感

昭和56春   第26号  「東京と小出郷」を読み返して

昭和56秋    第27号  記念誌編集雑感

昭和59秋    第33号  総 会 概 観 記

昭和62春   第38号  私 の 近 況

平成3年春  第46号  特別寄稿 会誌編集室雑感

平成5年秋  第50号  会誌五十号発行に思う

平成7年春  第53号  戦後五十年 大東亜戦争を思う

平成9年春  第56号  青島の風景今昔

平成10年春  第58号  郷関出でて六十年

平成11年秋  第60号  一 口 便 り 

平成12年秋  第61号  一 口 便 り 

平成14年秋  第63号  一 口 便 り 

平成15年秋  第64号  一 口 便 り 

平成16年秋  第65号  東京小出会の経験が生きています 

平成17年秋  第66号  一 口 便 り 

平成18年秋  第67号  一 口 便 り

平成19年秋  第68号  ブログをはじめました





(「東京と小出郷」 昭和53年8月 第21号より)


          ペン書きクラス会


「東京と小出郷」毎回楽しく拝見させていただいております。今回原稿募集の案内をいただいた機会に、できるだけ多くの方に気軽に誌上参加していただくために、ある会誌の受け売りですが、ペン書きクラス会@唐フ新設を提案します。

 現在のような寄稿も勿論続けていただきたいのですが、これとは別に往復はがきの返信欄に書ける程度の長さで近況、趣味、自慢話、健康法等好きなことを、例えば第一回は尋常小学校を昭和六年、十年、二十年、三十年に卒業した方の中からそれぞれ十名程度投稿していただき、それぞれの年代の方の分をまとめて掲載してもらったらと思います。同じ郷里の出身の方が、年代に応じてどのような考えをもち、どんな仕事をされているか等わかって大変興味深いのではないかと思います。ただ、卒業年次あるいは年齢を調べるのが大変ですぐには実現困難と思いますが、その時は地区ごと、例えば最初は本町、羽根川、佐梨から、次回は別の地区からといった方法でもよいのではないでしょうか。この場合も年齢を書き添えていただいたほうが、自分のと比較できて興味深いと思います。

 提案者として自分のことを書いてサンプルに供したいと思います。


昭14小出校高等科卒 53歳 青島 

 (1)  現在、国際電信電話KK(KDD)経理部勤務、家族は家内と長女(高2)、長男(中1)の四人暮し。母親と弟の家族が郷里にいるので年に一回程度だが、故郷の土を踏めるのは有難いことだと思っている。今年の三月久しぶりに雪原に立ってシンバイ渡りをしたが子供は大喜び、あの爽快な気分を雪に親しみのうすい東京の人達に是非味わってもらいたいものだ。

 (2) 小学校高等科卒業と同時に上京、逓信部内に奉職、昭和十六年の頃一年間小出郵便局に勤めさせていただいた。学徒出陣で海軍に入り、一年間旅順、瀬戸内海各地で特殊潜航艇乗組として訓練中小豆島で終戦、危ないところを命拾いした。

 (3) 在京の同級生は年に一回クラス会を開き懐旧談に花を咲かせ、のどを競って楽しい一夜を過ごしている。趣味は宝生流謡曲、同好の方と謡うチャンスを持ちたいものです。





(「東京と小出郷」 昭和55年春 第24号より)

          プラネタリウム雑感


 正月に入ってからのある土曜日の午後、池袋に新しくできたサンシャイン・プラネタリウムを訪れる機会を得た。


 妙なる音楽につれて場内が暗くなり、太陽が西の方に沈むと徐々に星の数が増し、やがて満天の星月夜となる。冬の象徴オリオン座、全天で一番明るい大犬座のシリウスを中心に、華やかな星座が南の空にひろがっている。ギリシャ神話にでてくる狩人オリオンとプレアデス星団(スパル)のまたたきを眺めているうちに、いつしか幻想の世界にひき込まれていく・・・。


 戦時中 −− 昭和十九年から二十年にかけての冬、当時は満州の旅順にあった海軍予備学生教育部で眺めた星空を思い出す。大洋の真只中において自分の船の位置を知る方法として「天文航法」という学科があるが、その学習の一環として大きい星の名と星座を覚えさせられた。星座盤で勉強したあと夜になって戸外で仰いだのは今と同じ冬の星空。オリオン座とかリーゲル、ベテルギュースといった星の名前を覚えたのもあの頃であった。あそこで習った「天文航法」を実戦で使うことなく終戦になってしまったけれども、あの時の学習によって目覚めさせられた星空に対する興味は、その後どれほど私の心を豊かにしてくれたことか・・・


 小学校在校中 −− 星の名前といえば、北斗七星と北極星くらいしか知らなかったけれども、郷里青島でみた星月夜は素晴らしかったなあ。青島といえば小出町でも町からずっと離れており、家の数も少なかったので、夜は一歩外へ出るとほんとうにまっくらやみだった。それだけに月のでていない晴れた夜、空を仰ぐとまさに降るような星で、屋根にでもあがれば星がつかめそうな感じをいだいたものである。このごろは建物の数も多くなり、たまに郷里へ帰っても、あの頃のような星空にはなかなかお目にかかれなくなった。田舎がどんどん都会化するのは、住む人には望ましいことと思うが、星空のことを考えるとチョッピリ残念な気もしないではない。


 在京時代 −− 小学校を卒業して上京、有楽町にあった毎日新聞社の天文館で初めてプラネタリウムを見たときは驚いた。人間の力で過去・現在・未来の星空を、あるいは南半球の星空でも晴雨に拘らずうつしだしてくれるのだから・・・。これも戦災でなくなったものと思うが、戦後、渋谷にプラネタリウムができたときは嬉しかった。東京で美しい星空をみることはまず無理。それで時折ここに通って欲求不満を満たしてきたが、一段と素晴らしいのが近くにできたのは嬉しいことである。


 サンシャイン・プラネタリウムでの解説によれば、太陽の発生から現在まで五十億年を経ており、今後五十億年を経ると、太陽は大きく膨れはじめ、地球の軌道にまでも及び、その後は収縮を始め、しまいには地球ほどの大きさの暗黒の冷たい天体となってしまう由。しかし、宇宙にはこの太陽のような星が無数にあるから、他の天体に移住すれば、人類は生きのびられるので心配御無用という説もある。乞御安心。


 プラネタリウムを一歩でると現実の世界にひきもどされてしまったが、何か大きく素晴らしい初夢でもみたようで爽やかな気分が残っている。「蝸牛角上、何事を争う」の心境か。細かいことを気にしていたらきりがない。今年はひとつ楽天的にいこう。(五五、一、二○記) 





(「東京と小出郷」 昭和56年春 第26号より)

