金札宮

謡蹟めぐり  金札 きんさつ

ストーリー

平安京を完成した桓武天皇が、伏見にも神社を造ろうと勅使を送ります。伏見に着いた勅使は、参詣している一人の老翁に目を止めます。老翁は伊勢の国阿漕が浦の者だと告げて、王法を尊び、造営にちなんで木尽しの歌を謡います。その時、不思議なことに天から金札が降り、勅使がこれを取って読むと伏見に住むと誓う言葉があります。老翁は、伏見とは日本の総名であると教え、そのいわれなどを説いた後、金札を取ってかき消えますが天に声が残り、我は伊勢大神宮の使いの天津太玉神であると告げます。そこへ里の男が現れ、本社と並べて金札の宮を作れば必ず天下泰平の御守りがあるであろうと勧めます。
やがて楽の音に誘われて天津太玉神が現れて、弓矢で武徳を表わし日本国を寿いで神威を示し、君を守り国を治める印の金札を宮に納めて再び姿を消します。(「宝生の能」平成11年3月号より)

金札宮   (平14・2記)

金札宮は京都市伏見区鷹匠町にある。本曲のシテ天津太玉命、天照大神その他を祀る神社で、昔は規模が大きかったというが現在はささやかな神社である。境内には謡曲史蹟保存会の駒札も立てられ、本曲の舞台であることを示している。  神社でこの金札宮の由来を入手したので紹介する。

「             金札宮由来
御鎮座および沿革
天平勝宝二年(750年)長さ2丈におよぶ流れ星が降るという異変があり、孝謙天皇が深く憂慮されていた時、伏見の久米の里に翁がいて白菊を植えて楽しんでいる所業が、いかにも奇妙なので、里人が名前を問うたところ、「吾は、太玉命で天下の豊秋を喜び、年久しく秋ごとに白菊を愛でて来たり、もし干天で稲が枯れる時には白菊の露を灌がむ。」と、手に持った白菊を打ち振るうと、たちまちにして、清水が湧き出てきて尽きることがない。そして言われるには、
「 人々 一度この白菊に霑えば、たちどころに福運がきて、家運は長く隆盛し、子孫繁栄し、火災の禍から除かれるであろう。 」
里人はこの奇瑞に驚き天皇に奏上したところ天皇はことのほか喜ばれ(金札白菊大明神)の宸翰を里人に与えられたので、里人は力を合わせて社殿を造営したと記録されている。
伏見(高天原より臥して見たる日本のこと)に宮居建設中、突然金の札が降り、札には永く伏見に住んで国土を守らん、という誓が書いてあった。何事かと人々が集まってくるうちに、虚空から声がして、
「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命なり、我を拝まんとすれば、なお瑞垣を作るべし」と、聞こえたという話になっている。

三柱の祭神

天太玉命(白菊大明神) (あめのふとだまのみこと)
天照大神が天の岩戸に幽居された時、天太玉命は天児屋根命、手置帆負命の諸神等を卒い、大幣を捧持して祈祷し、大神を和し奉る功績がある。御名を太玉といいうのは、太玉串(大幣)の省かれたるによる。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)
伊邪那岐神、築紫の日向の橘の小門の阿波犠岐原に禊をし給いて左の御目を洗い給ひし時になりませり、と古事記にあり。日本書紀には、伊邪那岐神、伊邪那美神、二神が力を合わせ大八洲國を経営し給いて、山川草木の霊を生み給うや、相謀りて如何にぞ天下の主を生まざらめやとして大御神を生み給うとある。大御神は我が國家皇室の御祖神で永く伊勢に斎き祀られ給ふ。

蔵稲魂命(うがのみたまのみこと)
食物を主宰する神である。日本書紀には、伊邪那岐神、伊邪那美神二尊の御子とあり、古事記には須佐之男命の御子と伝えられている。天太玉命の命により五穀の種を、伏見の里に蒔き、耕業を盛んにならしめた神徳から金札宮の本殿に祀られる。    」

金札宮 金札宮 京都市伏見区鷹匠町 (平12.8) 本曲の舞台、シテ天太玉命、天照大御神ほかを祀る


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