素戔嗚尊が出雲の国へ下って四方の景色を眺めていると、ある粗末な家の中から激しく泣く声が聞えてきます。
不審に思って訪れると、一人の娘を中に老夫婦がいたく悲しんでいる様子なので訳を問うと、我らは手摩乳(たなづち)・足摩乳(あしなづち)という夫婦で、この娘は我が子の櫛稲田姫であるが、簸の川上に住む八岐大蛇に毎年娘を呑まれ、今また八人目のこの娘が狙われているのだと答えます。
尊はこれを聞き、その大蛇は自分が退治しよう、ついてはその娘を我が妻にすると言い、稲田姫を連れて簸の川上に急ぎます。尊は姫を岸に一人置き、波間に浮く酒舟にその影を映すようにすると、大蛇の来るのを待ちます。やがて大蛇が現れ、姫の姿が酒舟に映っているのを見て、真の姫と思い酒を飲み干して、遂に酔い臥してしまいます。尊はこの時、神剱を抜き放ちて大蛇を斬り伏せ、その尾にあった剱を取り出して叢雲の剱と名付けました。(「宝生の能」平成11年8・9月号より)
この神話に似たような神話は日本の周辺、例えばアイヌ、朝鮮、モンゴル、中国、カンボジア、ボルネオ等にもあるとのこと。共通する要素は「若い女性が蛇や竜によって食われる」ことと、「一人の男子の主人公が、蛇や竜を退治して女性を救い、彼女と結婚する」こと。さらに「主人公が怪物を退治するときは、武器として金属の利器を用いることが多いこと」だそうである(井上光貞「日本の歴史」)。
武器として金属の利器を用いたということは、出雲神話の場合にも適合する。八俣の大蛇が住んでいたという島根県横田町の船通山の山麓一帯は古くから良質の砂鉄の産地であり「たたら製鉄」の炎の燃える「たたらの里」としても知られるし、近くの斐川町にある「荒神谷遺跡」からは昭和59年夏、整然と並べられた銅剣358本、翌年にはそのすぐ近くから銅鐸6個、鉾16本が見つかったというから、古代から金属の武器を使用していたことは充分想像される。
このあたりを流れる斐伊川は、昔からしばしば氾濫する暴れ川だったようで、「頭が八つ、尾が八つ、背中に杉や檜、苔が生い茂り、腹は血にただれた」八俣の大蛇は、砂鉄で真っ赤になった斐伊川の濁流が村々を襲った洪水、そして素戔嗚尊は、この暴れ川の治水に立ち上がった指導者と考えてもよいのではなかろうか。
荒神谷遺跡 島根県斐川町 (平9.9) 銅剣、銅鐸等が沢山発見された
しかし、別の説もある。
素戔嗚尊が一人で、短時間でそれを成し遂げるのは至難の業である。
「 中国山系は砂鉄を産出するが、とくに山陰側に良い砂鉄が採れた。斐伊川上流には製鉄を生業とするオロチ族、あるいは高志族という部族がいて、彼らは砂鉄を採るために山を削り、かんな流しをする。また、たたらをするために山の木々を切って炭を作った。やがて台風のシーズンが来ます。そうすると、削られ、木を切られたことも要因の一つになって斐伊川が荒れる。そこで、彼らは、川の中州に座敷を設け、川の神である龍神が好む酒を供え、いけにえの娘を捧げることによって神をなだめる儀式をした 」
というものである。
古代には、水源である山に神が住み、春とともに村々に下ってくるという信仰があった。その神が荒々しい神である場合、村人は人身御供(ひとみごくう)をすることによって稲田の実りを祈ったという。
「 素戔嗚尊は、彼らが祭祀するこの風習をやめさせようとした神様でしょう。オロチ族は頑固に抵抗するが、最後には製鉄の技術を素戔嗚尊に譲って降参した。これが大蛇退治の伝承だと考えています 」
歴史家は大蛇退治に様々な解釈を与えている。「斐伊川の氾濫による大災害」、「砂鉄を巡る部族の利権争い」「鉄を略奪するために侵略してきた高志(北陸)の軍隊などなど。(JTBキャンブックス「古事記・日本書紀を歩く」)
八俣の大蛇の住んだ所は島根・鳥取県境の船通山とも、島根県木次町の天が渕とも言われ、櫛稲田姫の生まれた所は船通山に近い横田町の稲田神社と言うが、出雲市からもだいぶ離れているので私はまだ訪ねていない。
平成9年9月松江市で宝生流教授嘱託会の西日本大会があった時、開催日の前に3日ほど出雲市から松江にかけて謡蹟めぐりをしたので、本曲に関係のある所を掲げてみる。
JR出雲駅から出雲大社に向う途中に出雲ドームなる施設があり、その周囲は公園となっているが、その一角に「いずもオロチランド」という大蛇をかたどった遊具がある。大蛇が大きな口をあけてどぐろを巻いているようで、如何にも出雲らしいと思いカメラにおさめてきた。
ここから斐伊川を少し遡ったあたりに、素戔嗚尊が大蛇退治の作戦の本拠にしたという稲城の森がある。何の標識もない小さな森で、地元の方に聞いてようやく判明した。森の中に入ってみると石の祠が一つ立っていたが、はたして素戔嗚尊を祀るものかどうか確認できなかった。
