西行桜法輪寺

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西行関連謡蹟  その他の地域

西行水、泡子塚 滋賀県米原市 (平14・10記)

西行が東遊の時、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと、不思議にも懐妊し男の子を出産した。その後西行が関東からの帰途またこの茶店で休憩した時、娘より事の一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児となる。もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り
      水上は清き流れの醒井に
             浮世の垢をすすぎてやみん
と詠むと、児はたちまち消えて、元の泡になった。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということである。今でもこの辺の地名を児醒井と言っているとのこと。
この地を訪ねたのは平成13年11月で、湖東三山で予想外に時間がかかり、ここに着いた時は暗くなって良い写真が撮れなかったが掲げてみる。

西行水 西行水 滋賀県米原市醒ケ井 (平13.11)

泡子塚 泡子塚 滋賀県米原市醒ケ井 (平13.11)

西行の戻り橋  長野県別所温泉   (平8・2記)

西行が小諸の布引観音から別所の北向観音へ回る途すがら、このあたりでワラビを採って遊んでいた村童にたわむれて
    子どもらよ ワラビ(わら火)をとりて 手を焼くな
と問いかけた。子供らはすかさず
    法師さん ヒノキ(火の木)笠着て 頭を焼くな
と返され、さすがの法師も子供ですらこのように頓智のきく地に恐れをなし、これから先が案じられると、橋を渡らずに引き返したことから、この橋の別名を「西行戻り橋」というようになったとのこと。

西行戻り橋 西行の戻り橋 長野県別所温泉 (平6.10)

小夜の中山の西行歌碑  静岡県掛川市 (平19・1記)

静岡県掛川市の小夜の中山に西行の「年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけり小夜の中山」の歌碑が建っている。歌碑のそばに解説があったので紹介する。

「 西行歌碑 − 西行二度目の難所越えに挑む −
西行法師は平安時代末期の歌人、新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのがこの一首である。
   年たけてまた越ゆべしとおもひきや
           命なりけりさやの中山
二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年六十九歳の作である。この歌は文治年(1186)の秋、重源上人の依頼を受けて奈良東大寺の砂金勧進のために奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。
小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。
当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相当な旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから六年の地の鎌倉幕府の開設以降である。
西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和五十五年十月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。 」

小夜の中山歌碑 西行歌碑 小夜の中山 静岡県掛川市 (平18.4)

西行寺  千葉県館山市   (平8・2記)

西行の在家の時の妻呉葉は、二児も病死して尼となり諸国を巡遊、この地に立ち寄り恵心僧都開基の恵心堂に住みついたが、18歳で病歿した。西行は奥州への途中恵心堂に立ち寄ったのがたまたま呉葉の49日忌で、暫く滞在して菩提を弔い寺も再興した。これが後に西行寺となったといわれる。

西行寺 西行寺 館山市船形 (平6.11)

法輪寺  栃木県湯津上村   (平8・2記)

東北への旅の途中、西行はこの法輪寺を訪ね、ここの桜を見て
     盛りには などか若葉は 今とても
               心ひかるる 糸桜かな
と詠んだことから西行桜と呼ばれるようになったという。樹齢約800年。また、立派な西行桜の碑がある。

法輪寺 法輪寺 栃木県湯津上村 (平4.7)

西行桜法輪寺 西行桜 法輪寺 (平4.7)

西行桜碑 西行桜の碑 法輪寺 (平4.7)

西行戻しの松  宮城県松島町   (平8・2記)

西行は奥州行脚の道すがら松島寺を訪ねるためこの地に来た。この松の下で牧童と禅問答して敗れ、松島行きをあきらめ引き返したことからこの名がついたといわれる。
ここから眼下に眺める松島の眺めはまた格別である。

西行戻し松 西行戻しの松 宮城県松島町 (平7.6)

中将実方朝臣墓と西行歌碑 宮城県名取市塩手   (平8・2記)

宮城県名取市に中将実方の墓があり、その墓前に西行の歌碑があるというので訪ねてみた。中将実方については「加茂物狂」の項に記してあるので参照願いたい。
実方の墓の近くに西行の歌碑が立っている。実方が辺境に死してのち、189年、文治2年(1186年)の秋、西行法師がこの墓に詣で、霜枯のすすきを眺め
      朽ちもせぬ 其の名ばかりを 留めおきて
               枯野のすすき かたみにぞ見る
と詠んだ。
また、元禄2年(1689年)5月、俳人松尾芭蕉が奥の細道をたずねた折、雨で道が悪く実方の墓へ参ることが出来ず、植松の地より
      笠島は いずこ五月の ぬかり道
と一句を手向けている。参道入口には芭蕉の句碑があり、「かたみのすすき」のかたわらには仙台の歌人松洞馬年の句碑
      笠島は あすの草鞋の ぬき処
が建っている。

西行歌碑名取市 西行の歌碑 宮城県名取市塩手 実方の墓 (平7.9)

芭蕉句碑 芭蕉句碑 実方の墓 (平7.9)

かたみのすすき 「かたみのすすき」と馬年の句碑 実方の墓 (平7.9)


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