          「東京と小出郷」を読み返して


 東京小出会が発足して二十年を迎えるとのことお喜び申しあげます。正月休みの一日、コタツにあたりながら手許にある会誌を拾い読みしてみました。以下はその感想です。

 1 創刊号所載の桜井又衛門氏の「想い出」によると、昭和三十六年八月に浅草の一松にて、本会の発起人総会が開かれた由ですが、以来二十星霜、今日の発展をもたらした歴代会長初め役員の方々のご努力に敬意を表します。

 2 私どもの故郷からも多彩の人物が東京で活躍されていることを知り、大変心強く思っております。しかし、本誌に度々登場されている方でも、どのような人生経験を経てこられたのか知らない方が大部分です。年輩の方から順次誌上で自己紹介していただくなり、あるいはその人をよく知っている方から書いていただくなどしたら、一層身近な読物となるのではないでしょうか。

 3 私自身本誌には、二、三度寄稿したことはありますが、総会・旅行会には御無沙汰しており、申訳なく思っております。役員改選に伴ない、常任幹事の一員に指名されたことでもあり、今後、会のために少しでもお役に立ちたいと思っております。

 4 会誌には、随筆、俳句、短歌、写真、郷土ニュース等掲載されており、それぞれ興味深く、今回も殆んど丸一日飽きずに読み返させていただきました。なかでも小出郷に関する古き時代の記事には特に興味をひかれました。

 例えば、桑原福治氏の「明治時代の小出町」(四号)、駒形新作氏の「思い出」(十号)、「幼い頃の遊びなど」(十二号)、佐藤万平氏の「戊申戦死者墓」(十四号)、井口建治氏の「雪どけごろ」(十二号)、「停車場」(十四号)、田中良助氏の「藤権現の伝説」(十五号)、星野右一郎氏「魚野川慕情」(十七号)、南雲居士氏「山風浜風」(十九号、二十三号)、那須美夫氏「遊びの中で学ぶ」(二十号)、伊倉退蔵氏「小出島戊辰戦争記」(二十二号)、伊倉義雄氏「小出町の生れたこと」(二十五号)、東京柏葉山人氏「越路の秋」(二十二号)、「今昔雪国農家の暮し」(二十五号)、大平孝平氏「マリヤ地蔵と焼場」(二十三号)等々・・・。

 こうした小出郷にまつわる古き時代の想い出は、だんだん語りつぐ人も少なくなるのではないかと思われます。年輩の方々のこの種の御寄稿、あるいは記録の紹介等を大いに期待しております。





(「東京と小出郷」 昭和56年秋 第27号より)

          記念誌編集雑感


 編集などということを生まれて始めてお手伝いさせていただいた。ズブの素人の四ヶ月有余の感想あれこれ
 

 今回の記念誌編集メンバーは、井口編集委員長、桜井幹事長、那須事務局長の役員の方を別格とすると、残る藤岡、皆川、今井、私の四名はみな気心の知れた同級生。役員の三人の方も気持のよい親しめる方ばかり。約二十回ほど続いた会合も一同の呼吸はピタリと合って楽しい雰囲気でお手伝いすることができた。那須さんの奥様や今井梅子さんから差入れの手作りの惣菜、桜井さん始め皆さんが持ち寄るお茶菓子などいただきながら、小出言葉丸出しで郷里の想い出話などまじえての編集作業は、ミニクラス会の連続といった感じで忘れ得ぬ思い出になることと思う。 


  編集の打合せ、校正・発送の作業は那須さんの東洋プリント鰍フ一室を使わせていただいた。部屋の周囲に掲げられた書画にも郷土関係のものが多く、書棚には小出郷関係の書籍、写真、資料が沢山おさめられている。記念誌の最初の部分を飾った写真の大半も那須さんの撮影になるものである。東京と小出郷誌創刊以来ずっとこの仕事を続けてこられた那須さんの、郷土に対する一方ならぬ愛情が感ぜられた。

 録音テープをとっておけば、座談会記事ぐらいとタカをくくっていたがやり出してみるとナカナカのこと。なんとか文字に直してみたが、頁数の関係もあり圧縮しなければならない。このほうがむしろ大変な作業。ついに手に負えなくなって中途半ぱのまま桜井幹事長にSOSを発信。桜井さんは収拾にずい分苦労されたと思う。


 見返しのフキノトウの絵は皆川君の作品。これを描くまでに、彼はカタッコーとか、雪の結晶とか、雪国のイメージを出そうと、何種類、何枚の下絵を描いたことやら。またカット用の絵も沢山描いていただいた。ぼくらは「練習の機会を与えてやったのだ」と恩に着せていたのだが、彼がこの方面でも大いに活躍されんことを期待する。


 原稿をまとめて発注すれば印刷屋が活字にしてくれる、それで本ができると思っていたのは大間違い、立派な読みやすい本にするには自分でそれなりのお膳立てをしなければならないのだと知り、そのためには割付けという大変な作業があることを教えられそのお手伝いもした。原稿の字数を計算し、活字の大きさをきめ、全頁のレイアウトを予め設計してしまうのだ。すこしお手伝いさせていただいたが、原稿によって能率が著しく異なる。ほれぼれするようにキチンと書いてあるのもあるが、一字ずつ計算しなければならぬものもある。お手伝いをしてみて、今度自分で書くときは、割付け作業が少しでも楽になるよう心がけようなどと殊勝なことを考える。


 「会員が全員参加する記念誌」を目ざそうと、会員紹介という形で全員から原稿を募集することとなった。ある程度の忙しさは覚悟していたが、スタートしてみて素人の片手間仕事ではなかなか大変なことだとわかってきた。しかしもうあとにはひけない。幹事長が関係者と調整のうえ、当初六月七日予定の総会を、六月二十八日に延期してくれたときは内心ホッとした。


 総会前日の夜、編集委員一同事務局に集まって、数時間前に受取ったばかりという完成品を手にしたときはさすがに感無量。立派な表紙がついて・・・題字もすばらしい・・・カバーにまで入って・・・。パラパラと頁を繰ってみる。写真も記事もおさまるところにおさまっている。明日の総会にヨク間に合ってくれたなあ。ヨカッタ。ヨカッタ。


 今回のお手伝いを通じて、東京小出会二十年のあゆみのかげには多勢の方の献身的な奉仕があることを知り感謝した。またこうした努力に対し財政面の援助を惜しまない方がおられるのも有難いことだ。こうした奉仕と理解により東京小出会が今後ますます発展することをお祈りする。





(「東京と小出郷」 昭和59年秋 第33号より)

          総 会 概 観 記


 東京小出会第二十三回総会が七月八日(日曜日)、昨年と同じく京王プラザホテルにおいて、来賓、会員あわせて一八○名ほどの出席を得て盛大に開催された。

 当日は小雨もようの天気であったが、出足は好調で定刻(一二・三○)前には大部分の方が参集、旧知の人を見出して思い思いの卓につく。会場には一卓10〜 11人で17卓の椅子席が用意されている。大部分は町・字別に卓を指定してあるが、昨年の経験を生かして今年は混成卓をふやしたとのことである。

