美女孝寿墓子童寺

謡蹟めぐり  満仲 まんじゅう

ストーリー

多田満仲は一子美女丸を中山寺に預け、学問をさせていたところ、少しも学問に心を入れず、武勇ばかりをけいこしているので怒って藤原仲光をやり連れてこさせた。しかし、経もよめず、歌も出来ず、また管弦も出来ないので、怒って手討ちにしようとするのを、仲光がすがりついて留めた。満仲は仲光に美女を討てといい、内に入ってしまった。
仲光の一子幸寿はこれを聞いて、自分の首をとって満仲の御目にかけよという。仲光は幸寿の申出を喜んで、幸寿を討とうとすれば、美女は悲しみ、自分を討てと進み寄った。
美女、幸寿を前にして、仲光は心に迷ったが、ついにわが子を討って、美女を落としてやった。
比叡山の恵心の僧都は、美女を連れて満仲の館をおとづれ、幸寿が身代わりとなったことをあかして、美女の罪を許し給えと願うのである。満仲も心とけて許し酒宴を催せば、仲光も喜んで舞を舞いながらもわが子の姿がないのを悲しむのであった。(「宝生流旅の友」より)

中山寺  宝塚市中山 (平6・3記)

「中山寺」は満仲が学問をさせようと美女を上らせた寺である。美女はここで武芸にばかり心を入れ、学問を怠ったので父満仲の怒りを買いこの物語となる。西国霊場の札所にもなっている寺である。

中山寺 中山寺 宝塚市中山 (昭60.9)

多田神社・・源氏発祥の地   川西市多田所町 (平6・3記)

「多田神社」あたりが、多田源氏発祥の地といわれ、謡蹟も多い。
多田神社の案内板に説明してもらう。

『 当神社は元多田院とも、また多田大権現社とも称えた大社でありまして、祭神は第五十六代清和天皇の御曽孫贈正一位鎮守府将軍源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公を奉斎するいわゆる「源氏の祖廟」であり、源家発祥の地である。
五公が国家の藩屏として尽くされたる偉勲功績は国史上燦として輝き縷述を要しないが、満仲公が武門の棟梁たる勅諚を賜わり、国家鎮護の大任を果されたるのみならず、沼地を開拓して多くの田畑を造り、あるいは河川を改修して港湾を築き、あるいは鉱山事業等殖産興行に力を注ぎ、国力の増進と源家興隆の基盤を築かれ、又頼光公の鬼賊退治、頼信公が平忠常を伐ちて関東を平定し、頼義、義家の二公が前九年、後三年の両役に大軍を率いて辺陸に赴き、奥羽の豪族を討滅せられたる等国史の明示するところであります。平安朝この方我が国の歴史は殆ど当神社御祭神の子孫である源氏によって飾られているのであります。
かような点からこの地域は我が国史上重要なる地域であり、貴重な史跡として大切に保存しなければならないのであります。 』

御祭神である「満仲、頼光公を祀る廟所」があるが、古来より、事変が急を告げる際には、この廟所がしきりに鳴動し、それを予告したと伝えられる。古くは頼朝の時をはじめ、室町には応永・寛正・文明・長亭・延徳・永正にそれぞれ記録が残されているとのこと。さらに、他所での同様の例とは異なり、多田院鳴動は常に御佳例によりとあるのが特色であると伝える。

多田神社 多田神社 川西市多田所町 (昭60.9)

満仲廟所 多田満仲・頼光廟所 多田神社 (絵はがき)

小童寺・・美女・幸寿の墓   川西市西畦野杉之坂 (平6・3記)

「小童寺」は美女丸が後に出家して源賢と名乗る高僧となり、幸寿を弔うためこの寺を建立したと伝えられ、境内には「美女、幸寿、仲光の墓」がある。

『      由 緒
源満仲の美女丸放逸にして家来藤原仲光に誅させしめんとせしも彼は幼君美女丸を誅することを得ず、仲光の子幸寿を身代わりとした。
時に十五歳、辞世の歌として
       君がため命に代へる後の世の
              闇路を照らせ山の端の月
美女丸は後に名僧となり、幸寿丸の後を弔うための一寺を建立し、忠孝山小童寺と名ずく。 』

同じ境内に頼光の四天王として、渡辺綱、平井保昌、卜部季武、坂田金時の墓がある(「土蜘」関連)。
また、この小童寺の近くに「頼光寺」というのがあったので、立ち寄って見た。何か頼光関係の史跡があるのかと注意してみたが、見つけることは出来なかった。