近くに雲根神社がある。初めは櫛稲田姫一神のみを祀る稲田姫社と称していたが、いつの頃からか、近くの石塚社を合祀したとのこと。石塚社はこの辺りで退治された八俣の大蛇の荒魂を鎮め、素戔嗚尊の神霊を祀っていたという。石塚の異名である「雲根」をもって社号にしたという。
いずもオロチランド 出雲市出雲 (平9.9)オロチをかたどった遊具がある
稲城の森 島根県斐川町出西 (平9.9) 素戔嗚尊はここで作戦を練った
稲城の森の中の祠 島根県斐川町出西 (平9.9) 尊を祀るものかどうかはっきりしない
雲根神社 出雲市大津 (平9.9) 櫛稲田姫、大蛇、素戔嗚尊を祀る
東の方に進むと大東町に須賀神社がある。素戔嗚尊と櫛稲田姫を祀る。
古事記によると、尊は宮造るべき所を求めて此処、出雲国須賀の地においでになり、「吾此地に来まして、我が心須賀須賀し」と仰せになって、此地に宮殿を御作りになりましたが、其地より美しい雲が立ち騰るのを御覧になり、「やくもたつ出雲八重垣つまごみに 八重垣つくる其の八重垣を」の御歌を御詠みになった。そして、ここが三十一文字和歌発祥の地であり、出雲の国名の起源でもある。境内にはこの「神詠の碑」や「日本初之宮 和歌発祥之遺跡」の碑が立っている。
須賀神社 島根県大東町須賀 (平9.9) この地に尊は宮殿をお作りになった
神詠の碑 須賀神社 (平9.9) やくも立つ・・・の歌が刻まれている
日本初之宮の碑 須賀神社 (平9.9) 和歌発祥の遺跡の文字も見える
八雲町熊野には熊野大社がある。祭神は素戔嗚尊で往時は出雲大社より格が上だったという。素戔嗚尊は卯木の杵、檜の臼で火を起こす法を教えたといい、境内にはその神器の燧杵燧臼を奉安する鑽火殿がある。伊弉冉尊を祀る伊邪那美神社、櫛稲田姫を祀る稲田神社もあり、須賀神社と同様に「八雲立つ・・」の歌碑もある。また、八俣の大蛇を退治する絵も掲げられていたのでカメラにおさめてきた。
熊野大社 島根県八雲村熊野 (平9.9) 素戔嗚尊に関する神社、碑、絵画がある
鑽火殿 熊野大社境内 (平9.9) 尊は火を起こす法を教えた
稲田神社 熊野大社境内 (平9.9) 櫛稲田姫をまつる
神詠の碑 熊野大社境内 (平9.9) 八雲立つ・・の碑がここにもある
八俣の大蛇を退治する図 熊野大社境内 (平9.9)
熊野大社から北に向い松江市に入ったあたりに八重垣神社がある。祭神は素戔嗚尊と櫛稲田姫。縁結びの大神として知られる。社伝によると
「 素戔嗚尊が八俣の大蛇を退治して姫をお救いになった時、尊は姫を斐の川上から、七里を去った佐草の郷、佐久佐女の森(現境内、奥の院、鏡の池のある森)の大杉を中心に八重垣を造って姫を隠した。大蛇を退治した後、両親の許しを得て“いざさらば、いざさらば、連れて帰らむ佐草の郷に”と、出雲神楽にある通り、佐草の地に宮造りして縁結びをした。 」 それがこの地であるという。
神社裏には夫婦杉がある。この大杉中心に八重垣を造って櫛稲田姫は身を隠されたという。また鏡の池は姫が避難中日々の飲料とし、また姿を写されたという。こんこんと湧き出る清水は昔ながらの面影を偲ばせ、縁結びの占いの池として、紙片に硬貨をのせ縁の遅速を占い、早く沈めば良縁早く、遅く沈むと縁が遅いと言われている。
八重垣神社 松江市佐草町 (平9.9) 尊と姫の新居の地
夫婦杉 八重垣神社境内 (平9.9) このあたりが太古の八重垣の中心という
鏡の池 八重垣神社境内 (平9.9) 姫が姿を映したという
八重垣神社壁画・・八重垣神社には神社壁画としては日本最古と云われる、重要文化財指定の三面の壁画がある。壁画の板は鉋のない時代に槍鉋を用いて板を削り、白色塗料はゴフンを支那から伝わらない時代で、白土を用いて塗り、その上に描かれたもので、約1,100年前のものである。この壁画には素盞鳴命、櫛稲田姫、天照大神、市杵嶋姫命、手摩乳(たなづち)命・足摩乳(あしなづち)命の六神像が描かれている。現在は宝物収蔵庫に移管され拝観できる。
神社で購入した絵葉書を掲げるが、櫛稲田姫と思われるゆたかな頬に塗られた薄紅、唇の鮮やかな紅は一種の艶かしさを感じさせる。
八重垣神社壁画 八重垣神社 (神社発行の絵葉書より) 櫛稲田姫とおもわれる
神社の近くには八雲立つ風土記の丘があり、資料館にはここで出土した遺物などが多く展示されている。
八雲立つ風土記の丘碑 松江市大庭町 (平9.9)
全国に多数あると思うが、私が参詣したもののみその写真を掲げる。
素盞雄神社 東京都荒川区南千住 (平11.1)
金桜神社 甲府市御嶽 (平1.9)
八坂神社 京都市東山区 (平6.9)
粟田神社 京都市東山区 (平6.11)
沼名前(ぬなくま)神社 福山市鞆の浦 (平11.9)