 総会第一部は定刻を少し過ぎた頃、例年のとおり藤岡栄一副幹事長の司会で始められ、来賓紹介のあと恒例により物故者に対し黙祷を捧げる。

 次いで副会長の池田恒雄氏から開会の言葉として、「小出町から町長はじめ多数の方の出席をいただき嬉しい。稲葉会長の人徳・経験・識見により、東京小出会がますます隆盛になっている、どうぞ百歳までも生きて会長を続けてほしい。新幹線で小出も非常に近くなったので、時々行って小出の良いところを想い出してほしい」と述べられた。

 続いて会長の稲葉三郎氏は、「小出の河原、山、野原、鎮守の森、お寺の境内で一緒に遊び廻った同じ仲間の会なので、テーブルの町内別の区別もしたくなかったが、便宜上設けたものであり了承願いたい。この会はあくまで懇親の会である。年一回集まり和やかに一日を過し、何か共通点を生かして小出会をより発展させてほしい。皆さんの感想をきかせていただき来年の総会にとり入れていきたい」と挨拶された。

 ひき続き、司会者による祝電披露、御寄付の披露のあと議事に入る。昭和五十八年度事業報告、同会計決算及び監査報告、昭和五十九年度事業計画、同予算の各議案につき、配付された資料を紹介、昨年と同様議案の詳細説明を省略して、一括採決を得たい旨の提案があり、満場一致で全議案が原案通り承認された。

 続いて記念品贈呈。当会の副会長池田恒雄氏がルーマニヤとの文化交流に功績があったとして、昨年ルーマニヤ文化功労章を受章されたので、これを記念し東京小出会からも記念品を贈呈することとなり、稲葉会長から記念品を贈呈、池田氏から謝辞が述べられた。

 次いで来賓祝辞は、御多忙中わざわざ本会のために上京された桜井宗町長から、会員一同が楽しみにしている小出町近況につき、町の図面を掲出、河川改修事業の進捗状況、小出高校完成、新柳生橋の完成、向山地の遊歩道整備、小出高校あと地の宅地造成、町中心部の区画整理等につき具体的なお話をうかがった。

 次に郷土訪問旅行について、今井幸吉氏より配布資料に基づき説明、九月二十四・五日の両日、弥彦神社参拝、大湯温泉一泊の旅行を計画しているので一人でも多く参加するよう要望のあと、伊倉退蔵副会長の閉会の挨拶で第一部を終了した。


 総会第二部は、安藤真男副幹事長の司会で、小出町議会厚生商工委員長磯部久氏の乾杯の音頭により開会、このあと余興・演芸は山内芳夫・梅田正平」両常任幹事と、本年は新たに副幹事長中川氏の御子息で昨年真打に昇進された春風亭柳條師匠の司会により繰り広げられた。

  演芸の部のトップバッターの役をつとめて下さったのは、東京小出会にはゆかりの深い、『浅草一松』におられる上野セイ子さん。プロの世界で永年鍛えたノドと三味線による「江差追分」は満場を魅了した。アンコールにこたえて選んだ曲が郷土の民謡「新津松坂」というのも心憎い。

 柳條師匠の手馴れた司会により次々繰り広げられる民謡、ナツメロ、日本舞踊、演歌等出演者自慢の芸に大喝采の連続で、会場の雰囲気はいやが上にも盛り上り、また各テーブルでは久しぶりに会った会員同志の話もはずんで時間のたつのも忘れる有様であった。

 閉会時間も刻々と迫り、皆さんお待ちかねの本日のハイライト、ヨイヨーサ踊りの時間となった。殆んど全員の人が大きな輪となって会場一杯にくりひろげる盆踊り。まさに本日のクライマックスである。躍る人々の脳裡をかすめるのは故郷の鎮守の森か、美しい山川か、はたまた郷関を出でてからの想い出か・・・。今年もまた故郷へ行ってみよう。そして来年の小出会にも是非出席しよう。

  役員の皆様本当に御苦労様でした。来年もまた頑張って下さい。楽しみにしております。





(「東京と小出郷」 昭和62年春 第38号より)

          私 の 近 況


 現在六十二歳。KDDを昭和五十九年三月定年退職し、現在その子会社の国際ケーブル・シップ鰍ノ勤務していますが、ここもあと一年位でおしまい。毎日日曜になるのを楽しみにしています。

 長女が今年始め結婚しましたので、今は妻と長男(大学二年生)の三人暮らしです。

 定年を機会にクルマの運転を志し、六十時間運転練習の後、二年ほど中古車でやり、昨年四月新車を購入、週一ドライブを楽しんでおります。昨年は秩父三十四ヶ所の札所巡りを済ませましたので、今年は関東三十三ヶ所の札所を廻ってみたいと思っています。

 また、一昨年、富士通の小型ワープロを購入したところ大変便利で重宝しています。更に欲がでて、今度はパソコンのPC9800VX2という器械を購入しました。今のところもっぱらワープロとして使っていますが、長男とゲームを楽しむこともしばしばです。

 謡曲、クルマ、ワープロ、パソコン・・・そのほか、まだやって見たいことがいくつかありますので、なんとか退屈しないで過ごせそうです。


 


(「東京と小出郷」 平成3年春  創立30周年記念 第46号より)

          会誌編集室雑感

 まえがき

 東京小出会の存在を知ったのは、多分、昭和54年の頃、現副会長、当時副幹事長の桜井強さんから「お前もすこし手伝えよ」と言われた時だったと思う。叔父の言葉に素直に「ハイ、ハイ」と従ったのが、この会に深いかかわりをもつキッカケになったようである。

 初めのうちは、藤岡日出雄さんの経営する赤坂の「味の山岡」などで開催される役員会等に出席する程度であったが、五十六年の記念誌「東京小出会二十年のあゆみ」発行や、六十年の創立二十五周年記念事業「東京小出会名簿」作成に編集委員としてお手伝いをさせていただいた。

 そして「名簿」が完成すると、それまで桜井強さんが中心にやっておられた「東京と小出郷」の編集を担当する羽目になり、全然自信はなかったが、桜井氏に全面的に指導をいただきながら、六十年秋の35号から、平成2年の45号まで、6年間に11冊の会誌を手がけ、現在、三十周年記念特集号の準備に追われている状況である。

 この6年間、私が編集委員として一緒に仕事をさせていただいた方は、桜井強、那須美夫、森山茂樹、皆川繁夫、今井梅子、三上広子、桜井五郎、大平マス、藤岡栄一、佐藤利吉、磯部幸昌の皆さんである。

