景清社大府市

謡蹟めぐり  景清 かげきよ

ストーリー

平家の勇将悪七兵衛景清は、尾張の熱田の一遊女との間に一女人丸をもうけていましたが、女子なのでこれを鎌倉亀ケ谷の長に預けていました。
源平の戦乱後に日向国宮崎に下り、盲目の琵琶法師となって乞食の生活を送っているという噂を聞いた娘の人丸は、一人の供を連れてはるばる鎌倉から尋ねてきますが、景清は浅ましく落ちぶれた今の身を恥じて、わざと他人のように応対します。しかし人丸の身の上に同情した里人に伴われて再び訪れるので、景清はかたくなな心を和らげて対面し、懐かしの我が子としみじみと言葉を交わします。そうして景清は娘の頼みに応じて、八島の合戦で敵方の三保谷四郎と力競べの錣引(しころびき)をした武勇談をして聞かせ、昔日の勇将の面影を彷彿と示して人丸を慰めます。
そして二人は涙ながらに別れを告げ、景清は我が子の後ろ姿をじっと見送り、一人寂しく藁屋にとどまります。(「宝生の能」平成12年3月号より)

宮崎県の謡蹟 (平13・6記)

本曲の舞台は宮崎市下北方の景清廟と云われる。廟の門を通ると立派な景清廟堂が建てられ、景清の墓と人丸の墓がある。景清の住居址ともいう。景清はこの地にきて「源氏一門の繁栄を見るに耐えず、「この拙者の健眼が敵であるぞ」と叫んで自ら両眼を抉って投げた。その地が生目であり、生目神社に祀られている。
景清の娘人丸は父景清を訪ねて西下した。はじめ人丸が草庵を訪ねた時、景清はわが身を偽った。しかし、人丸はその草庵の主が景清であることを知って、再会の涙をよせ合った。人丸はこの地に留まって盲目の父を看取って建永元年(1206)9月、24歳で病死した。
景清はその後淋しい孤独な生活を続けたが、霧島神社参詣を思い立ち、不自由の身をもって祈願をはたし、帰途62歳で病没した。この遺骸が持ち帰られ景清廟に祀られている。

景清廟 景清廟 宮崎市下北方 (平7.11) 景清廟堂、景清の墓、人丸の墓などがある

景清廟堂 景清廟堂 景清廟 (平7.11) 景清の住居址という

景清の墓宮崎 景清の墓 景清廟 (平7.11) 霧島神社参詣の帰途病没、ここに祀られたという

人丸の墓宮崎 人丸の墓 景清廟 (平7.11) 人丸はここで父に再会、その後もここに留まり病没した

生目神社宮崎 生目神社 宮崎市生目亀井山 (平7.11) 応神天皇と景清を祀る

山口県の謡蹟  (平7・3記)

山口県の観光旅行に秋吉台、秋芳洞は欠かせないところであろうが、その秋芳洞の北に景清洞がある。壇の浦の戦いに破れた平家の主将平景清がこの地に落ち延び長い間ひそんでいた洞窟といわれる。
洞窟に入ると右側に生目八幡が祀ってある。景清がこの地に落ち延び負傷した目を洞内のしづく(清水)で洗い傷を治したので、この恩に報いるため洞窟内に「生目八幡」を祀ったといわれる。また、昔からこの地方に悪い眼病がはやったとき、この洞内のしづくで、目を洗ったところ不思議と眼病が治ったといわれ、現在でも地元の人や信者により、お祭りが催されているとのことである。
ここには壇の浦の合戦のあと、景清と建礼門院がここに隠れ住み女院は阿香(阿古屋)と改名して景清の妻となり、ここに安住して生を終ったという伝説も残されている。
洞の近くには景清の墓もある。

景清洞 景清洞 山口県美東町赤 景清洞付近 (平3.10) 景清がこの地に落ち延び長い間ひそんでいた洞窟といわれる

生目八幡山口 生目八幡 景清洞 (平3.10) 洞内のしずく(清水)で目を洗い傷を治したので祀ったという

景清の墓山口 景清の墓 景清洞の近く (平3.10) 景清はこの地で没したともいわれ、その墓がある

四国の謡蹟 (平7・3記)

