宇治十帖歌碑

謡蹟めぐり  源氏供養2 源氏物語・宇治十帖史跡

源氏物語・宇治十帖史跡   (平5・6記)

謡曲の中には源氏物語を主題にしたものがかなり多い。また、本曲のクセには源氏物語の巻名が沢山読み込まれている。なんとか源氏物語全巻を通読してみたいと思うのだがなかなか容易ではない。たまたま木本誠二氏がその著書「謡曲ゆかりの古蹟大成」の中で謡曲関係の物語を中心に概略を書いておられるので、参考のため掲げてみる。

源氏は桐壷の帝と身分の高くない更衣との間にできた皇子で、三歳のとき母に死別したが驚くほどの才智と美貌に恵まれて育った。臣籍に降下させて源氏の名を賜わり「須磨源氏」に謡われる通り、高麗の人相見の言葉から、光君、光源氏と呼ばれた。十二歳で元服、葵の上と結婚したが、亡母に似た父帝の中宮藤壷を慕う心が強かった。後に人妻の空蝉に思いを寄せたが成就せず、帝の弟の妻で夫に死別した六条の御息所(みやすどころ)と馴染んだのであるが、その宿に通う途中に立ち寄った家で夕顔と懇ろとなり、「夕顔」「半蔀」に謡われるとおり、夕顔は間もなく六条御息所の怨霊と想定される妖怪にとり殺される。この夕顔と、源氏の親友で葵の上の兄である頭中将との間には娘の玉鬘が生まれており、後に「玉葛」の曲の主人公となる。

源氏は前述の藤壷を慕い、遂に不義の子が帝の皇子として生まれるが、このことは源氏の生涯に罪の意識を拭い切れない大きい傷跡を残す。その後末摘花、朧月夜などの女性とも交渉があった後、藤壷の兄兵部卿の娘紫の上が生育してこれと結婚するのであるが、その前に「葵上」「野宮」に描かれる通り、葵の上は嫉妬と賀茂の祭の恥辱を根にもった六条御息所の生霊に悩まされ、源氏の息夕霧を出産した後息絶える。その後斎宮に立った娘と共に伊勢に下る御息所が、野宮に籠っている時も、源氏が御息所を訪ねたことは「野宮」に謡われている。

一方、主上に仕える内侍所の長である朧月夜との重なる情事が露見して、源氏失脚の策謀が進められ、遂に源氏は自ら須磨の浦に謫居する。その古蹟が須磨の現光寺で光源氏謫庵址の碑がある。翌年明石に移って明石の上と馴染み、ここにも「住吉詣」に掲げる多くの古蹟がある。

やがて都に召還され、その後は順調に位階も進み、それぞれの女性に囲まれて栄華を楽しむのであり、以上が第一部の前半と言うことができる。

後半の乙女の巻以後は、源氏と葵の上の子の夕霧、頭中将(後の内大臣)の娘雲井の雁、前述の玉鬘、実兄の柏木、などの源氏周辺の物語が平行して描かれ、遂に藤裏葉の巻で源氏は太上天皇となり栄華を極めることになる。

第二部で朱雀院女三の宮を妻としてから、源氏の運命にも暗い翳がさし始め、朧月夜とも旧交を温めたが、「落葉」に描かれまた「遊行柳」にも引用される通り、柏木が女三の宮に恋慕して男子を設ける。これが源氏の子として育てられるけれども、実は柏木の不義の子、薫大将であり、柏木は罪意識に悩みぬいて遂に死亡する。後事を托した夕霧(源氏の子)が柏木の妻であった落葉に恋慕して小野に通う条が「落葉」に描かれている。一方薫君も後に自分が源氏の子でなく、不義の子であることを知り、第三部での薫君の人生観に暗い翳を添えるのである。

やがて紫の上も病没し、源氏は世の儚さが身に沁みて、すべての女性関係の手紙も破棄し焼却して、出家遁世の準備をする。

ここで源氏逝去を仄めかす雲隠に続き第三部に入るが、その始めの三巻は前述の薫君と、孫に当る匂の宮を描き、柏木の弟の娘や、玉鬘の娘などを描いたつなぎの部とみられ、橋姫の巻以下の十巻がいわゆる宇治十帖と呼ばれている。これは宇治に失意の生活を送る桐壷帝の八の宮(源氏の異母弟)の娘二人と薫君と匂宮の交渉から、娘の異母妹浮舟をめぐる薫君と多情な匂宮との葛藤が薫君を主人公として描かれ、「浮舟」に謡われる通りである。結局浮舟は出家して尼となり、薫君の手紙にも答えず、源氏物語も終末となる。」

源氏物語宇治十帖の散策  宇治市      (平8・11記)