 編集打合せや、校正、発送などの作業を行なうためには、那須さんのご好意により、長いあいだ、那須さんの会社の部屋を使わせていただいた。田舎弁まる出しでダベリながらの作業で、中休みには那須さんの奥さんや女性の方々持参の手料理が出たり、持参のウイスキーで水割りを作ったりして、なごやかな雰囲気のうちに仕事が出来たのは、なかなか得難い体験である。

 6年間の間には遠くに転居されたり、仕事の都合で出席できなくなった方も出て、現在記念特集に従事しているのは、桜井強、那須、今井、桜井五郎、佐藤、磯部、私の7名となり、場所も近くの改代町会館が定宿となった。相変らず楽しい雰囲気の中で作業を進めているが、身体の不調を訴える者が多くなってきたのには頭が痛い。

 この辺で次の世代にバトンタッチすることも念頭におきつつ、6年間に感じたことのいくつかを思いつくままに書きならべてみよう。


 原稿執筆のお願い

 総会の案内や報告、郷土ニュースなど、それだけであれば事務局で原稿を作れるが、一般原稿となると容易ではない。創刊当初は本誌刊行を提案された大塚静子さん、会長の桑原鉄四郎さん、星野右一郎さんなど、進んで原稿を書いてくださる方がおられたようだが、現在では会誌に原稿募集を掲載しても、自発的に投稿してくれる人はまれである。

 初めのうちは役員会に出席された役員の方々に個別にお願いして誌面を埋めてきたが、これだけでは長続きしない。なんとか多勢の会員の方に参加していただきたいと考え、38号から「特集・私の近況」と題して会員全員に順次原稿をお願いすることとした。6回にわたり、100名をこえる多くの方々に登場いただいたのは大変有難く、また嬉しいことであった。

 おかげで、39号では、総会記事、会員原稿、私の近況と原稿が多く集まり、表紙を別にして76頁と、発刊以来の最高の頁数を記録し、編集担当としては感激だったが、会計を担当する方はハラハラしたかも知れない。

 また、郷土訪問のように何かイベントがあったときも、原稿をお願いしやすい。42号の特集「戊辰小出島戦争」は、6名の方が快く執筆してくださった。

 たくさんの原稿をナマの状態で見せてもらえるのは、編集者の特権であろう。ホレボレするようなきれいな字で原稿用紙の升目にキチンと書いてくれる方もある。一方、便箋に判読困難な字を連ねてくる方もある。この会誌のためにと初めて書いてくれたのであろう。それだけに有難い。どうしても分らぬ時は本人に電話して確かめるので、書き馴れない方も気軽に投稿してくれると有難い。 


 名簿の整理

 名簿の作成も大事業だが、これを現行に維持するのも大変な作業である。せっかく作った名簿も新規加入、退会、死亡、転居等を克明に修正しなければ使い物にならなくなる。

 この地味な作業を、私が知るかぎりは、今井梅子さんが終始コツコツとやっておられた。それに会費の納入状況のチェックや督促も彼女が受け持っていた。

 それだけに、昨年の春、彼女が体調を崩して事務局打合せ会合はもちろん、定時総会にも出られぬようになった時には慌てた。なんとか急場をしのいで総会の開催通知や会誌を発送したが、実際にやってみて、全く大変な作業なんだと実感した次第。幸い回復されて復帰してくれたのでホットしているが、無理をしてまた休まれないよう、一同祈るような気持ちでいる。


 案内・会誌の発送作業

 会員も800名を超すと、案内や会誌の発送作業も容易ではない。初めの頃は宛名印刷機で那須さんが宛名を印刷した封筒に、案内文や会誌を封入する手伝いをするだけだったが、そのうちに転居したり、入会した人のカードを作成したり、死亡、退会した人のカードを取り除くこともしなければならなくなる。一同印刷インクで手を真っ黒にしながらの作業をしたものである。

 その後、ワープロ・パソコンなどいわゆるOA機器が急速に普及してきたので、なんとかこれを使ってタックシールの宛名を打ち出し、これを封筒に貼り付ける方法にしようと、今井さんと私と手分けして取り組み、最近になってなんとか実用化にこぎ着けた。少しは省力化に役立ったものと自負しているのだが、一旦入力してしまうと、そのフロッピーを使える機械がもう一台ないと、その人がそのあともやらざるをえなくなるので、機械故障、本人病気などの時のバックアップ体制も考えておく必要があるようだ。


 会費の問題

 一般会員から維持費として、年2,000円をいただくことになっており、これが会誌発行や総会案内の主要な財源となる。総会出席者からその場でいただいており、欠席者には後日、会誌と一緒に会費納入のお願いと振替用紙を送っているが、納入の実績はあまり芳しくない。

 「あんなウスッペラでしかも中味の貧弱な会誌を年に2回送ってもらうだけで2,000円は高すぎる。あの分厚い週刊誌でさえ250円程度で買えるではないか」

 あるいは、

 「頼んで会員にしてもらったわけでもないのに、勝手に送ってくるから、会費を送る必要はない」といったような声が聞こえてくるようである。

 まことにもっともな話であるが、この会誌の場合、発行部数が少ないので印刷代も割高となり、郵送料も三種郵便とならないので馬鹿にならない金額となる。

 従って会費未納者に会誌を送り続けると赤字が大きくなるので、3年以上未納の方には心ならずも会誌発送を停止させてもらっている。


 編集のマンネリ化とメンバー交代

 会誌「東京と小出郷」の創刊号が発行されてから20年間の時間が経過した。その最後の6年間を、さまざまな問題を抱えながらも、編集委員の骨身を惜しまぬ協力のおかげで、なんとかその灯をともし続け、どうやら30周年記念特集号発行の目途もついたので、正直ホッとしている。

 その間、私も62年に喘息の発作を起こし、3年の間に6回も入退院を繰り返して、そのつど編集仲間の方々に大変な迷惑をかけたり、病気で気も弱くなったためか、編集の仕事が暖簾に腕押しをしているように思えて挫折感に陥ったりで、何回となく投げ出したい気持ちに襲われた。

 それをなんとか今日までやってこれたのは、われわれの代でこの伝統ある会誌を絶やしたくないという編集委員一同の気持、私よりも10歳ほども年上の桜井副会長の情熱、会員から時折寄せられる会誌の発行を心待ちにしているとの便り、自分の原稿が活字になったのが嬉しくて親戚にも贈ったといったような心暖まる話、等々に支えられて来たからと思う。

 今、「二十年のあゆみ」、「名簿」、「会誌」をひもときつつこの稿を書いている。ちょうど10年前の、56年秋の第26号に、私は「記念誌編集雑感」と題して、「二十年のあゆみ」編集のお手伝いをしたことを書いている。過ぎこし20年間を振り返り感慨深いものがあると同時に、このような機会を与えていただいたことに感謝している。

