小柴垣

謡蹟めぐり  野宮 ののみや

ストーリー

旅の僧が京都嵯峨野の野宮の旧蹟を訪れます。黒木の鳥居、小柴垣の寂しく立っている傍らで昔ながらの四方の景色を眺めていると、忽然として若い女が現れ、この野宮は昔、六条御息所が伊勢の斎宮となった息女とともに籠った所だと話して聞かせます。
御息所は桐壺帝の御弟、前の東宮妃としてときめいた女性でしたが、夫に死別し、その後一人で余りに悲しい御息所の許へ光源氏がしきりに通うようになりましたが、次第にそれさえも途絶えになって光源氏からも見捨てられ、昔に変わる寂しい身の上となり、涙ながらに伊勢へ赴いたのだといいます。そう物語った女は、実は自分がその御息所なのだと名のって消え失せます。
夜になると、御息所の霊が昔の姿で現れ、賀茂の祭り見物の折に車を据える場所を光源氏の正妻の葵上と争って恥辱を受けた思い出などを物語り、懐旧の思いにひたりながら舞を舞います。
※ 昔は天皇御即位の度毎に、未婚の内親王又は女王を伊勢大神宮に奉侍せしめ給う例があり、これを斎宮といいました。その潔斎のために斎宮が一時籠った仮の宮が即ち野宮です。(「宝生の能」平成12年8/9月号より)

野宮神社と嵯峨野  京都市右京区嵯峨   (平19・3記)

手許の野宮神社の写真が3枚残っている。昭和49年、平成3年、平成10年のものである。同じ黒木の門を写したものであるが、よく見るとそれぞれに形が少しづつ異なっている。写した当時の記録を調べてみた。

最初の時の写真には黒木の鳥居も原始的な形でくぬぎの木が使われていた。その後20年近くを経過して平成3年に訪ねた時には、くぬぎの木の鳥居ではなくなっていた。 説明板によれば、3年ごとに建て替えをしてきたが、近年鳥居に適するくぬぎが入手困難となり、昭和54年に永久的な鳥居とした由である。
さらに7年を経て平成10年に訪ねた時の写真を見ると鳥居の上に覆いがかけられているようである。説明をよく読むと、神社としてはなんとか昔の面影を残したいと考えていたところ、幸いにも香川県高松市の日本興業株式会社より自然木の鳥居の寄進をうけ建立したとのこと。この「くぬぎ」は会社が徳島県剣山(1955米)の山麓より切り出し防腐加工を施し、奉製されたもので、鳥居の両袖の小柴垣も「くろもじ」を用い、源氏物語を始め、謡曲、和歌、俳句などにも表れされた黒木の鳥居と小柴垣を遺風を残したものであるという。

境内には「斎宮旧趾」の碑がある。斎宮とは昔天皇の即位の度に選ばれた伊勢大神宮に仕える未婚の内親王または王女のことで、出発に先立ち宮中の初斎院で潔斎し、さらにこの野宮で一年潔斎したといい、潔斎するために籠った所も斎宮と呼んだ。
本曲のシテ六条御息所は息女が斎宮に立ったので、ともにこの野宮に籠っている。御息所もこの碑の立っているあたりに住んでいろいろと物思いにふけったことであろう。桐壺帝の御弟、前の東宮の妃として世に栄えたこと・・・契りも深かったが間もなく死別したこと・・・その後、光源氏がしきりに通ってきたこと・・・源氏の心がどう変ったものか、また絶え絶えになってしまったこと・・・それでも源氏は思い捨てずにこの遠い野宮までの訪ねてくれたこと・・・葵上との車争いのこと・・・

これらの万感の思いを秘めてシテは後半で舞を舞う。能の舞台はいつしか野宮境内に敷きつめられた緑の苔とかわっている。月の影がさびしく森の下露を照らし、自分と一緒に昔を偲んでくれる。思う人が露を打ち払って訪ねてきてくれたような気もするが・・・やはり夢であったのか・・・松虫の音がりんりんと聞こえて、風は茫々として黒木の鳥居、小柴垣を吹き渡る・・・

碑のそばに立って、自分勝手に想像をめぐらし、余韻を楽しんで境内を辞した。

野宮神社1 野宮神社 黒木の鳥居 (昭49.6)

野宮神社2 野宮神社 黒木の鳥居 (平3.4)

野宮神社3 野宮神社 黒木の鳥居 (平10.3)

小柴垣 小柴垣 野宮神社付近 (平3.4)

野宮境内 野宮神社境内 苔の庭と斎宮址の碑(左端) (平3.4)


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