手植えの蘇鉄

謡蹟めぐり  七騎落7 その他2

東漸寺、駒形堂小祠、駒形像  静岡県

東漸寺は、頼朝が野中で発見した十一面観音を本尊として堂塔を建立して帰依したものという。
また伊豆の函南町には駒形堂という小祠があり、頼朝の乗馬磨墨(摺墨)が嘶いたところ、名馬生月(池月)がこれに和してきたという伝説が伝えられ、頼朝がその名馬に乗った姿を刻んだ像が安置されている。堂内にその縁起を書いたものがあったので、判読を試みた。

「     伊豆旧跡  ・・・駒形堂縁起
駒形堂は今を去る九百年前、承平二壬辰、親王将門、関東下向の時絃巻山にて乗馬悩みたれば、将門観音に祈願したまうに、忽ち霊感ありて平癒したるを以て、報恩謝治のため弘法大師御作の守本尊を安置し給へり。これ泉龍禅寺内陣の本尊なり。其の後建久四癸丑、源頼朝公、富士の巻狩りの際彼の観音に参拝しけるに、愛馬の摺墨頻りに嘶き遥か向ふの池の山にまた馬の声あり。彼の山を狩らせたまうに、大成池のほとりに不思議にもその丈け七尺に余る馬一頭たたずみし故、池好と名づく。この名馬を得たるを以て絃巻山の懐に駒形堂を建立し、将門安置の馬頭観音を本尊となす。これ駒形堂起こる由来なり。かくて堂の側に秩父の守重忠矢の根を以て、頼朝公その名馬にうち乗りたる英姿を大石に刻し、駒形権現としたまう。なおかつ弓絃巻きて天下太平を祈り奉る。
弘化四年に大破したれば、名主五右衛門等発起して再建す。明治維新の折これをこぼちたり。大正六年三月この霊地を保存せんため区民協力して一小宇を建立す。
    大正六年三月吉祥日誌之
         伊豆国田方郡函南村軽井沢    駒形堂  」

東漸寺 東漸寺 静岡県伊豆長岡町南江間 (平6.12)

駒形堂小祠 駒形堂小祠 静岡県函南町軽井沢 (平7.4)

駒形像 駒形像 駒形堂小祠 (平7.4)

慈光寺の鐘、猿楽塚、浅草寺と頼朝手植えの銀杏  埼玉県、東京都

埼玉県都幾川村の慈光寺は坂東札所のお寺でもあるが、この寺の鐘は頼朝寄進の銅鐘と伝えられる。
都内渋谷区猿楽町の旧山手通りに面した高級マンションの並ぶ一角に猿楽塚がある。ここで頼朝は猿楽を催し、終って道具をここに納めたと伝えられるが、実際は古墳のようである。このあたり、高台になっており近くの西郷山公園からの眺望、殊に冬の富士山の眺めは素晴らしい。昔の鎌倉街道がこのあたりを通っていたようである。
浅草の浅草寺も八幡太郎義家が奥州征伐の途中ここに戦勝を祈願したといわれ、頼朝も平家討伐の戦勝を祈願し、後に頼朝の寄進で堂塔が建立され、境内には頼朝手植えの大銀杏がある。現在では木も枯れてしまったがその名残りを留めている。仲見世通りには頼朝参詣を描いた絵も見られる。

慈光寺の鐘 慈光寺の鐘 埼玉県都幾川村 (平1.11)

猿楽塚 猿楽塚 渋谷区猿楽町 (平8.3)

浅草寺 浅草寺と頼朝手植えの銀杏 台東区浅草 (平8.3)

