資料   北九州・長門路の旅
    (平成8年度謡曲名所めぐり ガイドブック)

           (ご連絡とお願い 省略)


            観光コースのあらまし


第1日目 5月14日(火) 

 羽田空港発(8:40)→福岡空港着(10:20)貸切バス→博多駅(全員集合・同駅発11:05)→大濠公園能楽堂→福岡タワー→筥崎宮(唐船塔、夫婦石)→香椎宮→志賀島金印公園→海の中道海浜公園(車中)→ホテル海の中道泊

第2日目 5月15日(水) 

 ホテル海の中道発(8:00)→古賀IC→朝倉IC→桂の池跡→三連の水車→恵蘇八幡宮、木の丸殿跡、斉明天皇陵→原鶴温泉(昼食)→英彦山神宮(花月座り石)→高住神社(豊前坊)(車中)→守美→日田IC→湯布院温泉、ゆふいん山水舘泊

第3日目 5月16日(木) 

 ゆふいん山水舘発(8:00)→宇佐八幡宮→柳が浦(清経入水地、清経の墓)→下関(昼食)→赤間神宮(平家一門の墓、安徳天皇稜)→安徳天皇御入水の地、御裳川、平家一杯水(車中)→関門橋→和布刈神社、早鞆の瀬戸、門司が関跡→福岡空港(18:10頃)→博多駅(18:30頃)

  東京参加組 福岡空港 19:10発 羽田空港20:35着 解散

  博多参加組 着後博多駅にて解散


(注)1.航空機の時刻に変更があるときは、改めて通知します。

   2.コースは予定であり、都合により変更(最悪の場合割愛)することが
     あります。


               主 な 謡 蹟 

謡蹟名       関連曲     謡蹟名         関連曲

筥崎神宮      唐 船     桂の池跡、木の丸殿跡  綾 鼓

柳が浦、宇佐八幡宮 清 経     和布刈神社       和布刈

赤間神宮他     大原御幸    英彦山         花 月

香椎宮、志賀島   香椎(他流蘭曲)



           (観光順路略図 省略)


            観光のポイントご案内


1. 大濠公園能楽堂       10. 宇佐八幡宮

2. 福岡タワー         11. 柳が浦、清経の墓

3. 筥 崎 宮         12. 赤間神宮、平家一門の墓

4. 香 椎 宮           安徳天皇稜

5. 志賀島、金印公園      13. 安徳天皇入水之処碑、御裳

6. 海の中道海浜公園         川碑、平家一杯の水

7. 桂の池跡          14. 和布刈神社、早鞆の瀬戸 

8. 恵蘇八幡宮、木の丸殿址   15. 門司が関址

   斉明天皇陵           (参考)この他の謡蹟

9. 英彦山、花月座り石、豊前坊   



1. 大濠公園能楽堂   福岡市中央区大濠公園 

 大濠公園能楽堂は福岡城跡の舞鶴公園西側にひろがる大濠公園の一角にある。平成2年8月に教授嘱託会の全国大会が開催された所で私たちにとっては見逃せない所である。

 大濠公園はかって博多湾草ケ江の入り江で、福岡城の外濠として利用された所であるが、昭和2年、東亜大勧業博覧会が開かれたときに埋め立てられ、中国の西湖を模した公園が造られたという。池と橋との調和は美しく、周囲には福岡市美術館、日本庭園などもある。


2. 福岡タワー福岡市シーサイドももち

 234メートルの高さを誇る福岡タワーはいわば福岡市の新都心のシンボルとなった。外観は8000枚のハーフミラーで覆われて輝き、展望台からは一風変わった住宅群に加え、公園やいこいの場、学校、文化施設に加え、福岡ドーム、西部ガスミュージアム、海上レストラン・マリゾン等新しい町並みや、海を隔てて能古島や、遠く金印公園のある志賀島まで一望できる。

 謡曲とは関係ない所であるが、福岡市全体の把握と、新しい福岡を知るには格好の場所と思いコースに加えたものである。


3. 筥 崎 宮   福岡市東区箱崎  

        「唐船」「神功皇后(呉服他)」「日蓮(鵜飼)」 

 「唐船」ゆかりの筥崎宮は日本三大八幡宮の一つで、応神天皇・神功皇后・玉依姫を祀る。

 境内には「唐船塔」と「唐船夫婦石」が並んでいる。「唐船塔」は迎えに来た唐子が、父がもし死んでいたら建てようと持ってきた墓といわれている。唐船塔の近くにある碑には聖福寺の画僧仙崖和尚の作といわれる次の歌が刻まれている。

