資料   北 陸 路 の 旅
    (平成10年度 謡曲名所めぐり ガイドブック)

              (ご連絡とお願い 省略)


               観光コースのあらまし


第1日目 5月20日(水) 

 東京駅発(7:37)→越後湯沢駅(着8:58 発9:08)〜(昼食車中)〜高岡駅着(11:41)→全員集合・バス同駅発(11:55)→前田利長公墓所→瑞龍寺(燭光能鑑賞)→如意の渡→義経雨晴しの岩(車中)→二上山万葉ライン(観音様)・大伴家持像(車中)〜田子浦藤波神社→氷見町(氷見グランドホテルマイアミ泊、謡会「藤」「実盛」)


第2日目 5月21日(木) 

 ホテル発(8:00)→埴生八幡宮→倶利伽羅古戦場→石川県立能楽堂〜兼見御亭(昼食)→兼六園→白山比盗_社→那谷寺→山中温泉(よしのや依緑園泊、謡会「巴」「安宅」)


第3日目 5月22日(金) 

 ホテル発(8:30)→尼御前岬→実盛首洗池→実盛塚→安宅関址→小松センチュリーホテル(昼食)→多太神社→金沢駅(14:30)


東京駅参加者 金沢駅発 15:09 はくたか13 越後湯沢駅(着17:43発17:51)あさひ330

       東京駅着 19:08解散

高岡駅参加者 着後金沢駅にて解散


             主 な 謡 蹟 

  謡蹟名     関連曲

 如意の渡、義経雨晴しの岩、尼御前岬    義経・弁慶

 藤波神社、二上山万葉ライン(大伴家持像) 藤

 埴生八幡宮、倶利伽羅古戦場        願書、木曽義仲(巴)

 日本武尊像(兼六園)           小鍛治、草薙

 白山比盗_社               歌占

 実盛首洗池、実盛塚、多太神社       実盛

 安宅関址                 安宅



                観光のポイントご案内

1.前田利長公墓所

2.瑞 龍 寺

3.  如 意 の 渡

4.  義経雨晴しの岩・つままの歌碑

5.二上山万葉ライン(大伴家持像)

6.  田子浦藤波神社

7.氷見グランドホテルマイアミ    

8.  埴生八幡宮(護国八幡宮)

9.  倶利伽羅古戦場

10.  石川県立能楽堂

11.  兼六園(日本武尊像)

12.  白山比盗_社(荒御前神社)・歌占の滝

13.那 谷 寺

14.山中温泉よしのや依緑園

15.尼 御 前 岬

16. 実盛首洗池

17. 実 盛 塚

18. 安 宅 関 址

19. 多 太 神 社   

 

(観光順路略図省略)



1. 前田利長公墓所 高岡市大野

 前田利長公は前田利家の長子として生まれ、慶長3年(1599)に家督を継ぎ高岡城を築き、各地から商工業者を城下に移住させたので、高岡の開祖と仰がれている。利長公は慶長19年53歳で没したが、三代藩主となった義弟の利常公は加賀百二十万石を譲られた恩を深く感じ、兄利長公の冥福を祈り三十三回忌にあたる正保3年(1646)にこの墓を造営したという。

 皇室の御陵を思わせるような立派なもので、墓壇の広さ250平方メートル、墓の高さ約12メートルもあるという。ここにお参りしただけでもさすが加賀のお殿様の墓と感心するのであるが、次の利長公菩提寺の瑞龍寺に一歩踏み入れ、その宏壮な伽藍建築を目の前にすると、感心は驚愕に変わり、加賀百二十万石の底知れぬ財力に圧倒される思いがする。



2. 瑞 龍 寺  高岡市関本町  「燭光能」

 ここも前述の墓所と同様、加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。利常公は時の名匠山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備せしめ、広山恕陽禅師をもって開山とされた。

 造営には約二十年の歳月を要したといわれ、当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭を思わせるものがあったとのこと。瑞龍寺は途中一部の焼失・再建があったり、時代の経過とともに改変が加えられたりしたが、昭和・平成の大復元工事が10年余の年月を経て平成8年に完成し、創建当初の360年前の姿に戻ったという。

 左右対称をなす七堂伽藍のうち焼失した浴室と東司(便所)は復元されなかったが、その他のものは往時の姿を偲ばせてくれている。総門、山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫裏、大茶室、回廊と建造物の殆ど総てが、以前から国の重要文化財として指定されていたが、このうち、山門、仏殿、法堂の3点は平成9年新たに国宝に指定された。

 この由緒ある立派なお寺で、利長公の命日の5月20日に奉納されているという、珍しい燭光能(ローソク能)、今回は金森孝介先生の「羽衣」を鑑賞できる予定となっている。燭光能は法堂に安置された利長公の位牌の前で演じられるという。


(参考) 瑞龍寺の燭光能について

 昭和61年度の「北陸路」名所めぐりでは、同じく5月20日にこの寺をたずねており、「会報」に針生武巳前理事長がこの燭光能について書かれた詳細な記録が掲載されているので、参考までに抜粋して紹介する。