 しかし、同じ顔ぶれではどうしてもマンネリ化は免れず、また、残念ながら私だけでなく、身体の無理がきかない仲間が増えてきたのも事実。今井梅子さんは前述のとおり。磯部幸昌君も医師から外出を控えるように言われ、現在自宅にこもって特集号の原稿を整理してくれている状況。桜井五郎、佐藤利吉の2名は健在だが、2人とも現役社長で忙しく、また桜井五郎君は幹事長代行として活躍しており、あまり多くの雑用を期待出来そうもない。

 自分たちの手で後継者を育成出来なかったのはまことに申しわけないが、私たちより10歳くらい若い年代には、東京小出会発足以来のベテラン那須事務局長がおり、今回新しく小出町長に選出された登阪謙吉氏も彼と同級生とのこと。30周年の節目と、記念特集号の完成を機に、この年代の方々が中心になって新しい編集陣を作り、若返りを図っていただきたいと思う。せっかくここまで続いたこの会誌だけに、なんとか継続していただくことを願ってやまない。





(「東京と小出郷」 平成5年秋  創刊50記念号より)

          会誌五十号発行に思う


 編集部から五十号の節目に何か書けとのことなので、主に自分が手がけた六十年秋の三十五号から四十五号までの十一冊の会誌と、編集副委員長として参画した「創立三十周年記念」の四十六号を書架から取り出してみた。頁を繰るごとに過ぎし日のことが遥か昔のごとく、またつい昨日のごとく懐かしく想い出されてくる。「東京小出会の先輩は『会誌発行』なんてえらいことを始めてくれたもんだ・・毎年一回の総会だけやっていればそれで充分ではないか・・編集や出版の経験、能力のある人ならいいかもしらんが、素人の我々にはとても無理だ・・手数と金ばかりかかって忙しいのにとてもやりきれない・・情報過多の時代にこんな小冊子を金を払って読んでくれる人はいるのだろうか・・等々」

 編集委員のはしくれとしてお手伝いを始めて暫くの間は、このようなことを内心ブツブツ唱えていたようである。それでも与えられる仕事は私には始めてのこととて珍しく興味をひかれていた。しかも会誌の発送作業等大勢でやるときは仲間が同郷で、その上同級生が多いのでワイワイガヤガヤとクラス会の気分で楽しいものだった。

 毎年の定時総会は会誌作成者にとっても大事な行事である。写真を撮ったり、挨拶を録音したり、総会概観記の心配をしたり。総会資料の事業計画、会計報告、役員改選等の資料はそのまま会誌にも使えるが、その原稿は自分たちで準備しなければならない。総会が終ると挨拶のテープ起こしだ。これが意外に時間のかかる作業である。話したのをそのまま文字にするだけでもなかなか難しい。しかもしゃべり言葉をそのまま活字にするには抵抗のある所もある。一応自分なりの調整原稿を作って本人に添削していただく。

 会誌発行が近づくと、郷里の「小出郷新聞」や「越南タイムズ」から「郷土ニュース」にも載せたいような記事を探して、与えられた誌面にちょうど納まるように取捨選択をする。また、「会員だより」の原稿も用意しなければならない。

 こんなことで委員がそれぞれ知らず知らずのうちに会誌の原稿作成に参加しているのだが、自分が作った原稿が会誌上のきれいな活字に変身しているのを見るのは、新鮮な驚きで誰かに見せてあげたいような気分になる。

 こんな仕事を一通りこなせるようになった頃、編集全体を中心になってやってみるように言われた。これは大変なことである。原稿執筆者の依頼、督促、原稿の査読・修正、割付け等を自分の判断でやらなければならない。ここで断然「ノー」と言うべきだったが、前任者の年齢、健康等を考え、情にほだされて、「ご指導をいただきながら」という条件で引き受けてしまった。

 引き受けたからには簡単に投げ出す訳にはいかない。また、仕事の内容や先輩の苦労がわかってくるにつれ、この有意義な事業をなんとしてでも引き継いでいかなければならないと思うようになってきた。

 それにはなんと言っても大勢の方から原稿を書いてもらうことが先決である。黙っていては原稿は集まらない。役員会の席上など機会をとらえて原稿をお願いした。しかし快く引き受けてくれる人は少ない。個別にお願いしていたのではどうしても特定の人に片寄り数も限られる。 

 そこで委員の方と諮り、全会員を対象にしなければということで、「私の近況」の特集を組むこととした。会員を町別、字別に分類して、順次投稿をお願いした。その結果三十八号から数回にわたり百名を超す方から投稿をいただいたのは感激であった。ページ数も三十九号が七十六頁、四十一・四十二号がともに六十頁と他の号に比べると断然多くなり私を喜ばせてくれたが、会の財政は少し苦しくなったかも知れない。

 また、郷土訪問のように特別の行事時には参加者が快く原稿を書いてくれるので助かった。四十二号の「特集・戊辰小出島戦争」は事務局共同執筆の郷土訪問記と、数名の方からいただいた貴重な玉稿で、本誌にふさわしい中味の濃いものになったのではないかと自画自賛している。

 原稿の少ないのも辛いが、沢山の写真を前にして取捨選択で嬉しい悲鳴をあげたことが一度だけあった。「創立三十周年記念号」の時で、この時には写真が三四 ○点ほど集まった。第一次の編集案作成を仰せつかったが、大量の写真の編集は初めてのこと、どのように区分し、どの写真を使うか、折角の写真をボツにしたくない。随分悩みながら試行錯誤の末六十四頁の案を作成提出した。

 編集打合せの結果、予算上の制約等もあり、最終的に写真は三十二頁に圧縮することとされ、今度は桜井強委員長が半分に圧縮するナタを振るってくれた。委員長も辛い思い出カットしたのではないかと思う。

 細部については、ベースボールマガジン社の出版部長川平いつ子さんが、自ら専門家と立場できめ細かく検討を加えていただき最終的にあのような形に仕上げて下さった。古い写真も生き返ったように見え、レイアウトも素晴らしく立派な写真集になったのではないかと思っている。

 このようにして一冊の会誌が出来上がった時の慶びは格別で、自分の子供でも生まれたように嬉しい。また会員の方から「よいものを作ってくれたね」とか「自分の文章が始めて活字になって嬉しい」「自分の載っているのを親戚の方にも差上げた」等と聞かされると、それまでの苦労が一ぺんに吹っとんでしまう。そして一人でもこの小冊子を喜んで下さる方がいる限り、続けなければと自惚れてしまう。

 そんなことで七年間も続ける羽目になってしまったが、だんだんマンネリ化してきたことは自分自身が一番よく知っているつもり。引きさがるタイミングをうかがっていたが、三十周年記念号の完成を機にようやく那須美夫さんに引き受けていただいた。なんとか会誌発行の灯をともし続けてバトンタッチ出来、肩の荷をおろした思いである。