香川県牟礼町に錣引跡がある。曲中に「三保の谷が着たりける、兜の錣を取りはづし・・」と景清が三保の谷と、屋島の合戦で錣引きをした場面があるが、その跡と言われる。このあたり弓流し、扇の的など源平合戦の古蹟が多いが、詳細は「八島」のときにしたい。この錣引跡にも説明が記される予定なのだろうが、まだ完成しておらず枠組みだけしか出来ていなかった。

錣引きの址 錣引跡 香川県牟礼町 (平6.9) 景清が三保の谷と、屋島の合戦で錣引きをしたところ

京都市の謡蹟   (平13・6記)

京都市東山区の六波羅蜜寺境内に阿古屋塚がある。曲中「熱田にて遊女と相馴れ・・・」とある遊女は京都にいたころ馴染んだ清水坂の美妓阿古屋といわれ、六波羅蜜寺の境内には阿古屋塚のほか、阿古屋地蔵もあるという。
また清水寺の境内には景清爪形観音がある。壇ノ浦を逃れた景清は音羽山に潜み、頼朝に一矢酬いようと石に爪で観音像を彫り成就を祈った。頼朝上洛の報を聞きこれを狙ったが果たせず、捕らえられて九州に流されたという。その彫刻した像が観音像として石灯籠の中に置かれている。

六波羅密寺 六波羅蜜寺 京都市東山区轆轤町 (平7.9) ここに阿古屋観音と阿古屋塚がある

阿古屋塚 阿古屋塚 六波羅蜜寺 (平7.9) 景清の愛人阿古屋を祀る

爪形観音 景清爪形観音 京都市東山区清水 清水寺 (平7.9) 景清が爪で彫った観音像が灯籠の中に安置される 

愛知県の謡蹟  (平7・3記)

愛知県大府市の常福寺は、景清が晩年隠栖し没した所と伝えられる。寺の裏山に生目八幡宮と称する小祠があり、景清の墓ともいわれる。途中の小道のわきに御神詠の歌碑があり、
   かげ清く照らす生目の水かがみ  末の世までも雲らざりけり
と刻まれ、裏面には
「 寺伝によれば御神詠を毎朝三回奉称祈念すれば決して眼病を患わないと伝承されています。
  生目八幡常福寺  景清七百五十年記念  奉納  伴さと       」
と記されている。

常福寺には景清が彫ったといわれる千手観音が安置されているという。建物も新しく、境内も立派に整備されている。この寺と芦沢の井の由来が石に刻まれているので紹介する。

「          当山と芦沢の井の由来
平家滅亡後、景清は当所に隠棲湧出せる水を使用し娘の安否並びに一門の供養を念じ読経満願の一夜霊夢に依り九十六文字の観音経を授かり驚喜尊容を感得し千手観音像を彫作安置せり。常福寺の本尊は即ち此なり。
開基は景清公にして右観音経の現本尊は同寺に重宝として現存せり。
古来芦沢の井に湧出せる霊水は御神水として眼病に不思議の霊験有りて遠近より平癒祈願する信者多くありて名高し。 」

芦沢の井の場所がわからないので住職に教えていただく。少し離れているがすぐに分かった。老婆がお参りに来ていたが、毎日参詣しているのだそうだ。ここにも生目八幡のと同じ「御神詠」の歌碑があるが、ここのは
「かげ清く..」ではなく、「景清く・・」と景清の名をそのまま使っているのに感心した。ここにも景清社と称する景清を祀った小さな祠が建っている。

常福寺 常福寺 愛知県大府市吉田 (平7.2) 景清が晩年陰栖し没した所と伝えられる

生目八幡石碑 生目八幡石塔 常福寺 (平7.2) 史蹟 生目八幡宮 景清公墓所と刻まれている

景清社(大府市) 景清の墓 常福寺 (平7.2) 小さな祠で生目八幡宮、景清の墓所という

芦沢の井 芦沢の井 常福寺近く (平7.2) 眼病に霊験あり祈願する信者多いという

景清社大府市 景清社 芦沢の井の中 (平7.2) こんもりした林の奥に小さな祠が立っている

名古屋市熱田区神戸町にある景清社は、景清が熱田にいた頃の住居址とも、娘の人丸とともに一時潜伏していたところともいう。
名古屋教育委員会の案内板には
「 平家没落後、縁あって熱田の地に隠れ住んだといわれる。謡曲「景清」では『尾張の国熱田にて遊女と相馴れ一人の子を設く』とうたわれている。後年、景清は眼病を患い、失明したという伝説から、この景清社は、眼病に霊験があるとして信仰が篤い 」 とある。
近くには「七里の渡し」があり、桑名までの船着場として栄えたところのようで、現在もその名残りを残し、美しい眺めである。景清もこの渡しを利用して日本の各地に往来したことであろう。