  箱崎のいそべの千鳥親と子と なきにしこえをのこす唐船

 また、「唐船夫婦石」は祖慶官人と妻とが別れる時に腰かけて名残りを惜しんだ石と記されている。謡曲には日本子のことは謡われているが、日本妻のことは一言も触れていない。子供たちだけ連れて妻にはなにも言わずに唐へ帰ってしまったのかと疑問に思っていたが、この石の由来からすると妻にも連絡がとれ、別れを惜しむことができたようで安心した。

 しかし、妻を連れて行かなかったのは確かで、これは箱崎某が許さなかったためであろうか。とすれば、子供と同様、妻にも同行を許してあげれば、物の哀れをよく知る人と箱崎某の株もさらに上がったのではなかろうか。あるいはまた、連れて行かないのは祖慶官人のほうに事情があったのかも知れない。唐にも妻がいるので、帰国後のトラブルを避けるため、涙を呑んで日本妻とここで名残りを惜しんだのであろうか・・どのような会話がここで交わされたのであろうか・・夫婦石は黙して語ってくれない・・私はふと山崎豊子作の「大地の子」を思い起こした。

 

 楼門のそばには神木でもある「筥松」がある。神功皇后が新羅出兵から凱旋し、応神天皇を出産したと伝えられる地はいくつかあるが、ここもその一つで皇后が皇子の胞衣を箱に納めて埋め、しるしに植えた松という。筥崎の地名の起源となった名松とのことである。

 境内にはまた「蒙古軍船碇石」がある。往時、日蓮が予言したとおり蒙古軍がこの地に来襲したが、暴風により多くの船が沈んだ。博多の海からこの時の蒙古軍船の碇石が発見され、そのうちの一つが筥崎宮に置かれ、県の文化財となっている。


4. 香 椎 宮福岡市東区香椎 

         「他流香椎(蘭曲)」「神功皇后(呉服他)」

 香椎宮はその昔、熊襲征伐のため、九州に下向した仲哀天皇がこの地に進軍、行宮を定めた。ところが天皇は急に崩御されたので、神功皇后がこの地に天皇を祀ったのが香椎宮の起源とされている。

 香椎宮の神門の前に「綾杉」がある。神功皇后が三韓より帰還の際、三種の神宝(剣、鉾、杖)を埋めその上に杉を植えたものという。昔からこの杉の葉に「不老水」を添えて毎年禁裏に奉献している由。この杉は普通の杉と異なり葉は海松のように、大小の葉があたかも綾のように出ているので綾杉と呼ばれ、樹齢1800年、若芽が根より生じて古来から植えつぐことなく伝わっているとのことである。そのかたわらには有栖川熾仁親王筆の

  千早振る 香椎の宮の 綾杉は 神のみそぎに 立てるなりけり

                        (新古今和歌集)

の歌碑がある。

 境内には少し離れているが、300歳まで生きた武内宿弥にあやかった不老長寿の霊泉で、日本名水百選にも入った「不老水」や、「武内宿弥屋敷跡」「仲哀天皇大本営跡」などがある。


5. 志賀島、金印公園福岡市東区志賀島

           「他流香椎(蘭曲)」「日蓮(鵜飼)」

 志賀島は福岡市北方にある周囲12キロの陸つづきの島である。この島は史跡、自然に恵まれているが、謡曲関係では志賀島の名は他流の「香椎(蘭曲)」に出ており、「鵜飼」の日蓮関連として蒙古来襲に伴う蒙古塚などがある。

 しかし、この島を有名にしたのはなんといっても「金印」の発掘である。謡曲とは直接関係はないが、古代の日本を偲ぶには絶好の地である。

金印公園は志賀島の西海岸にあり、入口の横に「漢委奴国王金印発光之処」の碑が立っている。階段を登ると広場があり金印の碑がある。近くにある説明によると、中国の古い書物である「後漢書」に西暦57年(弥生時代)、時の皇帝光武帝が奴(な)の国からの使者に印綬を授けたことが書かれているとのこと。