 「薄暗い仏壇の前の広間の四隅に、百匁蝋燭を点し、すべて本格的な仕組の能である。この能について、係の方に要点だけの説明をお伺いした。正式には、この能は「瑞龍寺燭光能」(ローソク能)という。五月二十日は、二代目・利長公の命日で、三代目・利常公が、利長公三十三回忌法要の折、供養のため能を奉納したとのことで、この故事に則り、三年前から燭光能を復元し、五月二十日に奉納しているとのことである。当初は金沢から楽師を招聘して催したが、現在は高岡市在住の金森孝介師を中心として催しているという。・・・

 演技者以外の出演者は、すべて裃で、厳粛そのものであった。薄暗い仏前でローソクに照らされ醸し出された雰囲気は、薪能のそれとは又一段と変っており、趣の深いものであった。・・

 地頭の金森英祥先生は、内弟子時代から宝生能楽堂でお目にかかっており、馴染みの深い先生である。

 拝見の時間を多くとってなかったとみえ、能も胡蝶の中入頃までしか見られず残念であったが、今回の名所めぐりでは特筆すべきことであった。」



3.如意の渡高岡市伏木古国府「安宅」

 小矢部川の河口、伏木駅近くの川岸に現在でも「如意の渡」があって対岸の六渡寺との間に渡し船が運航されている。

 安宅の関の物語の原典は、「義経記」の如意の渡しで、弁慶が義経を投げとばし打擲したところと云われ、近くに弁慶が義経を打擲している像が建てられている。この間の事情について案内板には次のように記されている。

 「室町時代の軍記物語「義経記」の中に「如意の渡」にて、「義経を弁慶打奉るの事」という挿話がありますが、この「如意の渡」は、かってこのあたりにあったと伝えられています。

 文治三年(1187)奥州へ落ちる義経一行が如意の渡から船で六度寺へすすもうとしましたが、渡守の平権守が義経をさして判官殿(義経のこと)ではないかと怪しみました。

 頼朝に通報されたら一大事と考えた弁慶は「あれは加賀白山よりつれてきた御坊で判官殿とおもわれるのは心外だ」と言ってとっさに疑念をはらすため、扇で義経をさんざん打ちのめしました。このようなやり取りがあって、一行はめでたく如意の渡を渡りました。

 この話は、扇が金剛杖になったり場所も安宅の関になるなど、だんだん変えられて、のちに謡曲「安宅」や、歌舞伎「勧進帳」が創作されました。  平成元年十一月  高岡市観光協会」



4.義経雨晴しの岩・つままの歌碑(車中見学)

                   高岡市雨晴 「義経・弁慶」「藤」 

 富山湾に沿って北上する氷見線の雨晴駅近くの海岸にある巨大な岩。文治三年、義経一行が奥州下りの際、ここを通りかかった時、にわか雨にあい、弁慶が岩を持ち上げて義経に雨宿りをさせたと伝えられる。中は洞窟となり、岩の頂上には義経を祀る雨晴しの義経社がある。

 かって越中国守として伏木に在住した青年歌人大伴家持もこの絶景を多く万葉集におさめている。

   馬並(な)めて いざ打ち行かな 渋谷(しぶたに)の

              清き磯みに 寄する波見に

   立山に 降りおける雪を 常夏に

              見れどもあかず 神からならし


 雨晴しの岩の少し高岡よりの国道沿いにある小さな公園に、つままの碑と呼ばれる大伴家持の歌碑がある。

   磯の上の 都万麻(つまま)を見れば 根を延(は)へて

              年深からし 神さびにけり

 家持がこのあたりを訪ねた時、雨晴し海岸の岩上の盤根を露出した見なれない大樹(現在のタブノキ)に驚き、なによりもまだ耳にしたことのない「都万麻(つまま)」の名に異郷を感じ詠じたものとされる。公園の脇を「藤」の曲中に謡われる「紅葉川」が流れる。

 当初ここで下車見学を予定していたが、国道と鉄道の両方を横断しないと岩に近付けず、多人数では危険なので残念ながら車中見学とし、代わりに二上山万葉ラインを追加することとされた。



5. 二上山万葉ライン(大伴家持像) 高岡市「藤」

 二上山は万葉集にも歌われた山で、現在では万葉ラインなる道路が通じている。万葉ラインの伏木側には越中国府跡といわれる勝興寺や万葉歴史館があり、頂上に向かって万葉植物園、大伴家持像等、越中国守だった家持や彼が編集した万葉集に関連するものが沢山ある。

 これらのうち、今回は頂上近くの大伴家持像を車中から見ていただく時間しかとれないが、平和観音像のある展望台では下車の予定。かって家持も眺めたであろう下界の海山の景色を堪能していただきたい。

   玉くしげ 二上山に鳴く鳥の

           声の恋しき 時は来にけり

               大伴家持(万葉集巻17-3987)



6. 田子浦藤波神社 氷見市下田子「藤」

 この神社は天平18年(746)、大伴家持が越中の国守として赴任した時、従者橘正長が、太刀一振を天照大神の霊代として祀り、剣社と名づけたことに始まると伝えられる古社である。明治18年に現在の社名にかえられた。

