山頂波の池

謡蹟めぐり  俊寛2 佐用姫伝説とその謡蹟

佐用姫伝説とその謡蹟    (平15・3記)

領布振(ひれふり)山(鏡山)と佐用姫伝説   佐賀県唐津市

曲中に「松浦佐用姫も我が身にはよもまさじと・・」と別れを悲しんで声も惜しまず泣く場面がある。佐賀県唐津市の鏡山がその舞台で展望台からの眺望は素晴らしい。眼下に虹の松原が連なり、その向こうに玄界灘が拡がる絶景である。

鏡山よりの眺望 鏡山展望台からの眺望 唐津市鏡山 (平11.11)

鏡山に立てられた案内板によってその伝説を紹介することとする。

「  <伝説>  松浦佐用姫  鏡山神社の栞による
古今東西の人々に紅涙を出させる松浦佐用姫物語発祥の地は鏡山である。
宣化天皇2年(537年)朝鮮半島で新羅が任那を侵略したので、時の帝の命により大連大伴金持盤狭手彦兄弟を援助に向わせた。狭手彦はこの松浦の地篠原村(現在の厳木町)の長者の家に滞在して軍船の準備・風待ちをしていた。そして何時とはなしに絶世の美女と呼ばれた長者の娘佐用姫と恋仲となった。
やがて出陣の時となり、狭手彦は断ちがたい佐用姫への思いを残して出帆した。姫は去り行く船影を求め鏡山に登り、領布を振り見送った。別れの辛さに姫の溢れ流れた涙は水溜まりとなり、後の山頂の池となったと云う。
別れの悲しみに狂乱した姫は山を飛び降り松浦川の岩瀬に足跡を残し(佐用姫岩)、狭手彦を追って呼子加部島へと走った。
しかし、船影はすでになく、姫は天童山で「七日七晩」泣き続け遂に石になった。後世土地の人は姫を哀れ偲び望夫石と名付けた。(望夫石 田島神社境内現存) 」

佐用姫が領巾を振って別れを惜しんだ鏡山には、鏡山神社があるが、狭手彦が残した形見の鏡を御神体として祀ったのがその起源とも言い、別の説では神功皇后が新羅出兵に当って戦勝を祈念して鏡をこの山に納めたので鏡山の名が起り、鏡山神社に祀り、後に佐用姫も合祀されたともいう。
山頂には大きな「鏡山」の碑が建っており、また多くの歌碑も建っている。佐用姫を詠ったものに山上憶良のものがあり、西展望所にあるものは
   「行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫」
と書かれており、神社境内入口にあるものは漢字で書かれているが
   「まつら潟 佐用姫の子が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつおらむ」
と読むのだそうである。
また山頂の池は別れの辛さに姫の目は涙で溢れ、流れる涙が溜まって池になったという。

鏡山神社 鏡山神社 唐津市鏡山 (平4.5) 「玄海国定公園 鏡山」の碑 鏡山 (平11.11)

鏡山碑 「玄海国定公園 鏡山」の碑 鏡山 (平11.11)

山上憶良の歌碑1 山上憶良の歌碑1 鏡山 (平11.11) 行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫

山上憶良歌碑2 山上憶良の歌碑2 鏡山 (平11.11) まつら潟 佐用姫の子が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつおらむ

山頂波の池 山頂の池 鏡山 (平11.11) 姫の涙が溢れ流れ溜まって池になったという

別れの悲しみに狂乱した姫は山から3キロも離れた佐用姫岩に飛び降り、ここに足跡を残して、松浦川を下って泳ぎ、海の彼方20キロも離れた呼子港を過ぎ加部島まで船を追いかけた。ここで力尽き島の南西部に上がった後天童山で七日七晩泣き続け遂に田島神社の社頭で巨大な石に化した。天童山の頂上には佐用姫の像が立てられている由である。田島神社の境内には佐用姫を祀る佐用姫神社があり、その社の下に望夫石と名付けられた石が埋められている。

佐用姫岩 佐用姫岩 唐津市 (平11.11) 狂乱した姫は鏡山からここまで飛び降りた

田島神社 田島神社 佐賀県呼子町 (平11.11) 姫はここまで追いかけてきて石となった

佐用姫神社 佐用姫神社 田島神社境内 (平11.11) 望夫石はこの神社の下に埋められている

やがて帰国した狭手彦は姫の死を知り、菩提のため持参した黄金の観世音像を鏡山山麓赤水に安置した。
年移りこの御仏はこの土地の名刹恵日寺に移され、秘仏として祀られている。

赤水観音 赤水観音 唐津市 (平11.11)

恵日寺 恵日寺 唐津市 (平11.11)


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