 この印が、天明4年(西暦1784年)偶然この地から出土した金印(昭和29年3月20日、国宝指定)である。印面には「漢委奴国王」と凹刻されており、「委(わ)」は日本人に対する古い呼び名で、「奴(な)」は現在の福岡市を中心とする地にあったその時代の小国家である。

 一辺2.3センチの正方形、厚さ0.8センチ、重さ約108グラムの純金に近いものである。つまみの部分は蛇がとぐろを巻いたような形をしている。

 金印がなぜ志賀島に埋められていたかについては、いろいろな解釈があるが、いまだに謎に包まれている。金印の実物は福岡市美術館に常時展示されているとのことである。

 金印の碑のある広場から階段を登るとさらに大きな広場があり、九州福岡を中心とした、日本全土、韓国、中国、太平洋、日本海、東シナ海にまたがる「古代地図」が地面いっぱいに描かれている。高い所からこの地図を見おろすと、その先には博多湾、玄海灘が望まれ、自分が1900年の昔に遡って、自分が奴(な)の国の使者になって遥かな「漢」の国からこの印を運んできたような錯覚に襲われる。


 この金印公園から少し北に行ったところに「蒙古塚」と「蒙古供養塔」がある。今回の名所めぐりでは割愛したが、元寇のとき蒙古軍の軍船の一隻がこの志賀島で座礁し、120余人が捕虜となり、一部は京都に送られ、大部分はここで斬首された。これを哀れんでここに蒙古塚が立てられ、その前には蒙古供養塔も立てられたとのことである。


6. 海の中道海浜公園福岡市東区西戸崎

 博多湾と玄界灘に挟まれた海の中道は、福岡きってのリゾート地。広い敷地内に公園、ホテル、水族館が建ち、バカンス気分が味わえる。私たちの最初の宿泊は、この公園の一角にある異国情緒豊かな「ホテル海の中道」である。白鳥が海に向かって翼を拡げたような優雅なデザインのホテルは周囲の公園の風景によくとけ込んでいる。

 公園の中にはいろいろの施設が沢山あるのだが、ゆっくりこれを楽しむ時間がとれそうもないのが残念である。


7. 桂の池跡   福岡県朝倉町入地東入地 「綾鼓」

 朝倉町といえば福岡県でも大分県に近いほうで、福岡市から東南に40キロ、海からも離れた所で、現在でこそ大分自動車道が通っているが、往時は随分不便な所だったと思う。

 今からおよそ1300年前、斉明天皇が朝鮮動乱に対し百済救済のため新羅に出兵すべく大本営を朝倉に設営したというが、何故このような交通不便な所を選んだのであろうか。「綾鼓」の舞台がこの朝倉町で、往時ここに御所があったと知った時は驚いた。海の近くでは万一敵が上陸してきた場合、司令部もろとも壊滅的打撃を受ける危険性を考えてのことであろうか。

 (補足) 偏見をおそれて、手元の歴史書を調べて見た。

   吉田孝著「大系日本歴史三巻」・・「中大兄は、いざという時のため、老いたる女帝の身を案じたのだろうか」として68歳になられた斉明天皇の身体を心配したためとしている。

   直木孝次郎著「日本の歴史二巻」・・「那の津についた斉明天皇は、はじめ津に近い磐瀬行宮(福岡市三宅)におり、五月に南方の朝倉橘広庭宮にうつった。」とあり、理由は書いていない。

 いずれにしても朝倉町須川には朝倉橘広庭宮跡として「天子の森」があり、小高い丘には大きな「橘広庭宮の碑」が建っている。また、森の前にはつり鐘が埋められているという「猿沢の池」などの古蹟もあって、往時宮殿のあった雰囲気を残している。ただ、道が狭くバスが入れないので今回見学できないのは残念である。

 ここから「桂の池跡」までは少し離れているが、往時このあたり一帯は御所の領域だったのであろう。桂の池も大きかったようで、説明板には、「約1300年程前、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に移られた時、この池で船遊びの宴を催されたと伝えられる。」と記されている。現在はすぐそばを桂川という名の川が流れているが、池はなく桂川のほとりに「史蹟 桂の池跡」と書かれた碑が建っている。周辺は狭いながらも整備されており、「宝生九郎綾鼓演能記念の碑」や「恋」という字しか読みとれないが、しめ縄を廻した由緒ありげな石碑が建っている。傍らの桂川には「恋の木橋」と源太老人を思わせる名の橋もかかっている。