景清社名古屋 景清社 名古屋市熱田区神戸町 (平7.2) 景清が熱田にいたころの住居址という

七里の渡し 七里の渡し 名古屋市熱田区 (平7.2) 景清もこの渡しを利用して各地に往来したことであろう

鎌倉市の謡蹟  (平13・6記)

鎌倉市大町の田代寺(安養院)に景清の娘人丸の墓がある。曲中に「女子なれば何の用に立つべきぞと思ひ、鎌倉亀が江が谷の長に預け置きしが・・・」とあるように鎌倉雪の下に人丸邸跡あり、ここに人丸の墓があったが、後にこの寺に移された由である。
また、鎌倉市扇ケ谷の海蔵寺の近く、化粧坂に向うあたりに景清土牢址がある。捕えられた景清が入れられた牢とのことで、崩れかかっているが中に「水鑑景清大居士」の碑が立っている。

人丸の墓宮崎 人丸の墓 鎌倉市大町 田代寺(安養院) (平10.1) 景清の娘人丸の墓という

安養院 田代寺(安養院) 鎌倉市大町 (平1.8) 人丸の墓がある

景清土牢址 景清土牢址 鎌倉市扇ケ谷 (平13.4) 「水鑑景清大居士」の碑が立っている

千葉県の謡蹟   (平7・3記)

千葉県大原町の布施塚(景清塚)が、景清生誕の地ともいわれ、土地の人から「景清さま」ともいわれているとのことで訪ねてみた。
このあたり国道からはだいぶ離れており、田園風景がどこまでも続いている。下布施の地名を頼りにあちこち車を走らせた末、道路沿いにようやく「布施塚の石塔」の標識を発見した時はほっとした。小高い丘の上にあるようである。下調べの写真で見たような、崩れかかった低い瓦屋根の小屋を想像していたのだが、目に入ってきたのは、コンクリートブロックに囲まれた小屋で謡蹟にはちょっとそぐわない感じである。
残念ながら景清の文字は見当たらない。学術調査の結果上総介広常の供養塔とわかったとのことであるが、上総介は「殺生石」に登場してくるから謡曲とは無縁ではない。
木更津市の景清陣屋址も景清生誕の地といわれるが、探すのに手間どった。青木実氏の「謡蹟めぐり」には「かずさきよかわ駅」から線路に沿って二百メートル程進んだ左側水田の、彼方にある森の中にあって」と書いてあるのだが、土地の人10人くらいに聞いてもわからない。水田の彼方の森というのを手掛かりに歩き廻ってようやく見つけることができた。たしかに説明しにくい場所ではあるが、それにしても土地の人の無関心さがうらめしい。説明板には次のように書かれている。

「        景清陣屋跡
平景清は平氏の勇将で藤原忠清の子として、夷隅郡大原町千光寺谷で生れ、幼名千光丸と称しました。景清が長じてこの地に陣屋を構えたと伝えられ当時の遺物と称する甲胄、刀剣等が伝えられ、又井尻に当時利用したと伝えられる景清井戸も残っております。
寿永2年平維盛に従って源義仲追討軍に加わったが敗北し、この年7月に平氏一族が都落ちするに及んで行を共にしました。小櫃川河川改修工事によりこの地に移転しました。   昭和48年4月20日    」

一宮町円明寺にある平景清碑は、一宮町横山町市川喜作氏方にあったものを、昭和54、千葉県と一宮町文化財委員の尽力により、この円明寺に移されたという。寛政11年の建碑で、碑には漢文で顕頌文が刻まれている。

布施塚 布施塚石塔(景清塚) 千葉県大原町下布施 (平6.11) 調査の結果上総介広常の供養塔とわかったとのこと

景清陣屋址 景清陣屋址 千葉県木更津市菅生 (平6.11) 景清が長じてこの地に陣屋を構えたと伝えられる

平景清碑 平景清碑 千葉県一宮町一宮 円明寺 (平6.11) 写真の中央やや左にある石碑だが私には読めなかった


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