 階段横の藤の巨木は老杉にからみついて天にかけ上り、花の季節には紫の花房をいっぱいにつけ、鳥居を飾る様はみごとである。このあたりは「万葉集」に出てくる布勢(ふせ)の水海の入江の一つで、低地に広がった湖水で氷見潟ともいった。現在は干拓されて、十二潟がわずかに残っているだけであるが、昔は岸の藤波が有名で万葉人が好んで遊覧したところである。家持は

    藤波の 影なす海の 底清み 

              しづく石をも 珠とぞわが見る

と詠んでいる。社殿の裏に、こんもりとしたシイの社叢に囲まれて、本居宣長の曾孫、豊頴の筆になるこの歌の歌碑がある。私たちが訪ねる頃、みごとな藤の花が咲いていることを期待しているのだが・・


(参考) 大伴家持の歌碑とその解説

 歌碑はかなり大きなものであるが、和歌は漢字で書かれてありなかなか読めない。幸い傍らに懇切な解説を記した案内板があった。和歌の解説だけでなく、往時のこのあたりの光景が目に浮かぶように描写されているので、参考までに全文を掲げてみる。

 「        大伴家持卿歌碑

 この歌碑は明治三十六年に建立せられたもので、八十数年を経過して風化がひどく、文字がよくよめません。それで旧記によって左にわかりやすく書いてみました。

  正面  大伴家持卿歌碑

          正四位勲三等 巌谷 修謹題

  右面  藤奈美能 影成海之底清美

      之都久石乎毛 玉等曽吾見流

  裏面  此天平年中越中守大伴宿弥家持卿所詠

       明治三十六年八月

          東宮侍講従四位本居豊頴書

 和歌は万葉集の原文に従って漢字(いわゆる万葉仮名)で書いてありますが、現代風に書くと次のようになります。

    藤波の影なす海の底清み 

              しづく石をも珠とぞわが見る

 奈良時代にはこの神社の前の水田地帯はみな湖水で「布勢水海」と呼ばれており、周囲の丘陵には藤が繁茂し、初夏の頃には紫の藤の花が咲き満ちてそれはそれは美しい光景でありました。家持卿は毎年、初夏の頃に布勢水海に舟遊びをし、藤の花をたたえた歌をたくさん詠みました。これもその一つです。(万葉集巻十九、四一九九番)。「藤の花が影をうつしている水海の水が清らかで、底までよく見える。底に沈んでいる石さえも玉のように私には見える」

 その頃の湖の水は澄みきっていてそこへ日光がさしこんで、水底の石が宝石のように輝いていたのでしょう。

 正面の文字を書いた巌谷修(いわやおさむ)は政府の高官であり、かつ書道の大家で、一六と号しました。明治三十八年七月、七十二歳で没しました。童話作家として有名な巌谷小波(いわやさざなみ)は修の三男です。

 右面と裏面の文字を書いた本居豊頴(もとおりとよかい)は有名な国学者本居宣長の曾孫で、国学・国文学に長じ、東宮(後の大正天皇)の先生となり、また東京帝国大学講師となりました。大正二年二月、八十歳で没しました。

 この神社はもと神明社と称したが、家持卿の藤花を詠じた古歌にちなみ明治十八年八月、田子浦藤波神社と改称しました。今も、龍が天に昇るような藤の大木が何本も繁っております。昭和六十二年七月記」

 

 藤波神社から第1日宿泊予定の氷見グランドホテルマイアミに向かう途中、曲中に「英遠(あお)の浜風」と謡われた阿尾の海岸を通過する。海岸から眺める城ケ崎の白い断崖絶壁は、紺碧の海に影を落とし美しい。城ケ崎には阿尾城址があるが、バスが入れず坂も急なため車中見学とした。



7. 氷見グランドホテルマイアミ  氷見市宇波

 氷見市の中心から少し北に離れるが、海岸に面した比較的新しい大きな温泉ホテルである。虚空蔵菩薩と霊夢のお導きにより、掘削した結果湧き出た霊泉とのこと。

 展望大浴場からの眺めも素晴らしいが、すぐ隣りの露天風呂に出ると眺望は一層広くなる。すぐ下は富山湾の海岸で波が打ち寄せており、晴れた日には海を隔てて立山連峰を望むことができる。3千メートル級の山が海越しに見える場所は世界でもこことチリのバルパライソ市だけとか。露天風呂の夜景もまた素晴らしい。星空のもと、海上には漁り火がきらめき、その遥か彼方には対岸富山市あたりの灯火が海岸線に沿って点滅している。

 懇親会場には、沢井茂氏(富山県支部長)のご厚意で、謡曲に関係ある珍しい絵巻等が展示されるのでお見逃しのないように。恒例の謡会では「藤」「安宅」を予定しており、その後は氷見ならではの新鮮な魚料理、「越中おわら節」などの郷土芸能が、この旅を一層印象深いものにしてくれることと思う。



8. 埴生八幡宮(護国八幡宮)小矢部市埴生「願書」

 木曽義仲は平家との合戦に際しこの地に布陣したが、八幡宮の境内と知り吉兆と大いに喜び、部下の覚明に神社に奉納する願書を書かせ、自らは箙から鏑矢を抜いて願書に添え奉納し、戦勝を祈願したという。