 この地より桂川の下流約300米の所にある「女御呂木」という所には女御の館があったといい、池跡近くの福成神社傍らには本曲のシテ源太の墓といわれる石碑がある。   


8. 恵蘇八幡宮、木の丸殿址、斉明天皇陵

            福岡県朝倉町山田恵蘇宿   「綾鼓」「八島」

 桂の池跡の見学の後、バスは数百メートル離れた恵蘇八幡宮に向かうが、途中、「二連の水車」「三連の水車」があるので見逃さないようご注意いただきたい。

 山田堰をつくり、岩盤をくりぬいて「堀川」に取水したが、一部の土地が高いため、およそ200年前自動回転式の重連水車を設置したが、今でも実動する水車として朝倉町だけで35ヘクタールの農地をうるおしているとのこと。国指定史跡になっており、ここでとれる米は「水車旅情」と呼ばれている。時間が許せば下車見学したい所である。

 恵蘇八幡宮には「木の丸殿址」「斉明天皇陵」がある。斉明天皇は百済救援のため朝倉にこられ、ここに皇居を造営し橘広庭宮と名づけたが、天皇は滞在わずか75日で崩御された。皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は斉明天皇を葬った地に丸木のままの質素な行宮を造って服喪した。これが「綾鼓」の舞台でもあり、「八島」のロンギに「木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行かまし・・」と謡われる「木の丸殿」である。この木の丸殿あたりは現在恵蘇八幡宮になっており、境内には「朝倉木丸殿旧蹟」の碑が建っており、石段を昇ったところには「斉明天皇の御陵」がある。

 ここから眺める筑後川の眺めはすばらしく、また、少し東に離れたところには、天智天皇が詠まれた百人一首の第1番の歌

  秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ

の歌碑がある。


9. 英彦山、花月座り石、豊前坊 

         福岡県添田町 英彦山神宮 「花月」「鞍馬天狗」

 謡曲「花月」にシテ花月の詞として「我はもと筑紫の者、あたり近き彦山に登りしに、七つの年天狗に、とられて行きし山々・・」とある。

 その彦山、今の英彦山は福岡・大分の県境にそびえる標高1200メートル、県下有数の高い山でその麓が花月父子の故郷だったという。英彦山は古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であったところから「日の子の山」すなわち「日子山」と呼ばれていた。嵯峨天皇の詔により「日子」の二字を「彦」に改められ、次いで霊元法王の院宣により「英」の一字を賜り「英彦山」と改称され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えたが、明治維新の神仏分離令により「英彦山神社」となり、昭和50年「神宮」に改称され英彦山神宮となった。

 参道の入口には国の重要文化財「銅の鳥居」があり、本殿の奉幣殿まで石段が延々と続く。ここから歩くのではとても無理と思ったが、今は途中までバスが通れるようになっている。それでも観光案内所のあたりまでしか行かないので、あとは歩くしかない。このあたりからでも石段は375段あるそうである。

 急な石段を登り、本殿の奉幣殿の近くまでくると「宝物展示場」と矢印で示した案内板が立っている。そこを左に100メートルほど行った所に「花月座り石」がある。この石に腰かけて休んでいたところ天狗にさらわれたという。

 この「花月座り石」もさることながら、由緒深い英彦山神宮の本殿奉幣殿に是非参詣していただきたいと思う。しかし、なにしろ急な石段が続く所だけに、年輩の方、足の不自由な方はくれぐれも無理をせずに商店街などで有効に時間を使っていただければと思う。

 バスはここを出発、山道をすこし進むと「高住神社」がある。この神社は「豊前坊」ともいわれ天狗にまつわるいろいろな伝説が残っているとのこと。謡曲「鞍馬天狗」にも「まづ御供の天狗は、たれたれぞ筑紫には、彦山の豊前坊」とある。下車はしないが、気がついたら車内参拝をして、鞍馬山の大天狗をはじめ、白峯、大山、飯綱、富士、大峯、葛城等々、全国の天狗に思いを馳せていただきたい。


10. 宇佐八幡宮大分県宇佐市南宇佐 「清経」

 「清経」の曲中に「世の中の、宇佐には神もなき物を、何祈るらん、心づくしに・・」とあり、宇佐八幡宮に参篭し神託を仰いだが、神託は平家に不吉で神仏にも見放されたかと落胆して柳に帰る旨の記述がある。