小童寺 小童寺 川西市西畦野杉之坂 (昭60.9)

美女孝寿墓子童寺 美女・幸寿・仲光の墓  小童寺 (昭60.9)

満願寺・・美女・幸寿の墓   川西市満願寺 (平6・3記)

多田神社と中山寺の中間に位置する「満願寺」という立派な寺である。聖武天皇の頃の創建といわれ、源賢(美女が出家して僧となった)が再興して源家の氏寺となった。
境内には小童寺と同じように「幸寿、美女、仲光の墓」がある。

満願寺 満願寺 川西市満願寺 (昭60.9)

美女孝寿墓満願寺 幸寿、美女、仲光の墓 満願寺 (昭60.9)

法音寺・・幸寿丸の墓   山形県米沢市御廟 (平6・3記)

「法音寺」は米沢市にあり、上杉家歴代御城主の菩提所とのことであるが、「幸寿丸の墓」がなぜここにあるか不思議であった。案内板に説明していただく。

『       幸寿丸の墓
幸寿丸のことは、「前太平記」の第十五、十六巻にくわしく記されている。謡曲の「満仲」は、あまりに有名である。
幸寿丸は、いまから一千年前の人、十五才の時、源満仲の第四子、美女丸が乱暴して父に首をはねられるところ、その身代りとなって命を捧げた。心をあらためて修行を重ね高僧となった美女丸(源賢)と、その兄源頼光(大江山の鬼退治)は、その忠死に感じて、遺骨を善光寺如来尊の御堂に納め、ねんごろな供養冥福を祈った。
善光寺如来尊が米沢にお移りになるにおよんで、上杉家御廟所内におさめられていたが、昭和十六年この地に安置された。
当山では、世のため人のために生きた尊霊をおなぐさめ申し上げるとともに、幼な子たちの美しく健やかな成長をいつまでもお守り下さるようお願いし、花壇をつくってお墓をきれいにし、いつもみんなで手を合せお祈りしています。  』

法音寺 法音寺 米沢市御廟 (平5.5)

孝寿墓法音寺 幸寿丸の墓 法音寺 (平5.5)

多田満仲の墓    神奈川県箱根町元箱根  (平19・6記)

箱根、国道一号線沿いの精進池のほとりに俗称「多田満仲」の墓といわれる宝篋印塔が建っている。何故この地に多田満仲の墓があるのか不思議に思ったがやはり満仲の墓ではなく、銘文によると、永仁4年(1296)に、京都西大寺に住持し、後に鎌倉の極楽寺を建て、多くの貧困者、病人を救った忍性が大蔵安氏らの大和の石工を引き連れて来てこの塔を造ったとのことである。
このあたり、この多田満仲の墓と呼ばれる宝篋印塔や、俗称、曽我兄弟の墓、虎御前の墓と呼ばれる五輪塔や、二十五菩薩などの石仏、石塔があり、鎌倉時代、六道の辻、賽の河原と呼ばれ、地蔵信仰の霊地であったとのこと。「元箱根石仏群」として立派に整備されている。

満仲の墓箱根 俗称「多田満仲の墓」 箱根町元箱根 (平17.5)

多田神社と大宮八幡宮   東京都中野区・杉並区  (平11・2記)

現在の中野区南台の地域は、古くから雑色(又は雑色村)と呼ばれており、この「多田神社」を雑色の鎮守としてあがめ現在に至っている。
祭神は多田満仲で、源義家が後三年の役(1083)に出陣した際、この雑色村(杉並区にある「大宮八幡宮」建立の際、神供の雑色料としたところからこの地名がついたといわれ、多田神社のあるあたり一帯を、昔この地名でよんだ)を通り霊感を受け、満仲公の武勲を心に浮かべ、祈りつつ奥州に向かった。寛治6年(1092)凱旋の途中、大宮八幡(創立年代ははっきりしない。縁起によると、多田満仲がはじめて崇祭し、後、源頼義が勧請したという)に神鏡を献じたとき、義家の先祖である満仲公の祠を建てたことにはじまるという。さらに社記によると、満仲公は摂津国多田に生まれ父経基の職位を継ぎ、関東に威勢を張り、大宮八幡設立前に祠を建てた縁によってこの地にまつられたという。

多田神社杉並 多田神社 中野区南台 (平10.1)

大宮八幡 大宮八幡宮 杉並区大宮 (平10.1)


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