井草八幡宮、頼朝手植えの松、頼朝手植えの松の樹根、遅の井、
板絵着色遅の井伝説図、市杵島神社   杉並区

井草八幡宮は創始当時、春日社をお祀りしていたが、源頼朝が奥州征伐の途次、戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀した。頼朝が祈請して霊験を得たので、報賽のための松の樹を手植えして奉献したと伝えられる。この老松は天然記念物に指定されていたが、昭和48年枯れてしまった。現在はその跡に二代目の松が植えられており、初代の松の樹根の一部が現在神社の回廊に飾られている。
八幡宮の近くには善福寺池があるが、その池の一角に「遅(おそ)の井」がある。頼朝の軍勢がこの地に宿陣した際、ひどい日照りにでくわし、あちこち水を求めたが得ることができず、ついには頼朝みずから弓の本筈で土を掘ったところ、七カ所目でようやく水が湧き出し、水の湧き出すのを待ちあぐねたことから、その井戸を「遅の井」と名付けたという。これを絵にしたものが遅の井伝説図として八幡宮に奉納されている。
この井戸の側の池の中には頼朝が日照りに際して弁財天を祀らせたという、市杵島神社がある。

井草八幡宮 井草八幡宮 杉並区善福寺 (平8.3)

頼朝手植えの躑躅 頼朝手植えの松 井草八幡宮 (平8.3)

手植えの蘇鉄 頼朝手植えの松の樹根 井草八幡宮 (平8.3)

遅の井 遅の井 杉並区善福寺池 (平8.3)

板絵着色遅の井伝説図 板絵着色遅の井伝説図 善福寺池 (平8.3)

市杵島神社 市杵島神社 善福寺池 (平8.3)

駒繋神社、駒繋松、芦毛塚  世田谷区

世田谷区下馬にある駒繋神社も、源義家が奥州征伐に向う途中武運を祈った所と伝えられる。頼朝の奥州の藤原泰衡征伐のため自ら大軍を率いて鎌倉を出発し、世田谷郷のこの地に来たとき、往時義家がここに参拝したことを思い出し、愛馬芦毛より降り駒を境内の松の木に繋いで参拝した。
頼朝はそれより乗馬して発進しようとしたが、ここから駒留八幡神社(上馬町)までは一面のぬかるみであったので下馬し、この間を徒歩で渡りそれより乗馬(上馬)した。この故事にちなみ、このあたりに下馬、上馬の地名が生まれたという。
また、頼朝の芦毛の馬が蛇崩れの沢を渡るとき驚いて暴れ、沢の深みに落ちて死んだのでこれを葬ったという芦毛塚が現存している。

駒繋神社 駒繋神社 世田谷区下馬 (平8.3)

駒繋の松 駒繋松 世田谷区下馬 (平8.3)

葦毛塚碑 芦毛塚 世田谷区下馬 (平8.3)

頼朝歌碑、鎌倉街道  愛知県豊明市

二村山は愛知県豊明市、織田信長と今川義元の合戦で名高い桶狭間古戦場の近くにある。古くから歌に詠まれた鎌倉街道一の名勝の地であった。海抜72メートルの山頂からは、西は鈴鹿、北は御嶽、東は猿投の山々を一望できる絶景の地である。
頼朝がこの地を通ったのは、建久元年10月、露の季節であった。始めての出京に歌枕として名高い二村山は印象が深かったとみえ、歌を残しその歌碑が建てられている。
    よそに見し をささが上の 白露を たもとにかくる 二村の山
鎌倉街道の碑も見受けられた。鎌倉街道は家康が東海道を制定し、伝馬の制度を定めるまで、京都と江戸を結ぶ主要幹線道路であった。

頼朝歌碑 頼朝歌碑 愛知県豊明市二村山 (平7.2)

鎌倉街道 鎌倉街道 愛知県豊明市二村山 (平7.2)

<追記 平15・1記>

頼朝供養塔、政子供養塔  鎌倉市

鎌倉の安養院(田代寺)は北条政子が頼朝の追善のために建立した寺で、頼朝の供養塔と並んで政子の供養塔もある。

頼朝供養塔安養院 頼朝供養塔 安養院 鎌倉市大町 (平10.1)

政子供養塔安養院 政子供養塔 安養院 (平10.1)

頼朝供養塔 新宮市

和歌山県新宮市佐野の国道42号線沿いに頼朝の供養塔がある。頼朝の没後政子が熊野に詣でたとき建てたものという。

頼朝供養塔新宮 頼朝供養塔 新宮市佐野 (平10.3)