 宇佐八幡宮は全国4万余社に及ぶ八幡宮の総本山で、第一殿に八幡大神(応神天皇)、第二殿に比売大神、第三殿に神功皇后を祀る。バスを降り、寄藻川にかかる朱塗りの欄干の橋を渡って表参道を進むとまず武内宿弥を祀る黒男神社が見えてくる。初沢の池越しに宝物館、参集殿を眺めながら進むとほどなく神宮庁に出、さらに真っすぐ進むと応神天皇の御子を祀る春宮(とうぐう)神社に出る。その裏手には須佐之男命を祀る八坂神社がある。

 うっそうと繁るイチイガシの杜を本宮の方へ進むと、応神天皇の若宮である仁徳天皇外の皇子を祀る若宮神社、宇佐鳥居、西大門をくぐって本殿に出る。左から一の御殿、二の御殿、三の御殿と並ぶ八幡造りの均整のとれた姿が苔むす桧皮葺の屋根、丹塗りの各社殿、純白を誇る壁など、色彩の妙とあいまって八幡総社にふさわしい威容を示している。

 境内には大きな菱形池があり、八幡大神が御現われになった霊池としても有名で、藻を浮かべる水面には能舞台がその優雅な姿を映している。毎年10月21日には数百年の昔から能を神前に奉納する行事があり、御神能といい、このときの能面や衣装が多く保存されているという。


11. 柳が浦、清経の墓 宇佐市貴船町  「清経」

 宇佐八幡宮の北方約5キロ、駅舘(やくかん)川の河口小松橋のたもとに、可愛い五輪塔の清経の墓があり傍らに大きな「柳浦史蹟」の碑が建っている。

 「清経」に「さても九州山鹿の城へも、敵よせ来ると聞きし程に、取る物も取りあへず夜もすがら、高瀬船に取り乗って、豊前の国柳といふ所に着く」とあるように、平家一門はここに落ちついたが、宇佐八幡の御託宣も芳しくなく、長門の国にも敵が向かったと聞いて、重盛の三男、清経はあてもなく船を出し、遂に横笛を取り出して今樣を奏でた後、南無阿弥陀仏の一声を最期に海底に沈む。その場所がこの柳が浦の沖であるという。

 小松橋の名は、このあたりが清経の父重盛(小松内府)の領地だったことに起因するといわれるが、この橋にも新しく歩道が出来、また碑のそばにあった柳の老木も枯れてしまったので、新しい木を植えついだという。橋の上に立つと墓の向こうには駅舘川が続き、その果てには周防灘が開けている。月の夜に舟を乗り出した清経の心情が偲ばれる処である。

 ところがこの清経が入水した柳が浦には二つの説があり、もう一つは北九州市門司駅の近くで、ここには柳町の地名も残っており、隣接する大里戸ノ上という所に御所神社(戸上神社)がある。その境内には柳の御所址の石碑が建てられており、柳が浦はこのあたりの海であるという。残念ながら今回の名所めぐりでは時間の関係で割愛させていただいた。 ちなみに曲中に出てくる「山鹿城」は福岡県芦屋市の遠賀川の河口にあり、現在の城山公園がその城址である。


12. 赤間神宮、平家一門の墓、安徳天皇稜 

              下関市阿弥陀寺町  「大原御幸」

 今を去る800年の昔、この地において源平最期の合戦が戦われた時、安徳天皇は御歳僅か8歳であったが、二位の尼に手をひかれ、「極楽世界と申して、めでたき所のあの波の下にさむらふなれば、御幸なし奉らんと」とさとされ、「今ぞ知る御裳川の流れには、浪の底にも都ありとは」と御製を残して千尋の底に沈み給うたと謡本にある。

 帝はこの地にあった阿弥陀寺境内に葬られたが、明治になって寺を廃して赤間宮となり、さらに赤間神宮となった。戦時中空襲により、建物はことごとく焼失したが、昭和33年現在の竜宮造りが造営された。