 以来弓矢の神として武士の信仰を集め社名が高まった。戦国時代には佐々木成政、武田信玄、豊臣秀吉、前田利家らの信仰があって多くの寄進を受けた。

 江戸時代には加賀藩主前田家の尊崇と保護があり、現在の本殿・釣殿・弊殿・拝殿などいずれも前田家の寄進によるものという。


 「願書(木曽)」は「勧進帳(安宅)」「起請文(正尊)」とともに、三読物として重く扱われているが、宝生流では「木曽」の曲がないため、なかなか「願書」を聞く機会がないようである。改めて謡本を開いてみたが、なかなかの名文に圧倒される思いである。

 「帰命頂礼八幡大菩薩は日域朝廷の本主・・・平相国という者あって四海を掌にし、万民を悩乱せしむ。これ仏法の仇、王法の敵なり・・・此の大功を起す事、喩えば嬰児の櫂を以って巨海をはかり、蟷螂が斧を取って龍車に向う如くなり。然れども君の為、国の為にこれを起すのみなり。伏して希はくは神明納受垂れ給い、勝つ事を究めつつ仇を四方に退け給え・・・」

 神社にはこの願書と称するものと、義仲奉納の鏑矢が保存されているという。また、境内に立派な義仲の銅像が建っている。



9. 倶利伽羅古戦場小矢部市埴生「木曽義仲」「巴」

 義仲が火牛の戦法で平家軍に壊滅的な打撃を与えたという源平合戦の古戦場も、今は倶利伽羅県定公園となっている。林の中にはさまざまな碑や供養塔が建てられ800年の昔を偲ばせてくれる。

 源平古戦場さるが馬場の碑 かなり古い石碑である。

 源平倶利伽羅合戦本陣跡碑 ここに平家の本陣があり、総大将平維盛を中心に薩摩守忠度、上総判官忠綱等の部将が集って敵木曽義仲討伐に備え軍議を開いたという大きな石のテーブルが残されている。

 芭蕉の句碑 俳聖松尾芭蕉もこの地を通ったとのことで

   義仲の 寝覚の山か 月かなし  の句碑が建てられている。

 火牛の像 角に松明をつけた火牛の像がいくつか置かれてあり、その近くに倶利伽羅合戦の地と書かれた大きな扇がある。

 源平盛衰記抜粋碑 大きな石碑に細かい字で倶利伽羅合戦の模様が詳細に刻まれている。少し読みにくいかも知れないが、合戦の有様を彷彿とさせる名文である。参考までにその全文を別に掲げてみた。  

 倶利伽羅源平供養塔 立派な供養塔が建てられており、その傍らに刻まれた建立の趣旨も名文であるが、あまり長くなるので割愛する。

(参考) 

 源平盛衰記抜粋碑全文

「五月十一日の夜半にも成りにけり

 五月の空の癖なれば 朧に照らす月影 夏山の木下暗き細道に 源平互に見え分かず 平家は 夜討もこそあれ 打ち解け寝ねべからずと催しけれども 下疲れたる武者なれば 甲の袖を片敷き 冑の鉢を枕とせり 

 源氏は 追手搦手様々用意したりける中に 樋口次郎兼光は 搦手に廻りたりけるが 三千余騎 其中に太鼓法螺貝千ばかりこそ籠めたりけれ

 木曽は追手に寄せたりけるが 牛四五百匹取集めて 角に松明結付けて 夜の深くるをぞ相待ちける 去程に樋口次郎 林 富樫を打具して 中山を打上り 葎原へ押し寄せたり 根井小弥太二千余騎 今井四郎二千余騎 小室太郎三千余騎 巴女一千余騎 五手が一手に寄合せ 一万余騎 北黒坂 南黒坂引廻し 鬨を作り太鼓を打ち法螺を吹き 木本萱本を打ちはためき 蟇目鏑を射上げて とゞめき懸りたれば 山彦答へて幾千万の勢共覚えざりけるに 木曽 すはや搦手は廻りける

 鬨を合せよとて 四五百頭の牛の角に松明を燃して 平家の陣へ追入れつゝ  胡頽子木原 柳原 上野辺に控へたる軍兵三万余騎鬨の声を合せ をめき叫び黒坂表へ押寄する 

 前後四万余騎が鬨の声 山も崩れ岩もくだくらんと夥し 道は狭し 山は高し 我先々々と進む兵は多し 馬には人 人には馬共に圧しに押されて 矢をはげ弓を引くに及ばす 打物は鞘をはづしかねたり

 追手は搦手に押合せんと攻上る 搦手は追手と一にならんとをめき叫ぶ

 平家は両方の中に取籠められたり 軍は明日ぞあらんずらんと 取延べて思ひける上 如法夜半の事なるに 俄かに鬨を造り懸けたれば こは如何せんと東西を失ひ周章て騒ぎ 弓取る者は矢をとらず 矢をば負へども弓を忘れ 甲を著て冑をきず 太刀一には二人三人取付き 弓一張には四五人つかみ付けり