清泉寺、悪源太義平の墓、大慶寺  群馬県

群馬県尾島町世良田の清泉寺には悪源太義平の墓がある。
悪源太義平は義朝の長男で頼朝の兄である。十五歳のとき叔父義賢(木曽義仲の父)を討ち悪源太といわれた。平治の乱には父義朝とともに平清盛と戦い、待賢門の戦いでは平重盛と一騎討ちをしたことで有名である。
戦局は源氏に利あらず、父義朝は討たれた。義平は京に潜入し清盛父子の命を狙ったが捕らえられ六条河原で斬首された。(二十歳)
義平の妻は新田義重の娘であったが、夫の死を知り京にのぼってその首を持ち帰りこの地に埋葬し、剃髪して妙満尼と称し夫の菩提を弔った。
群馬県新田町大根の大慶寺は義平の妻妙満尼が夫の菩提を弔うため一庵を結んだのがその起源といわれる。

清泉寺 清泉寺 群馬県尾島町世良田 (平12.7)

悪源太義平の墓 悪源太義平の墓 清泉寺 (平12.7)

大慶寺 大慶寺 群馬県新田町大根 (平12.7)

寿福寺、源氏山公園  鎌倉市

寿福寺は源氏山を背にした寺で、頼朝の父、義朝の居館があった所で、北条政子が義朝ゆかりの地に創建した。境内の裏山には洞窟が掘られ、その中に北条政子の墓、源実朝の墓がある。
また境内には源氏山の碑が建てられているが、碑の文面によると、この山は古くか武庫山あるいは亀谷山と称していたが、源頼義、義家父子が奥州征伐の時この山に旗を立てたので、旗立山と呼ばれるようになった。さらに寿福寺境内には源氏の邸宅が多くあったので、源氏山と呼ばれるようになったっという。
源氏山山頂には頼朝の鎌倉入り800年を記念して大きな頼朝の像が建てられている。

寿福寺 寿福寺 鎌倉市扇が谷 (平13.4)

北条政子の墓 北条政子の墓 寿福寺 (平13.4)

実朝の墓 源実朝の墓 寿福寺 (平13.4)

源氏山碑 源氏山の碑 寿福寺 (平13.4)

頼朝像源氏山 源頼朝の像 鎌倉市源氏山 (平13.4)

岩船地蔵堂  鎌倉市

亀が谷切通しを下った丁字路のところに岩船地蔵堂がある。頼朝の長女大姫は木曽義仲の嫡男義高と婚約したが、義仲討伐を決意した頼朝は、義高を殺害した。悲嘆の大姫はノイローゼとなり頼朝、政子の祈願も空しく24歳で亡くなった。大姫の守り本尊を祀ったのがこの岩船地蔵である。最近作りなおして新しい建物になったようである。

岩船地蔵堂 岩船地蔵堂 鎌倉市亀が谷 (平13.4)

佐助稲荷  鎌倉市

頼朝が伊豆蛭が小島の配所で、平家討伐を日夜念じている時、稲荷の大神気高い老翁の姿で夢に現れ給い、挙兵をうながし、その時期を啓示したという。
頼朝は平家討伐を果たし、幕府を開いて目的を達成したお礼として、畠山重忠に命じてここを霊地と定め稲荷の社殿を造営させた。頼朝は若い時、兵衛佐であったので佐殿と言われていた。その佐殿を助けた神ということで佐助稲荷と言われたという。

佐助稲荷 佐助稲荷 鎌倉市佐助 (平13.4)

北野神社(牛天神)  文京区

祭神は菅原道真公である。源頼朝が東国追討のとき、ここの入江の松に船をつなぎ波が鎮まるのを待った。その間夢に菅公が神牛に乗って現れ、頼朝に二つの幸せのあらんことを告げ、武運満足の後は必ず社を造営して報ゆべしと告げた。頼朝が夢覚めて傍らを見ると一つの岩石があって、夢の中で菅公が乗っていた牛に似ている。不思議に思っていたが、その年の秋に頼家が誕生し、更に翌年には動かずして平家を退け国と鎮定した。その報賽としてここに菅公を勧請して神領などを寄進したという。

北野神社 北野神社(牛天神) 文京区春日 (平13.11)

日触八幡    近江八幡市

頼朝建立の八幡と伝える。

日触八幡 日触八幡 近江八幡市宮内 (平13.11)


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