 この竜宮造りとしたのは、明治9年に昭憲皇太后宮が

 いまも猶 袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこのみゆき思へば

との御歌を奉献されていたゆかりによるとのことである。

 竜宮を模した水天門をはいって海側を眺めると、目の前に壇ノ浦の急流が望まれ、陸の竜宮城といわれる社殿の壮麗さと相まって、源平の昔、ここで命を落とした幼帝はじめ多くの人々の霊が、竜宮城の極楽世界で安らかに眠ることを祈らずにはいられない。

 神宮の西隣には「安徳天皇の御陵」があるが、今も阿弥陀寺御陵と呼ばれている。赤間神宮宝物館には安徳天皇の御尊像が所蔵されている。

 また、神宮宝物館の裏庭には「平家一門の墓」があり、「七盛塚」と呼ばれている。向かって左から前列に教盛、知盛、経盛、教経、資盛、清経、有盛の七人、後列に二位の尼、忠房、および家臣として盛継、景俊、景経、忠光、家長のそれぞれの墓碑がある。

 七盛堂のそばには「耳なし芳一堂」があり、その物語は小泉八雲の作品として有名であるが、ここでは省略する。 


13.安徳天皇御入水之処碑、御裳川碑、平家一杯の水

         下関市みもすそ川町、長府前田町  「大原御幸」

 関門橋の下関側の下には「安徳天皇御入水之処碑」「御裳川碑」や「壇の浦古戦場址碑」等の碑が海岸に沿って建てられており、少し離れて「平家一杯の水」がある。車中見学の予定のため、ゆっくり見学できないのが残念である。

 「平家一杯の水」については、壇の浦の合戦では多くの人が海中に投げ出され、命からがら岸に泳ぎついた者が、この井戸を見てこれを飲んで元気を回復したという。しかし一杯目は真水であるが、二杯以上飲むと塩水になったと伝えられる。

 これに関連して、赤間神宮で入手した「赤間神宮 下関・源平史跡と文化財」なる小冊子に次のような記述があり、興味をひかれたので掲げてみる。

 『長府前田海岸のなぎさをその場所とする「平家の一杯水」伝説は、傷つき息たえようとする平家の武者たちに寄せた憐憫の情が生み出したものであろう。

 傷ついた平家の武将が磯辺に水溜まりを見つけて口にすると、それは真水で、「ああうまい!命の水だ」と、もう一口飲もうとしたところ、その水は塩からい海水に変っていた。一杯だけ飲んで南無阿弥陀仏の世界に入る者にとってはおいしい真水であるが、息吹き返してもう一杯という者にとってはただの海水となっていたというこの伝説の筋、ちょうどなぎさに清水が湧き出るという珍しい事象と、おそらくこの岸辺に傷つきあるいは息たえた多くの武将が流れついたのを見たであろう体験という二つの要因を「末期の水」の思想が巧に結びつけたものであろうと考えられる。』 


14. 和布刈神社、早鞆の瀬戸 北九州市門司区門司  「和布刈」

 関門海峡に面し、本州に最も近い所(関門橋の門司側橋げたの近く)にある。社殿の前は瀬戸内海西口の急潮で、つねに白波を立てて奔流する難所(早鞆の瀬戸)である。

 この神社では、謡曲「和布刈」にあるように、(旧暦)12月晦日の寅の刻(午前4時頃)すなわち正月元旦の早朝和布刈神事が行われる。奈良時代からの伝統行事で、狩衣・烏帽子・白足袋・ワラぞうり姿の3人の神官が鎌や手桶を持ち、社前の海で大松明を照らして新ワカメを刈り取り神前に供える。新年を迎えるための予祝行事で、厳寒のなかで神秘的に行われている。

 この行事だけでも調べてみるとなかなか興味深いが、謡曲「和布刈」には、彦火火出見命と豊玉姫の神話が登場してくるから更に面白くなる。地神第4代彦火火出見命というよりは、私には海幸彦(うみさちひこ)、山幸彦(やまさちひこ)物語の山幸彦といったほうが分かりやすい。

 この山幸彦が兄の海幸彦から借りた釣り針を魚にとられ、これを探すために竜宮の海神の宮に行く。ここで豊玉姫と出会い結婚し、釣り針も探し出して陸に戻る。この時は陸の山幸彦と海の豊玉姫が結ばれ、海と陸の隔てはなかったのである。

