謡蹟めぐり  西王母 せいおうぼ

ストーリー

ところは中国、周の時代。穆王の治めるたいそうめでたい聖代を迎えて、君臣相和し、皆花の都に群れ来て参内し共に泰平を祝って大賑いです。そこへ、どこからとも知れず桃花の枝を肩にした若い女が現れます。そして、三千年に一度花咲き実を結ぶ仙桃が今花咲いたのも君の御威徳によるものであるから献上しよう、と言って宮殿へ赴きます。
引見し、桃の謂れを聞いた帝王は、それは西王母の桃かと問います。女ははじめ答えませんが、やがて自分が西王母の化身であると明かし、後に真の姿で現れ仙桃の身をも捧げようと約束して天に上がります。
帝王が管弦を奏して西王母の天降るのを待っていると、やがて侍女を従えた西王母が光輝く妙なる姿で現れ、仙桃の実を帝王に捧げ舞を舞います。喜びの酒宴に皆快く酔い、いつしか西王母は天上へと消えます。(「宝生の能」平成13年4月号より)

西王母伝説  (平19・3記)

もともとこの曲は『唐物語』の中の西王母伝説がベースになっているとのこと、佐成謙太郎著「謡曲大観」に原文が載っている。およその意味が汲み取れたが私には難しい。何かもう少し読み易いものはないかと、インターネットで「西王母」と検索したらなんと37万件も出て来た。拾い読みしてみたがなかなか面白い。

「桃源郷」という言葉がこの伝説から生まれたこと。
西王母に対して東王父なる男性の支配者がいたこと。
七夕伝説にも関連があること。七夕の織女が西王母で往時国の根幹の紡織を司り、また牽牛は東王父で農耕社会を司るといった解釈等々。

謡曲の解釈とひと味違った世界が展開されている。長くなるので引用は省略するが、興味のある方はトライしてみて下さい。

書籍とインターネットで探る「西王母」謡蹟 (平19・3記)

謡本には「ありがたや三皇五帝の昔より、今この御代に至るまで・・」とあるだけで、その時の帝が誰であったかは明記されていない。しかし、狂言の詞には周穆王とある由である。しかし引用した「唐物語」の中では漢の武帝となっている。
年表で調べてみると、周の時代というのは西暦紀元前一千年の時代であり、前漢の武帝は西暦紀元前百年の時代で、穆王のほうが九百年も古い時代の人である。周の穆王といえば「枕慈童」の慈童を召し使った人で、慈童は七百年のちの「魏」の文帝の時にその臣下と巡り合っている。

小倉正久著「謡曲紀行」(白竜社刊)

武帝の墓・茂稜・・西安の北西にある。茂稜の西北に李夫人の墓。丘陵下には渭水。西王母物語は前漢・武帝の事蹟をもとに作られたというが、武帝自身が直接西域外征を行った記録はなさそうである。

漢武仙臺・・狭西省黄稜県。武帝は竜に乗って天上に上ることを祈った。
漢長安城址(未央宮址)・・西安西10キロ。西王母の朝貢を迎えた宮殿。

<天池>(てんち)

http://www.tabichina.com/taizen/shinkyo/shinkyo.htm?

ウルムチの東110キロ。ボゴダ峰の中腹にある。ボゴダ峰の標高は5445メートル、また、天池の標高は1980メートル。水の色は青々としていて、万年雪を戴くボゴダ峰と、それに抱かれるように広がる湖の取り合わせには鮮烈な美しさがある。
中国の神話にしばしば登場する女神に西王母がいる。住処は崑崙山。伝説に、周の穆王が西に巡狩した時、西王母は瑶池で宴を開きこれをもてなした、とあるが、地元では、その瑶池が天池であると言う。

漢武帝の墓・茂陵

http://www.travel-anew.co.jp/travel11.html

前漢の五代皇帝[武帝]の陵墓で53年の歳月をかけて建造されたとの事です。高さ46m、底辺は230mで頂上は40mの台形をした巨大な陵墓です。 何もない、ただの草山でしたけど・・。武帝に仕えた[霍去病]の墓が茂陵博物館になっていて、 祁連山を模した陵墓は美しい庭園と巨大な16の石刻に囲まれています。


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