 馬には逆に乗って後へあがかせ 或は長刀を逆に突いて 自ら足を突切って立ちあがらざる者も有りければ 踏殺され 蹴殺さるる類多し 

 主の馬を取ては主を忘れ 親の物具を著ては親を顧みず 唯我先々々にと諍へども 西は搦手なり 東は追手なり 北は岩石高くして 上るべき様なし 南は深き谷なり 下すべき便なし 

 闇さはくらし 案内は知らず 如何すべきかと方角を失へり 

 此山は 左右は極めて悪所なり 後は加賀 御方なり

 三方は心安く思ひつるに 後陣より敵のよせける怪しさよと思ひければ 只云事とては 打破って 加賀国へ引けや者共々々と呼りけれ共 搦手雲霞の如くなり 追手上が上に攻重りければ 先陣 後陣に押しあまされて 道より南の谷へ下る

 爰に不思議ぞ有りける 白装束したる人三十騎ばかり南黒坂の谷へ向って

 落せ殿原 あやまちすなあやまちすなとて 深谷へこそ打入れけれ

 平家是を見て 五百余騎連いて落したりければ 後陣の大勢是を見て 落足がよければこそ先陣も引返さざるらめとて 劣らじ劣らじと 父落せば子も落す 主落せば郎等も落とす 馬には人 人には馬 上が上に馳せ重なって 平家一万八千余騎 十余丈の倶利伽羅が谷をぞ馳埋みける 適々谷を遁るゝ者は兵杖を免れず 兵杖を遁るゝ者は皆深谷へこそ落入りけれ

 前に落す者は今落す者に踏殺され 今落す者は後に落す者に押殺さる 斯様にしては死にけれども 大勢の傾き立ちぬる習にて 敵と組んで死なんと云ふ者は一人もなし 

 去程に夜明け日出づる程に成りにけり

 三河守知度は 赤地錦の直垂に紫すそごの甲に黒鹿毛なる馬に乗って 西の山の麓を北に向って 五十余騎を相具して 声をあげ鞭を打って敵の中へ駈け入りければ右兵衛佐為盛 魚綾の直垂に萌黄匂の甲に 連銭葦毛の馬に乗って 同じく連いてかけ入りけり

 此両人 共に容貌優美なりける上 甲の毛 直垂の色日の光に映じて かがやくばかりに見えければ 義仲是を見て 今度の大将軍と覚えたり 余すな者共とて 紺地の錦の直垂に 黒糸縅縅の甲に 黒き馬にぞ乗ったりける 眉の毛逆に上って目の尻悉くにさけたり 其体等倫に異なり 二百余騎を卒して 北の山の上より落し合せて 押囲み取籠めて戦ひけり

 知度朝臣は馬を射させて はねければ下立ちたりけるを 岡田冠者親義落合せたり 知度太刀を抜いて冑の鉢を打ちたりければ 冑ぬけて落にけり 二の太刀に頚を打落してけり 同太郎重義 続いて落重なる 知度朝臣の随兵二十余騎 おり重って彼を討せじと中にへだゝらんとす 親義が郎党三十余騎 重義を助けんとて落合ひつゝ互に戦ひけり 

 太刀の打違へる音耳を驚かし 火の出づる事電光に似たり 

 爰にてぞ 源平両氏の兵数を尽して討たれにけり 」



10. 石川県立能楽堂    金沢市石引

 加賀宝生の本拠、豪華な能舞台がある。ここでゆっくり謡えたらと思うのだが、舞台を拝観するだけの時間しかとれないのは残念である。

 兼六園の周囲にはこの能楽堂のほかにも、本多収蔵館、成巽閣、県立美術館等ゆっくり見学したい施設が沢山あるのだが、2泊3日の日程にしばられ、この能楽堂と兼六園を金沢代表にさせていただいた。



11. 兼六園(日本武尊像)金沢市  「小鍛治」「草薙」

 兼六園は水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本3名園の一つである。5代藩主綱紀(つなのり)が現在の瓢(ひさご)池付近に蓮池亭を作り、その庭を蓮池庭と名付けたのが庭園としての始まりである。その後、文政5年(1822)12代藩主斉広(なりなが)が千歳台に竹沢御殿をつくり、ほぼ現在に近い形に整えた。「宏大・幽すい・人力・蒼古・水泉・眺望」の六勝を兼ね備えていることから「兼六園」と名づけられたという。みどころは、霞ケ池、瓢池、翠滝、ことじ灯篭、雁行橋、夕顔亭など・・・


 謡蹟としては日本武尊の大きな像(案内図には「明治記念之碑」と記してある。)がある。銅像の高さ5.5メートル、台座の高さ6.5メートル、明治13年の建立で、西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祭った記念碑と記されている。



12. 白山比盗_社(荒御前神社) 石川県鶴来町

        「日本神話」「義仲・頼朝・義経」「歌占」

 霊峰白山を御神体とし、白山比淘蜷_、伊弉冊、伊弉冉尊を御祭神とする神社で、全国に三千有余もある白山神社の総本宮である。白山本宮・加賀一の宮として栄え、「白山さん」と呼ばれて親しまれている。白山の頂上に奥宮がある。創立は崇神天皇の時代と伝えられる古社で、神木の深い緑に囲まれた境内に重厚な本殿が建っている。