 しかし、一方周囲を見廻すと私だけが逃げ出したようで申し訳ないような気もしている。若手の登場を期待して手をひいたのだが、現在でも編集委員の顔ぶれは那須さんを除いて古稀に近い私たち同級生だけである。それどころか私の前任の桜井副会長までが事務局の地味な仕事をやっておられる。私も編集の主役からおろしていただいたが全面解放された訳ではなく、編集委員、事務局の一員としてお手伝いさせていただいている。

 幸い那須さんの同窓の方が一名熱心に事務局の手伝いをして下さっている。この年代の方々があと何名か後に続き徐々に交代してくれることを切望してペンをおく。





(「東京と小出郷」 平成7年春 第53号より)

          戦後五十年 大東亜戦争を思う


◯ まえがき 

 昭和十九年九月、海軍予備生徒として広島県大竹海兵団に入団した私は、旅順の予備学生教育部で基礎教育を受け特攻隊に志願、特殊潜航艇艇長講習員として瀬戸内各地、最後は小豆島で訓練を受けているうちに終戦となり、命ながらえて復員した。

 五十年を経て往時を振りかえると感慨無量である。当時、十九歳の私が学業をなげうって海軍に身を投じ、決死の覚悟で戦った「大東亜戦争」とはいったい何であったのだろうか。私たちの命がけの働きは負けてしまえば全くの無駄骨に終わってしまったのでろうか。

 戦後、大東亜戦争を正当化するような言論はタブーとされ、特に教育界においてはこうした風潮が強く、日の丸も駄目、君が代も駄目とされてしまった。しかも、一国の首相、細川総理までが「先の大東亜戦争は侵略戦争であり、間違った戦争であったと認識している」と発言している。はたして「侵略」であり「間違い」だったのだろうか。

 もちろん戦争はしないに越したことはない。また、個々の問題を取り上げれば、どの戦争にも悲劇がつきまとい、耐え難い苦痛を受ける人も出てくる。犠牲になった方や、ご遺族には申し上げる言葉もない。だからと言って日本の国全体として、あの戦争は絶対避けるべきだったのだろうか。

 戦後五十年、静かに考えてもよい時期にきていると思う。


◯ 日本、もし戦わざりせば

 私はときどき、テレビの「いきもの地球紀行」を見る。アフリカ草原あたりの動物たちの生態が放映されるが、まさに食うか食われるかの「弱肉強食」の死闘が演ぜられている。私は人間の世界でも根本は同じではないかと思う。黙っていれば自分だけでなく、時には民族ごと抹殺されてしまうのだ。

 古い時代、有色人種の蒙古の大軍がヨーロッパを席巻したこともあったようだが、コロンブスのアメリカ大陸発見後は、一貫して白人諸国の世界制覇が着々と進行してきたように思う。その歴史的事実を冷静に直視してほしい。土着のアメリカインデアンを滅ぼし、中南米に栄えたインカ帝国を滅亡させ、オーストラリアのアボリジニを殆ど絶滅に追いやった。アフリカの黒人はアメリカに連れていかれて奴隷にされ、その国土は分割された。アジアにしてもインド、インドシナ、インドネシアなどが白人国家の領土にされ、その触手は中国におよび、いよいよ日本に狙いが定められていたのだ。

 白人がくるまでは、南北のアメリカ大陸でも、オーストラリアでも、アフリカでも、アジアでも、土着の民族は貧しいながらも平和に暮らしていた。其処へ頼みもしないのに白人が上がりこんで、弓と矢くらいしか持っていない相手に銃砲を浴びせて殺戮し、その土地を占領してしまったのである。こうした事実こそ明らかに「侵略」であると思う。日本にしても戦国時代を経て徳川の治世となり平和を謳歌している時に「黒船」がやってきて、大砲で威嚇されつつ開国を強要されたのだ。まことに私どもにとってはおせっかい以外の何物でもない。

 日本人を含めた有色人種にとっては、えらい災難で迷惑千万な話なのであるが、話せば侵略を思いとどまるような相手でなかったことは歴史が証明している。日本が他の国々のように白人のなすがままになっていたら、歴史の流れからみて、日本を含めたアジアは確実に第二のアメリカインデアンやアボリジニと同じ運命を辿らざるを得なかったであろう。現在も続くアフリカの人種差別、アメリカの黒人問題、ソ連に強制連行されての抑留生活など、想像しただけでも肌に粟の立つ思いがする。それが、日本人だけでなく、当時すでに植民地化されていたインド、インドネシア、マレーシア、ビルマ、フイリピン等はもちろん、韓国、中国までも同じような運命をたどっていたと思われるのである。


◯ 日本の選んだ道

 手を拱いていれば、白人諸国に支配されてしまうことを予見した明治維新における日本の先達は、欧米先進国に追い付く富国強兵の策を選んだ。そして、日露戦争では辛うじてロシヤの野望を食い止めることができた。

 膨張する人口問題に悩まされた日本は海外移住地を太平洋岸に求めた。しかし、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドのいずれからも閉め出されてしまった。もともと自分たちが土着民を滅ぼして住み着いた土地であっても、一旦居すわってしまうと既得権益として他の者の参入を許さないのである。過剰な人口をかかえ、乏しい資源と経済的に困窮した日本がそのハケ口を大陸に求めたとしても、それは責めらるべき行為であったろうか。

 日本は日露戦争によって獲得した権益に基いて満州の経済開発に乗出した。しかし、日本の力がついてくると白人国家はさまざまな圧力をかけてきた。長くなるので途中の経過は省略するが(注)、戦争を回避するための交渉の土壇場で日本にとって到底受入れられないハルノートを突き付けられ、「座して死ぬより戦って死すべし」と窮鼠猫を噛む悲壮な覚悟で立ち上がったのが大東亜戦争だったと思う。

 軍部の横暴その他避難さるべき点は多々あると思うが、大きな歴史の流れの中にあって、あの時日本が下した決断は正しかったと思う。


◯ 戦後五十年を経過して

 戦争は日本の無条件降伏という無残な形で集結した。極東軍事裁判所では日本のリーダーたちは絞首刑となったが、アメリカの原爆投下やソ連の不法侵入や強制連行は不問とされた。しかし、日本人は廃墟の中から奇跡的な復興を成し遂げた。また、日本軍にもろくも敗退したイギリス軍を目のあたりにして、アジアの南方諸国は勇気づけられて続々と独立を勝ちとって行った。その結果アジアから白人諸国の領土は姿を消した。

 ロシヤは崩壊し、イギリズも往年の面影なく、アメリカも日本との貿易赤字で苦しんでいる。白人の世界制覇の野望は砕かれたと見てよいのではないか。これは他のアジア諸国がなし得なかったこと、すなわち白人諸国の横暴に対して、敢然として戦いを挑み有色人種の意地を見せたことが、大きな引き金になったのではないかと思う。