源氏物語に関連して、宇治市に宇治十帖の散策コースがあることを知り、本年4月訪ねてみた。他流には「浮舟」など該当する曲もあるが、宝生流には該当する曲がないので便宜上ここでとりあげ、宇治市発行の「源氏物語宇治十帖 散策の道」から抜粋して紹介し、自分で撮った写真も掲げてみたいと思う。

「宇治十帖」と称される最後の十巻は、随一の主人公光源氏亡きあと、その子薫と孫匂宮という二人の男性に、落魄した八宮の姫君三人がめぐる恋がたり。主なる背景を宇治にすえ、艶やかさにもまして、一層哀しい恋のさやあてがしっとりと繰り広げられる。

宇治十帖散策地図

見どころがわかりやすく示されているので、参考までに添付する。

宇治十帖地図 宇治十帖散策地図 宇治の見どころが分かりやすく示されている

第45帖  橋姫(はしひめ)  橋姫神社

橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞぬれぬる  (薫)

宇治橋西詰めに近い橋姫神社の境内に「橋姫」の古跡がある。橋姫神社は瀬織津姫を祀った小祠。もともと瀬織津姫すなわち橋姫は橋の守護神として、宇治橋三の間の張り出しに祀られていたが、たびたびの洪水で社殿が失われたため、宇治橋西詰めへ、さらに現在のところに移った。
縁切りの神として有名だが、宇治十帖にでてくる歌の「橋姫」は、宇治の姫君のことを「愛(は)し姫」とかけて詠まれている。

橋姫神社 橋姫(はしひめ)の古跡 橋姫神社 (平8.4)

第46帖  椎本(しいがもと) 彼方(おちかた)神社

たちよらむ蔭と頼みし椎が本 むなしき床になりにけるかな (薫)

京阪宇治駅の東、静かな家並みに囲まれた彼方神社が「椎本」の古跡である。社前の灯篭に諏訪大明神とあるように、水と風の神にちなんだ神社で、宇治川に寄せた信仰があったと考えられる。
椎の木は都では馴染み薄い樹木である。それが亡き八宮を偲ぶ薫の歌に詠まれていることに、宇治ののびやかな自然が感じられる。残念ながら彼方神社に椎の木は残っていないが、野趣あふれるたたずまいは今も残っている。

彼方神社 椎本(しいがもと)の古跡 彼方(おちかた)神社 (平8.4)

第47帖  総角(あげまき)  総角の古跡(碑)

総角に長き契りを結びこめ おなじ所によりもあはなん   (薫)

宇治上神社の北、緑深い大吉山の登り口に「総角の古蹟」と記された石碑が立っている。物語では姫君たちの住まいを宇治川の右岸、夕霧領地(平等院周辺)の対岸と設定。宇治神社と宇治上神社のあたりで、古くは宇治離宮があったと伝えられている。
恋の約束を総角−名香の糸の結び目−に込めて、薫が贈った大君への歌を思いおこすとき、そのかぐわしい香りが木々の間から立ちこめてくるようである。

総角古蹟 総角(あげまき)の古跡 (平8.4)

第48帖  早蕨(さわらび)  早蕨の古跡(碑)

この春はたれにか見せむ亡き人の かたみにつめる峰の早蕨  (中君)

離宮下社または若宮社などと呼ばれる宇治神社。その赤い鳥居をくぐり、拝殿の左手の道を山手のほうへ、宇治上神社に向かう道の途中で「早蕨」の碑に出会う。あたりは緑のなかのハイキングコース。物語では春の明るい日差しとはうらはらに、姉上の亡きあと暗く悲しみに沈む中君が蕨を歌に詠む。この歌にちなむかのように、古跡一帯は春、蕨の芽があちらこちらにのぞく気配に満ちている。

早蕨古蹟 早蕨(さわらび)の古跡 (平8.4)

第49帖  宿木(やどりき)  宿木の古跡(碑)

宿りきと思い出でずば木のもとの 旅寝もいかに寂しからまし (薫)

宇治川の左岸を上流へ、優美な寝殿造りで知られる平等院を経て、400米ほど歩いたところにあるのが「宿木」の古跡である。
ヒノキなどの木の枝に寄生する植物が宿木。宇治川のほとりでは多く見ることができ、物語では薫が大君へのやるせない思いを宿木に込めて歌を詠んでいる。この巻では宿木のほか、ススキ、ツタ、イチイなどの植物の名が登場し、宇治川をとりまく豊かな自然が表現されている。

宿木古蹟 宿木(やどりき)の古跡 (平8.4)

第50帖  東屋(あづまや)  東屋の古跡(石仏)

さしとむる葎やしげき東屋の あまり程ふる雨そそぎかな  (薫)

京阪宇治駅の東にある一体の石仏が「東屋」の古跡である。石仏は鎌倉時代後半に花崗岩に刻まれた聖観音菩薩。風化は進んでいるが宝冠をつけ、左手には蓮華を抱き、桜の木を前にして優しく柔和な表情を浮かべている。「東屋観音」と呼ばれて多くの参詣者が集まる。
物語の東屋は、浮舟がかくまわれるように住んでいた京の都の小さな家。浮舟を宇治に迎え、優しく見守って暮らすことを決心した薫は東屋におもむく。