 御祭神伊弉冊、伊弉冉尊は謡曲にもたびたび登場してくる。(「鉄輪」「小鍛治」ほか)

 また当社宝物館内に所蔵されている年表によると

・ 寿永2年木曽義仲、倶利伽羅戦勝により神馬奉納(平家物語)

・ 寿永2年源頼朝、神領寄進(平家物語)

・ 文治2年義経、参拝(義経記)

とあり、源氏ゆかりの神社で、義経もこの神社に参り、奥州へ下った模様である。興味を覚え義経記を調べてみると、このあたりの地名が沢山出ており、如意の渡しに向かっている。参考までに抜粋を掲げてみる。

 また、この神社の境内末社「荒御前(あらみさき)神社」も謡曲「歌占」に関係があるようである。本曲のツレは加賀の国、白山の麓に住まいする者であり、シテは事情あってこの近くの住吉神社の傍らに住歌占いをしていた。住吉神社は和歌の神様なので、歌占いと若干関係があったかも知れないが、今は白山比め神社の境内末社、荒御前神社に合祀されているというのである。


(参考) 義経奥州下り、北陸路の足跡(義経記抜粋)

 「判官その日篠原に泊り給いけり。明けければ斉藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれける、あいの池を見て、安宅の渡を越えて、根上(ねあがり)の松に着き給う。これは白山の権現に、法施を手向くる所なり。いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜あり。明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み奉らせて、その日は剣の権現の御前に参り給いて、御通夜ありて、終夜御神楽参らせて、明くれば林六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀国富樫と云う所も近くなり。・・(弁慶が一人富樫の館を訪ねて勧進を受ける記述あり)・・(弁慶)馬に乗せられて宮越まで送られけり。行きて判官を尋ね奉れども見え給はず。それより大野の湊にて参り逢ひけり。・・其日は竹橋に泊り給ひて、明くれば倶利伽羅山を越えて、馳籠が谷を見給ひて、是は平家の多くの亡びし所にてあるなるにとて、各々阿弥陀経を読み、念仏申し、かの亡魂を弔ひてぞ通られける。兎角し給ふ程に、夕日西にかかりて、黄昏時にもなりぬれば、松永の八幡の御前にして夜を明し給ひけり。

    六 如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事

 夜も明けければ、如意の城を舟に召して、渡をせんとし給ふに、渡守をば平権守とぞ申しける。・・」と如意の渡の物語へと続く。

  

 この神社から国道157号線を車で南へ5分ほど走った所に「歌占の滝」があるので、時間が許せば車中からでも眺めたいものと思っている。 滝は国道から100メートルほど入った山裾に見えるがそれほど大きな滝ではない。

 往時このあたりを歌占の里と云ったとのこと。この滝の上に前述の住吉神社があり、そこに歌で占う神官がいてこの滝の所に出ては歌占いをしていたという。

 滝の近くには「歌占」と刻んだ大きな碑が建っている。歌占碑由来には次のように記されている。

 「能楽歌占は流離の父子が再会する目出度い曲である。即ち男巫の小弓につけた短冊を、訪ねる父とは知らず子が引いて、「うぐひすのかいこの中のほととぎす云々」と図らずも父子の名告りをあげる。次いでこの邂逅を祝って、男巫が地獄めぐりの曲舞を深刻痛烈に舞い納めて結ぶ。時はこれ懶き晩春初夏の候、処はまさに神徳灼かな霊峰白山の麓、神秘の世界である。会々白山比め神社二千五十年祭に当って畠山一清翁が上演奉納せられるに及び、年久しく埋もれし因りの滝を江湖に顕揚せられしを記念して、ここに鶴来町が建碑されたものである。

     昭和三十七年十月  芥 唯雄 稿      」



13. 那 谷 寺小松市那谷

 那谷寺は白山信仰の寺で、養老元年(717)越の大徳泰澄神融禅師によって開創された。

 禅師は夢に見た十一面千手観音菩薩のお姿を自ら造り、洞窟内に安置し白山開拓の鎮守神とした。そしてこの地にお堂を建て自生山岩屋寺と名づけた。

 その後、寛和2年(986)に西国三十三番札所を開かれた花山法皇がこの地に御幸なされし折、「これ全く観音妙智力の示現なり、朕が求むる三十三ケ所は全てこの山にあり」と申し、西国三十三ケ所第一番紀伊の那智山と、第三十三番美濃の谷汲山の各一字をとって那谷寺と改め、七堂伽藍を御造営なされ、自らこの地に居を構えられた。

 往時は寺院250ケ坊に及ぶ隆盛を極めたが、延元3年(1338)南北朝の争い、文明6年(1474)一向一揆により坊舎が焼きつくされた。

 しかし寛永年間、加賀藩主前田利常公がその荒廃を嘆き、後水尾天皇の勅命を仰ぎ、岩巌内本殿、拝殿、唐門、三十塔、護摩堂、鐘楼、書院等を再建、境内の一大庭園を復興されて今日の祈願所とした。