 日本人はもっと自信を持つべきであるし、心あるアジアの人々は喝采を送ってくれている。何時までも勝者の論理にばかり振り回されていたのでは、先輩や同僚たち、この戦争で散った多くの英霊も浮かばれないと思うのである。

 紙一重の差で私は生き残ってしまったが、多くの先輩や同僚が、空に海に若い命を散らして行った。春、桜の咲く頃、靖国神社を訪れると、梢に咲いた満開の同期の桜たちが、お互いに再会を喜びあい、私にも「おう、貴様も会いにきてくれたか」と声をかけてくれるように思われる。参拝を済ませると神社わきの「遊就館」に寄って、先輩たちの遺書や遺品に接し、「皆さんのおかげで日本も立派に立ち直りましたよ」と報告するのだ。心なしか先輩たちの遺影に微笑みが浮かんだように思われた。

 注、田中正明著「パール博士の日本無罪論」(慧文社)参照。パール博士は極東軍事裁判においてただ一人、敢然と全員無罪を主張したインド代表判事。日本が戦争に突入するまでの過程を、外国人として、客観的、詳細に記述している。特に戦後の教育を受けた若い方々に是非読んでほしい本である。





(「東京と小出郷」平成9年春号より)

          青島の風景今昔


 町制施行百周年記念式典に参加、その時いただいた資料により、明治二十九年に小出島村と青島村が合併して小出町が発足したことを知り驚きました。また最近発刊された「小出町史」を入手、興味深く拝読させていただきました。郷土の歴史を詳細に取りまとめられた関係者のご苦労に敬意を表します。

 自分の育った青島村の記述の中には、福山、魚野川、鎮守様、戸隠神社、秋葉神社、成田山、魚野川の舟便、鮭取り等懐かしい言葉や、私の知らない昔のことが記されており、青島の山や川の景色を思い出しながら繰り返し読ませていただきました。

 これを読みながら、ふと祖父からいただいた「青島八景」と題した一冊の本を思い出し、久しぶりに取り出してみました。宋村先生、高橋月哉先生という方が、青島の代表的な風景を、俳句、和歌、新体詩、漢詩に詠んだものを祖父が毛筆で浄書したもののようです。

 八景のそれぞれに俳句、和歌、新体詩、漢詩が添えられておりますが、長くなりますのでその一部を紹介してみます。


    青 島 全 村 (漢詩)

負廓山村沃地連  廓を負ふ山村、沃地連なり

南看八海北魚川  南のかた八海を看(み)、北は魚川

柴米富足兼風景  柴米(さいべい)の富足りまた風景

不羨桃源飽暖民  羨まず桃源飽暖の民を


    福 山 松 (俳句・和歌)

涼風や 木の根まくらに 松のかげ

此処山高根の松はあらたかに 里の南に鎮まり護る


    神 明 滝 (新体詩)

三つ四つ二つ まふて来る 人影たえぬ 神の瀧

霞としぶき 玉と散る 恵の露に あみる袖


    御 室 月 (俳句・和歌)

つき見えつ かじかきくなり 御室堂

御室堂月の光の其景色 なみに浮みて掬ふべく見ゆ


    鎮 守 望 田 (漢詩)

萬頃青波闢社前  ばんけいの青波、へきしゃの前

一眸十里稲花連  いちぼう十里、稲花(とうか)連なる

到秋可識穀山積  秋に到れば識るべし、穀山積するを

正是神慮恵若天 正に是れ神慮恵若の天


    成 田 山 (新体詩)

浮世のちりを 流す川 波に横たふ 三重の橋

さへづる鳥も 法の声 きけば浄土に すむこゝろ


    釣 魚 (俳句・和歌) 

小春日は 鮎の瀬つりや 竿の音

はるはつり秋は網曳く魚野川 霞に花に月にふねよし


    赤 池 鯉 (新体詩)

木々は緑に 雲白く 静けき池に みてる鯉

浮み出ずれば 時ならぬ 錦織りくる 池の面


    福 山 雪 (漢詩)

全山欲崩怪巌危  全山崩れんと欲して巌の危なると怪しむ

纏綴縦横藤樹奇  纏綴(てんてつ)縦横、藤樹奇なり

最好峩々萬丈嶺  最も好し峩々(がが)たる萬丈の嶺の

青松白雪相映時  青松白雪相ひ映ずるの時


 幼い頃より見なれた風景もこのように詠まれると格別の趣があります。清流魚野川を隔てて望む八海山は、釣人を配しても雪を配しても一幅の絵であり、白雪も青松と対比する時一編の詩となります。これに加えるに錦の鯉や神明の瀧。鎮守様の境内から黄金色の稲穂を眺めて神の恩恵を知る心。まさにこの山村を桃源郷と観じた先人がおられたことに感動と誇りを覚えます。

 国破れ星霜移り、科学技術の進歩に伴って郷里も変貌しました。その二つ三つを掲げてみますが、歌ごころのある方に「新八景」を選び、先人と同じように漢詩や、和歌、俳句を詠んでいただきたいものです。


 教育神社 鎮守様の境内に新しい社殿が出来ました。

 青島温泉 小出町にようやく温泉が出たのですよ。

 小出公園 コスモスの花がみごとです。

 青島大橋 インターから五、六分の距離となりました。

 山上展望 耕地整理、国道十七号線・関越自動車道・インターの建設、河川改修、

       小出高校・大平酒造進出等により大きく変わりました。





(「東京と小出郷」平成10年春 第58号より)

          郷関出でて六十年


 「男児立志出郷関」。これは昭和十四年小出小学校卒業の年に作られた同級会誌に寄せた私の作文の題名である。最近また文集を作ろうとの話が出た機会に読みかえしてみた。当時十四歳、逓信講習所入学直後に書いたものだが、文中には「学若無成死不還」とか「少年易老学難成」の漢詩が引用されてあり、微苦笑させられる。

 この学校を振り出しに東京の生活が始まり六十年が経過したが、一年の小出郵便局、一年の海軍、二年のニューヨークを除き、人生の大半を東京で逓信省、KDDに勤めて過ごしてきた。東京は私の第二の故郷である。

 この六十年間はまさに激動の時代、各人それぞれの思いがあると思うが、私にとっては定年退職するまで一貫して奉職してきた国際通信の変遷が忘れられない。

 昭和三十九年、太平洋横断海底ケーブルが敷設されてから、電話も市内通話なみの品質となり、それ以降値下げの連続で、まさに情報通信時代の幕開けとなった。この海底ケーブル建設のため膨大な資金が必要となり、会社資本金の三倍にあたる九十億円を米国で調達したのであるが、その仕事の手伝いが出来たのは経理屋として冥利に尽きる思いである。