東屋古蹟 東屋(あづまや)の古跡 (平8.4)

第51帖  浮舟(うきふね)  浮舟の古跡(碑)(三室戸寺)

たちばなの小島は色もかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ  (浮舟)

西国三十三カ所札所の一つ、観音信仰で知られる三室戸寺。美しい緑の中に続く参道を行くと、鐘楼横に「浮舟」の古跡がある。
その昔は奈良街道沿いに水上交通の守護神を祀る波戸の浮舟社としてあったが、江戸時代に廃社となり三室戸寺へ。明治時代より今にいたるまでたびたび移転し、現在の地に落ち着いた。
物語の浮舟にも似て、数奇な運命をたどった碑であるといえる。

浮き舟古蹟 浮舟(うきふね)の古跡 三室戸寺 (平8.4)

第52帖  蜻蛉(かげろう)  蜻蛉の古跡(碑)

ありと見て手には取られず見れば又 ゆくへも知らず消えし蜻蛉  (薫)

三室戸寺から宇治橋に向かう小道の途中で出会うのが「蜻蛉」の古跡である。
はかなげな浮舟の姿を映して、「かげろう石」の愛称で親しまれているこの古蹟は、高さ2米ほどの自然石で、来迎阿弥陀三尊を刻んだ石仏。正面に阿弥陀如来、右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が座し、往生者を極楽浄土に導く樣を描いており、欣求浄土の精神が強かった藤原時代の作品とされている。

蜻蛉古蹟 蜻蛉(かげろう)の古跡 (平8.4)

第53帖  手習(てならい)  手習の古跡(碑)

身を投げし涙の川の早き瀬を しがらみかけて誰かとどめし  (浮舟)

京阪三室戸駅から三室戸寺へ向かう途中、府道にぶつかって右に折れた所に「手習」の古跡がある。
入水の決意を果たせず、高僧のもとで静かに手習いなどをして心を紛らわそうとした浮舟。この石碑はその浮舟が手習いのときに使った筆の穂先のような形をしている。昭和になってから立てられた古跡であるが、大きな榎に抱かれながら、静かに宇治散策の道先案内をしている。

手習古蹟 手習(てならい)の古跡(平8.4)

第54帖  夢浮橋(ゆめのうきはし)  夢の浮橋古跡(碑)

法の師とたづぬる道をしるべにて 思はぬ山に踏み惑ふかな  (薫)

流れの速い宇治川に優雅に横たわる宇治橋。大化2(646)年に最初に架けられ、数々の史話がここを渡って生まれ、消えていった。
現在の宇治橋は宇治散策の拠点で、一帯の風景を眺めたり、写真を撮るのに絶好の場所。そして橋のたもとには「夢の浮橋」の古跡がひっそりとたたずんでいる。橋で始まり、橋で終わる哀しい平安の物語は清らかな水音に流されていくようにしめくくられる。

夢浮き橋古蹟 夢浮橋(ゆめのうきはし)の古跡 (平8.4)

宇治十帖の彫像

宇治神社の下、宇治川にかかる朝霧橋のたもとに「源氏物語宇治十帖」と書かれた彫像があり、優雅な衣装は平安の昔を偲ばせてくれる。

宇治十帖の彫像 宇治十帖の彫像 (平8.4)

宇治十帖歌碑

「総角の古跡」あたりに与謝野晶子の筆になるという「宇治十帖の歌碑」がある。近くに建碑の経緯が記されている。

「     宇治十帖の歌碑によせて
与謝野晶子が夫の寛とともに山水景勝の地宇治を訪ねたのは大正13年10月14日のことであった。
幼少のころよりわが国の古典文学に親しみ、とりわけ「源氏物語」の魅力にひかれた晶子は紫式部を終生の師と仰ぎ、その現代語訳に渾身の熱情を注いだ。かくて昭和13年61歳のとき「新新訳源氏物語」全6巻の偉業をなし遂げた。
のみならず、晶子は「源氏物語」54帖を54首の詠歌で再構成した「源氏物語礼讃」によって歌人としての天分を発揮し、流麗典雅な筆蹟を歌帖や歌巻にとどめている。
「源氏物語」の舞台ともなったこの宇治の地に、晶子歿後50年、市制40年を記念して、ゆかりの「宇治十帖」10首が晶子の真筆によって刻まれることを心から慶賀するものである。
    1992年10月吉日          太田 登
  出典 源氏物語礼讃「明星」1922(大正11)年11月号
  筆蹟 与謝野晶子・堺市博物館所蔵巻物  」

宇治十帖歌碑 宇治十帖歌碑 (平8.4) 与謝野晶子の筆になるという


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