 姫は出産に先だって、夫の山幸彦に決して産室をのぞくなと約束したのだが、いざ出産となると心配のあまり産室をのぞいたところ、姫は大蛇(または鰐ともいう)の姿で横たわっていた。龍神の娘だから本性は大蛇で差し支えないのだが、姫は約束を違えたことを怒り、産後竜宮に帰ってしまう。それ以来海と陸との通い路は断たれてしまった。

 ここに天女が現われて舞を舞い、和布刈の時刻になると、雲起り雨降り潮も鳴動するなかを沖から龍神が出現して波をおし退けると、海水は屏風の如く分れて海底が現われ、海と陸の隔てはなくなるのである。

 神社の前に立ち、早鞆の瀬戸を眺めながら、ここを舞台とした天女の舞、龍神のハタラキ、さらにこの瀬戸が屏風のように分かれて海底が現われた場面などを想像するのも楽しいことではなかろうか。

 さらには、山幸彦の父、瓊々杵命(ににぎのみこと)とその妻、木花開耶姫(このはなさくやひめ)のこと、また豊玉姫との間に生まれた鵜鴿草葺不合命(うがやふきあえずのみことー神武天皇の父)や豊玉姫の妹の玉依姫のこと等々・・夢は神話の世界に向って限りなく膨らんでゆく。


(補足)

 和布刈とは関係ないが、潮流の早い早鞆の瀬戸を前にしたこの神社の境内に、高浜虚子の次の句碑があることを付言する。

     夏潮の今退く平家亡ぶ時も

 潮の干満という悠久の自然と、平家の滅亡という歴史的事実を17文字に融合した傑作と思う。

 この句を書くと連鎖反応的に、壇ノ浦合戦と月の引力、潮の干満を関連させた木下順二著の戯曲「子午線の祀り」を思い起こす。この戯曲の詳細をここで述べる余裕はないが、一部を引用させていただく。

 「語り手A 東経130度58分、北緯33度58分の関門海峡の上にひろがる天球を、グレゴリオ暦1185年5月2日の午前7時、月齢23.7日の下弦の月が、南中約70度の高さ、角速度毎時14度30分で東から西へ移動して行った約3時間後、この海峡の満潮時は始まり、やがて13時、潮はおもむろに西へ走り始めている。」

 「遥かに天の北極をかすめ遥かに天頂をよぎり、大空に跨って眼には見えぬ天の子午線が大宇宙の虚空に描く大円を、38万4400キロのかなた、角速度毎時14度30分で月がいま通過するとき月の引力は、あなたの足の裏がいま踏む地表に最も強く作用する。そのときその足の裏の踏む地表がもし海面であれば、あたりの水はその地点へ向かって引き寄せられやがて盛り上り、やがてみなぎりわたって満々とひろがりひろがる満ち潮の海面にあなたはすっくと立っている。」


15. 門司が関址   北九州市門司区旧門司  「和布刈」 

 謡曲「和布刈」に「春秋の雲井の雁もとどめえぬ、誰が玉章の、もじの関守とよみし心も理りや」とある門司関址の碑が和布刈神社一の鳥居前にある。

 ここは都と太宰府を結ぶ重要な地で、文化2年(西暦646年)ここに海峡往来の人や船を調べるため、門司関を設け九州第一の駅としたという。


(参考) この他の謡蹟

 北九州・長門路への謡曲名所めぐりのコースを決めるにあたって、時間の関係、交通事情の関係などで割愛した所がかなりありますので、参考までに、今回のコース近辺の主な謡蹟を掲げてみます。機会を見つけてぜひお出かけ下さい。


 謡 蹟 名    場 所         関連曲目

福岡県

 太宰府天満宮   太宰府市        老 松

 小督の墓     田川市白鳥町      小 督

 宗像神社     玄海町         他流「大社」

 芦屋の里     芦屋町         砧

 山鹿城址     芦屋町         清 経

 八剣神社     芦屋町         砧

 柳御所址     北九州市門司区大里   清 経

 天疫神社(海御前の墓) 北九州市門司区   他流「碇潜」

熊本県

 阿蘇神社     一宮町         高 砂

 桧垣の墓     熊本市蓮台寺      桧 垣

山口県

 満珠・干珠の島 下関市長府宮崎町     大原御幸

 景清洞     美東町赤         景 清


                    ( 高橋 春雄 記 )

ガイドブック 北九州・長門路の旅 平成8年度
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「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−