私の履歴書29  喘息発病 入退院をくり返す  昭和62〜

KDD在職中は幸い病気らしい病気もせずに過ごすことが出来たが第二の職場に移るようになってから、喘息とのおつきあいが始まってしまった。長年の不規則な生活やKDD事件の心労、娘の結婚等、いろいろな要因が重なったものと思われるが、昭和62年気管支喘息と言うことで飯田橋にある東京逓信病院に入院する羽目になってしまった。

鼻や前立腺の手術も含めて昭和62年から平成14年までの16年間に11回も入退院をくり返した。入院すると「喘息日誌」なるものが渡され、喘息の症状や、服用の薬、ピークフローの値などを毎日記入しなければならない。10種類以上もの吸入薬や錠剤を決められた時間に服用するため、私自身の薬日記の様式を考案し、何時にどの薬を服用したかを記入するとともに摘要欄にどのようなことをしたかを記すこととした。この形式は現在でも使っており、この用紙の裏側に日記をパソコンで打ち出すようにしている。そのほかどのような薬をどれくらいの期間服用したか、また、プレドニンという強い薬をどのように服用したか等を一覧出来る表も考案した(「私の入院記録」参照)。


発病後20年以上を経過してしまったが、ここまで生き延びられたのが不思議のような気がする。一時は病室の窓から満開の桜を見てこれが桜の見納めかと思ったときもあったが、伊藤敏雄先生や原先生はじめ良い先生方や医薬の進歩に支えられて、徐々に快方に向かった。始めの10年ぐらいは、錠剤のほかにネブライザーという吸入器で薬液を吸入するのが日課であった。モーターつきでかなり重いうえに一回20分くらいかかり、朝夜2回行う必要があった。旅行の時は携帯用のものを持参するのだが、かさばるし同室の方にも迷惑になるのでかなり神経を使った。

平成12年頃になると「フルタイド」とか「セレベント」という薬が出てくると今迄のネブライザーによる吸入が不要となり、一息吸い込むだけでおしまい。しかも他の錠剤も少なくなり、現在では喘息関係では、この二つの吸入薬と血圧、利尿剤の4種類のみとなってしまった。もっともこのほかに、近くの佐野眼科で処方された目薬を2種類使っているが・・・


病気をしてからものの考え方、生活態度も変ってきたようである。あれだけ呑んでいたお酒もやめてしまった。今でも酒は呑めるうちはどんどん呑んだほうが良いと思っているが、辞めてみて酒に費やした膨大なエネルギーと費用に驚いている。酒をやめてからはこれを車とパソコンにつぎ込むことが出来た。


また、人様に言われて神仏を拝む気持ちにもなれた。家内と朝夕般若心経を唱えるようになったり、札所めぐりも始めるようになった。西国、坂東、秩父を廻り、念願の四国88ヶ所や小豆島の88ヶ所を廻ることも出来た。四国に行くようになってからは、その時いただいた「御真言」なども併せて唱えている。


また、入院するとまとまった時間を持て余す。こんな時に私はメモを片手に過ぎ来し方を振り返り、うたなどを作って時間をつぶした。日常の生活では到底かなわぬ事である。退院後パソコンでこれをまとめ一冊の本にするのである。退院直後に作った「病床うた日記」「続・病床うた日記」、それに後で触れたいと思っている、平成11年9月作成の「定年後の足跡」、平成14年2月作成の「日々是好日」(私の履歴書)も、入院中の暇つぶしに書き留めた構想や資料をパソコンで浄書し、これに写真を添えたようなものである。


10年以上入院しないで済んできたが、平成11年5月の連休に久しぶりに入院しその後3回もくり返している。その時は神様から休暇を与えていただいたと静かな時間を楽しむ気持ちで過ごすことが出来た。


平成15年から現在に至るまで、喘息は完治した訳ではなく、前述の4種類の薬は続けているが、日常生活には殆ど支障なく、旅行にも出かけることが出来るのは有難いことである。昨年(平成19年)4月には、札幌でインフルエンザにかかり入院、肺炎を併発し心配したが5月の連休の頃には回復したのでほっとしている。


しかし83歳を迎えるこの頃、耳が遠くなったり、視力も落ち、謡でも長時間座ることが出来なくなったりで体力が衰えてきているのは確実である。でも動けるうちは謡の会、クラス会、戦友会、旅行など出来るだけ外に出るよう心がけていいる。


健康に自信ありたる身なれども 保険のおかげ知れる身となる

まなむすめ嫁がせ仕事もひと区切り 安堵寂寞こもごもの頃

お薬とネブライザーを友として 日本全国謡蹟の旅

東京逓信病院 東京飯田橋 (平成20.2)
東京逓信病院 東京飯田橋 (平成20.2)



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