 6万坪といわれる広い境内は、松・杉・かえでなどが空を覆い、凝灰岩の風化が生み出した奇岩や岩窟が訪ねた人の目を楽しませる。



14. よしのや依緑園山中温泉「能舞台」

 山中温泉はおよそ1、200年前、僧行基によって発見されたという。依緑園の名は明治18年、書家日下部鳴鶴先生が滞在中、自然と調和した美しい庭園に魅せられ「依緑園」と命名された由。

 一日600石と云われる豊富な温泉に入れば、湯けむりのなか窓からは鶴仙峡の名勝が一望のもとに見渡すことができ、耳を澄ませると「ハアーアーアーアー 忘れしゃんすな 山中道を・・」の山中節のメロデーが流れてくる。まさに俗塵を離れて仙境に遊ぶ心地である。

 さらに嬉しいことはこの旅館には本格的な能舞台があり、ここで私たちも、この地ゆかりの「巴」「実盛」を謡えることである。長生殿能舞台と名付けられたこの舞台は橋懸りまでついた立派なもので、年に何回か職分の先生による能が定期的に上演されている由。立派な舞台で謡った思い出を残すためにも、どうぞ白足袋ご持参をお忘れなく。

 舞台の前は大広間になっているので、懇親会を兼ねながら舞台を楽しむことが出来る。



15. 尼御前岬(尼御前像) 加賀市美岬町  「義経・弁慶」 

 義経一行に従った尼が足手まといとなることを心配して投身したところという。

 日本海の絶壁が足下に迫る岬にはみごとな松林が連なり、現在は公園として立派に整備されていて、このような悲話など信じられない美しい景色である。

 今まで岬の名前で往時を偲ぶしかなかったが、昨年11月、最近松林の中に「尼御前像」が建てられた。法衣に身をまとい、笠と杖を持った若い尼さんの像である。像の下には次のような説明が記されている。

 「 尼御前像  尼御前には、次のような伝説があります。

 その昔、源義経主従が都から逃れて陸奥の国へ向かう途中、この地まで来ましたが、従者の中にいた一人の尼が、この先の(歌舞伎「勧進帳」で有名な)安宅の関の取り締まりが厳しいことを聞き及び、主君の足手まといになることを憂えて深く意を決し、主君の無事を祈ってこの岩頭から身を投じました。

 この尼の名が尼御前といい、それ以来いつしかこの岬を尼御前岬と呼ぶようになったということです。   平成九年十一月吉日   」



16. 実盛首洗池 加賀市篠原「実盛」

 曲中「気はれては風新柳の髪を梳り、氷消えては波旧苔の髭を洗ひて見れば、墨は流れておちてもとの白髪となりにけり」とある実盛の首を洗った所、「実盛」の舞台である。

 池の中央の小さな島には「首洗池」と書かれた碑が立っており、その後方は小高い丘となっている。丘の上には実盛の兜を祀るという「兜の宮」があり、池の周囲には「篠原古戦場跡」の碑や、芭蕉の

     むざんやな 兜の下の きりぎりす

の句碑も立てられている。

 また、かなり以前に訪ねた時は気がつかなかったが、「三人の武者の像」が建てられている。説明は見当たらないが、実盛の首を抱いているのは義仲、他の二人は実盛を討った手塚太郎光盛と曲中にも出てくる樋口次郎兼光ではなかろうか。義仲にとって、実盛は単なる敵ではなく命の恩人である。実盛の首を手に持つ義仲の心中はいかばかりであったことか。参考までに義仲と実盛の関係を出来るだけ簡潔にまとめてみた。

 池の傍らの休憩所内部の周囲には、義仲挙兵から倶利伽羅合戦を経て、ここ篠原合戦に至るまでの有様を絵巻風にして8個の額に納め掲げてある。


(参考) 木曽義仲と実盛

 結果的に実盛は木曽義仲に討たれてしまったが、義仲にとっては実盛は命の恩人であった。不思議な因縁に結ばれた二人の足跡の概略をたどってみよう。(奈良原春作著「斉藤別当実盛伝」、田屋久男著「木曽義仲」ほかより)

○ 生国越前から武蔵の長井へ

 実盛は大治元年(1126)、越前国南井郷で名門藤原氏の流れをくむ河合斉藤家に生まれた。13歳の時、無法にも切りかかってきた役人の家臣を殺害してしまった。父は武蔵国長井庄の管理者となっていた従兄弟長井斉藤実直のところへ養子に出した。

 実盛16歳の時、父実直が急死、長井庄の責任者となるが新田開発に力を入れ平穏な日を送る。この地方は源氏の勢力の下にあり、実盛も源為義に召集され約1年を京都で過ごす。実盛28歳の頃には源家も義朝の時代となり、実盛も義朝に仕えていた。

○ 源義朝、長子義平をして弟の義賢を討たせる

 源の為義の二男義賢は武蔵の国にあって大蔵に館を構え近隣を傘下に収めていた。源氏の嫡流義朝にとっては大蔵館の存在が目ざわりで、鎌倉にいた長子義平に弟義賢を討つべしとの密命を下した。