 縁あって東京小出会に入会してからも二十年が経過した。総会や会誌を通じ多くの方々と交友を深められたのも有難いことである。

 長野オリンピック閉会式での「故郷」合唱には感激した。学成らず、また志も果たせず、何時の日になっても故郷に帰れそうもないが悔いはない。「故郷は遠きにありて思うもの」との言葉もある。故郷小出の町がいつまでも「山は青く、水は清く」あれと願うとともに、第二の故郷、東京の「東京小出会」がますます発展することを念願してやまない。

 



(「東京と小出郷」 平成11年秋 第60号より)

          一 口 便 り 


六十号 わが半生の 夢の跡 

東京を ふるさとにする ヨイヨッサ

ふるさとの なまりに踊り 物産店

小出会 チームの名あり 雪合戦

七十号 原稿募集 待ってます 





(「東京と小出郷」 平成12年秋 第61号より)

          一 口 便 り 


 魚野川の桜づつみに記念植樹をとの呼びかけがあったので、私どもも結婚五○年を記念して、一本植えていただきました。昨年暮には青島に住む弟から、植えられた桜が雪の中に凛としている写真が送られてまいりました。今年の春には小学校の同級生から私たちの桜に花が咲いていたと写真を送ってくれました。嬉しいことです。六月には小学校のクラス会が郷里であるので参加の予定、植樹の桜も是非見てこようと楽しみにしています。 

 第六○号(平成十一年秋号)に寄せられた、特集一口便りを拝見、その数の多いのと、内容の多彩なのに驚きました。一口便りというので短い文章が多いのは当然ですが、約百二十名という多くの方々が便りを寄せてくださったのには驚きました。百名を越す投稿があったというのは、昭和五十六年の「東京小出会二十年のあゆみ」、および平成三年の「創立三十周年記念号」以来のことではないでしょうか。編集に当られた方々の企画力とご努力に敬意を表します。

 来年は東京小出会の創立四十周年の年にあたります。何か新しい視点から記念号でも作っていただけたらと期待しております。

 「温故知新」という言葉がございます。故(ふる)きを温(たず)ねてあたらしきを知る、古い事柄をよく研究して新しい道を発見するという意味だそうです。

 また「新しき酒は新しき革袋に盛れ」という言葉もございます。

 時代は急速に動いております。東京小出会も四十年を経過して制度疲労を起こしている面もあり、急速な変化を求める声も出ているようですが、先人たちが四十年に亘って培った捨てがたいものも多々あるのではないでしょうか。古くても良いところは残しつつ、東京小出会の新しい革袋を作っていただきたいものと願っております。





(「東京と小出郷」 平成14年秋 第63号より)  

          一 口 便 り 


 平成十四年度総会の案内を有難うございました。

 役員の皆様のお骨折りに感謝し敬意を表する次第です。私も長年この会のお手伝いをさせていただき、一時期、会誌「東京と小出郷」の編集を担当しましたが、当時年二回の発行に大勢の方から原稿を集めることの難しさを実感してまいりました。

 それだけに新進気鋭の役員の方々がアイデアを出し合い、充実した会誌を継続して発行されているほか、さまざまなイベントを企画して総会その他を運営されているのを見て感慨無量でございます。四十年余りの歴史をもつ東京小出会を今後ますます発展させるようご活躍のほどを願っております。





(「東京と小出郷」 平成15年秋 第64号より)

          一 口 便 り 


 平成15年度総会の案内有難うございました。

 役員の皆様のお骨折りに感謝し、敬意を表する次第です。魚沼市が発足すると、東京小出会の名称はどのようになるのでしょうね。名前はどのようになっても結構ですから、この会が今後ますます発展するよう願っております。





(「東京と小出郷」 平成16年秋 第65号より)

          東京小出会の経験が生きています 


 東京小出会で会誌編集のお手伝いをした経験が今頃になって役に立ち、関係の方々に喜んでもらっております。

 勤めていたKDDで謡曲のサークルが発足したのは、昭和二十九年、最初からの参加者は私一人になってしまいました。五十周年の大会も四月に杉並能楽堂で盛会裡に終了、現在、五十周年記念誌作成のお手伝いで毎日パソコンに向っています。特攻生き残りの戦友会が今も毎年小豆島で開催されています。この会で「特攻艇長たち 次世代への遺言(仮称)」なる本を作ることとなり、その編集を手伝っております。ボケ防止に少しは役立っているようです。





(「東京と小出郷」 平成17年秋 第66号より)

          一 口 便 り 


「東京と小出郷」が継続発行されていることは嬉しい限りです。八十歳になりましたが、会誌編集の経験を生かして「ことぶき大学」で地元の名所旧跡のガイドブックや、謡の会で記念誌・写真集を作ったりして楽しんでおります。昨年作成した「特攻艇長 次世代への遺言」には約百名の方から感想が寄せられ感激しました。パソコンとクルマと謡曲、それに札所や謡蹟めぐりなどで定年後も退屈せずに過ごしておりますが、クルマだけはそろそろ注意信号が出ているように感じております。





(「東京と小出郷」 平成18年秋 第67号より)

          一 口 便 り

  

 近況報告 昨17年9月、在郷の同級生、井口新吾君が中心になって小学校のクラス会を開いてくれました。場所は銀山平のログハウス「白光」。東京からは6名が参加。総勢14名で奥只見湖の遊覧船、翌日は堀之内の「やな」で鮎料理と楽しいひとときでした。81歳、耳も遠くなり目もかすんできましたが、まだなんとか歩けるので、小豆島・焼津・横須賀・呉・尾道(戦友会、戦艦「大和」)、松山・鎌倉・東北(謡曲)とこの1年間もあちこち見て廻りました。また、海軍時代、特殊潜航艇要員として訓練も終る頃、教官の指示で書かされた、340名の遺詠の短歌集「出陣賦」を復刻、刊行しました。





(「東京と小出郷」 平成19年秋 第68号より)

          ブログをはじめました

  

近況報告 昨年も郷里で小学校のクラス会を開いてくれ、東京からもまた6名が参加、「ますのや」で歓談の後、東京組は大湯温泉児玉旅館に一泊して帰りました。

 趣味の謡曲の会や戦友会であちこちに出かけています。弘前の東北大会では津軽半島一周と白神山地、鳥取の大会では隠岐島二泊と松江、名所めぐりでは、平泉、塩釜、山形方面。戦友会では始めて海上自衛隊の観艦式を見てきました。

 昨年10月頃からブログを始めました。定年後あちこち謡曲関係の史跡を訪ねた記録です。宝生流180曲のうち五十音順で130曲まできました。ブログ名は「harusan1925」です。検索で「謡蹟めぐり」でも出るかと思います。興味のある方はどうぞ。



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私の履歴書

「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−