 義平は叔父義賢の首をとったが、その子駒王(後の義仲、当時2歳)を討ち洩らしたので、畠山重能(重忠の父)に駒王を草の根をわけても探しだし即刻首をはねるよう命じた。

○ 畠山重能の情義

 重能は駒王とその母小枝御前を探し出したが、斬るに忍びず、頼り甲斐のある長井の斉藤別当実盛にすがろうと心に決める。

○ 誠意侠骨の実盛

 重能の頼みを受けてしばらく駒王親子を匿ったが、自身源家に仕える身、長く匿いとおす自信はなく、昵懇にしている信濃権守中原兼遠に託すこととする。時に実盛30歳。

○ 中原兼遠の度量

 駒王は木曽の中原兼遠の庇護のもとにあって、兼遠の子の次郎兼光、四郎兼平、自分より三つ下の巴たちを相手に弓馬の道にいそしんだ。やがて13歳で元服し名を木曽次郎義仲と改め、やがて旗揚げをする。兼平、巴ともに謡曲にもその名を残している。

○ 実盛、保元の乱で、源義朝に従う

 戦功により義朝から兜を賜る。

○ 平治の乱で敗れ、実盛長井に戻る。

○ 平宗盛の懇請により平家の家人となる。

 長井の庄は清盛の二男平宗盛の所領となった。宗盛に懇請され、実盛も「代々源氏に所属していた家柄ではあったが、武者発祥の根元が自分の土地を護るためのものであり、そのために武者というものは戦場にあって勇ましく「一所懸命」の働きをするのである。従って源氏であれ、平家であれ、自分の所領を安堵してくれさえすればそれでよい。」と考え平家の家人となった。

○ 義仲元服に拝領の兜を贈る

 実盛は義仲元服のことを知らされ出席を要請されるが、平家の家人となった以上出席は出来ないとし、引き出物として義朝から拝領した兜を贈った。

 かくしてこの兜は元服した義仲の手に渡り、実盛の戦死の後、義仲が八幡宮へ奉納したのである。これが小松市の多太神社の宝物となっている兜である。

○ 義仲挙兵

○ 倶利伽羅合戦

○ 篠原合戦



17. 実 盛 塚  加賀市篠原「実盛」

 首洗池から北方1キロばかりの地に建つ。みごとな老松が生い茂る。寿永2年6月、源氏の若武者手塚の太郎光盛と戦って劇的な最後を遂げた斉藤別当実盛を葬った墓所である。

 康応2年(1390)時宗総本山(相模藤沢の清浄光寺)十四世遊行上人太空がこの地は来錫の節、実盛の亡霊が現われ、上人の囘向を受けて妄執をはらし上人は実盛に「真阿」という法名を與えられたと伝えている。以来、歴代の遊行上人が加賀路を巡錫の節には必ず立ち寄ってこの塚に囘向されたという。



18. 安宅関址小松市安宅「安宅」

 本曲の舞台の中心である。安宅住吉神社近くの松林の中に石碑だけが残るが傍らのあずまやが趣を添えている。この関址で一同で「勧進帳」を奉謡する予定。弁慶に負けない立派な勧進帳を謡いたいものである。

 安宅の関も、観光客誘致のためか最近新しい碑や像、施設が多くなっているようで俗化の感を否めないが、気のついたものを次に掲げる。

 関の宮・・義経と弁慶と富樫を祀る。

 弁慶と富樫の勧進帳の銅像・・歌舞伎で有名な七代目松本幸四郎、二代目市川左団次をモデルにしたという。

 智仁勇の碑・・智は弁慶の智恵、仁は富樫の情、勇は義経の勇気の由。

 弁慶勧進帳の銅像・・安宅住吉神社前

 山伏姿の義経像・・最近追加されたようである。



19. 多太神社小松市上本折町「実盛」

 実盛の戦死後、義仲はこの神社に詣で、平家追討一族隆昌を祈願すると同時に、実盛が篠原の合戦で着用していた甲冑などを奉納したという。実盛の兜と鎧大袖その他が国宝として所蔵されている由、拝観する予定である。


(参考)

その他の謡蹟


 北陸路謡曲名所めぐりのコースを決めるにあたって、時間の関係、交通事情の関係などで割愛した所がかなりありますので、参考までに、今回のコース近辺の主な謡蹟を掲げてみます。機会を見つけてぜひお出かけ下さい。


 謡蹟名            場所      関連曲目

富山県

 桜井の碑           黒部市     鉢 木

 立  山           立山町     善知鳥

 放生津八幡宮         新湊市     藤

 万葉歴史館          高岡市

 越中国府址          高岡市     藤

 巴塚・葵塚          小矢部市    巴・木曽義仲

石川県

 菅原神社(梅田の里の碑)   金沢市     鉢 木

 猿丸神社           金沢市     草紙洗

 鳴和の滝(鹿島神社・小坂神社)金沢市     安 宅

 富樫邸址           野々市町    安 宅

 仏のお産石          吉野谷村    祇 王

 仏御前屋敷址         小松市     祇 王


                     (高橋 春雄記)

(参加者名簿 88名分 省略)

ガイドブック 北陸路の旅 平成10年度
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