梶原の井戸

謡蹟めぐり  箙 えびら

ストーリー

九州の方から都見物に来た旅僧が途中摂津国生田川のほとりで色鮮やかに美しく咲いている梅の木に目をとめます。来合わせた男に問うと箙の梅だと答えるので、名前の由来を尋ねます。
その男は、源平合戦の時源氏方の若武者梶原源太景季が、折から咲き誇っていた梅花を手折って笠印のかわりに箙にさし、めざましい手柄を立てたので、箙の梅の名が残ったと答えます。そして、更に一ノ谷の合戦の様子を詳しく物語るので僧が不審に思っていると、自分は景季の亡霊だと名乗り、たそがれ時の梅の木陰に消え失せます。
土地の人から重ねて箙の梅の話を聞いた旅僧は奇特の思いに立ち去りかね、木陰で仮寝をします。すると、夢に武者姿の景季が現れ修羅場での苦患を見せ、また往昔の合戦でのめざましい戦いぶりを見せますが、夜明けと共に僧に回向を頼んで消え失せます。(「宝生の能」平成11年1月号より)

生田神社、箙の梅 (神戸市中央区下山手通) (平3・9記)

 神戸市、三宮駅のすぐ近くに生田の森があり、その中に立派な生田神社がある。
箙の梅は神社の右手にある。かなりの古い梅の木が大切に保存されており、近くに「えびらの梅」と彫られた大きな石と、案内板がある。その内容を紹介する。
『       謡曲「箙」と梶原景季
謡曲「箙」は、梶原景季が箙に梅をさして奮戦した様を描いた勝修羅物である。 
源平盛衰記には、源平一の谷合戦の時、梶原景時、景季父子は生田森で平家方の多勢に囲まれて奮戦した時の様子を『中にも景季は、心の剛も人に勝り、数奇たる道も優なりけり。咲き乱れたる梅が枝を箙(矢をさし入れて背中に負う武具)に副へてぞ挿したりける。かかれば花は散りけれども匂いは袖にぞ残るらん。「吹く風を何いといけむ梅の花、散り来る時ぞ香はまさりけり」という古き言までも思い出でければ平家の公達は花箙とて優なり、やさしと口々にぞ感じ給いける』と称讃の言葉で現わしている。戦場の凄まじさ、殺伐さの中に、風流な香をただよわせて、何とも表現のし難い風情である。
                     謡曲史跡保存会   』

この近くはすっかり市街地となっているが、生田神社はその中にあってかなり広い境内を確保している。その中にある生田の森は今もうっそうとしていて、私に昔を語りかけてくれるような気がする。

生田神社拝殿 生田神社 このあたりも源平合戦の場となった 神戸市中央区下山手通 (平2.5)

箙の梅 箙の梅 境内の右に梅の古木がある 生田神社 (平2.5)

箙の梅 その「えびらの梅」と刻まれた大きな石がある。 生田神社 (平2.5)

<追記 阪神大震災と生田神社 (平13・3記)>

その後生田神社は阪神大震災で倒壊した。修復工事中にも一度参詣したが、平成11年にお詣りした時はすっかり修復工事も完了し、以前にもまして華麗な拝殿や楼門を見ることが出来た。箙の梅や、梶原の井も残されていた。

生田神社楼門 生田神社楼門 以前にもました華麗になっていた (平11.9)

梶原の井戸 梶原の井 生田の森合戦の時梶原景時がこの井戸の水を掬い武運を祈ったとも言い、景季がこの水を掬った時箙の梅の花影が移ったともいう  生田神社 (平11.9)

梶原景時、景季 (平成13・3記)

景季は本曲のシテであり、父景時も「八島」に「渡邊にて景時が申ししも」と出ており、「調伏曽我」に「所司の別当梶原父子」と出ている。
景季は父景時とともに木曽義仲追討のおり、佐々木高綱とともに宇治川で先陣を争い、また生田の森では本曲に示すように奮戦した。
景時は石橋山の合戦で平家方ながら秘かに頼朝に心を寄せ大杉の洞に隠れた頼朝を庇って助けた。頼朝に仕えるようになってからは侍所所司となり、義経とともに上洛して木曽義仲を討ち、さらに西海へ平氏を追討して活躍した。強気一本の義経と相容れず逆櫓の論争などもあり、頼朝に讒言して義経を失脚させたとも伝えられる。
頼朝の意を体し御家人の非違を厳しく糾弾し頼朝に忠誠を尽くしたが、そのため多くの御家人の恨みを集め、頼朝の死後鎌倉を追われ、一族郎党30余人で西下の途中、駿河の狐崎で土豪に襲われ自刃、一行は悉く戦死した。
景時は悪者扱いされているけれども、実際は年配でもあり思慮も深く、和歌文筆にも勝れた現実的な駆け引きも心得た武人であったようだ。

万福寺、來福寺、梶原稲荷、するすみ、池月 (東京都)

大田区南馬込の万福寺は頼朝の命で景季の父景時が建立したもので、墓地に景時の墓があり、境内には景季は宇治川の先陣で乗った名馬「するすみ」の像がある。その昔馬込一帯は丘陵台地で馬の放牧が盛んであって、「するすみ」は馬込の産ともいわれる。
ここからそれほど遠くない、洗足池のほとり、千束八幡神社は「するすみ」の競争相手、宇治川の先陣を争った佐々木信綱またがる名馬「池月」発祥の地とし伝えられる。
神社境内の立て札には「源頼朝この千束郷の大池に軍を駐め近隣よりの味方の集るを待つ。この時何処方よりか一頭の野馬飛び来り、いななく声は天地を震わすばかりであった。郎党之を捕えて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく、青き毛並みに白き斑点を浮かべ、あたかも池に映る月影のようであったので、池月と命名して自分の乗馬とした。」とある。
また、大田区東大井にある來福寺も景時の創建と言われ、近くの梶原稲荷は景時が万福寺建立のとき境内に稲荷を勧請したが兵火のため焼かれ、ここに移転したと言われる。景時は悪者扱いされているけれども、実際は思慮も深く、和歌文筆にも優れて、このあたり一帯の人からは慕われていたようだ。

万福寺 万福寺 梶原景時が建立、その墓もある 大田区南馬込 (平5.1)

景時の墓 景時の墓 墓碑には「当山開基梶原景時公菩提塔」とある 万福寺 (平5.1)

するすみの像 名馬「するすみ」の像 景季が宇治川の先陣で乗った馬 万福寺   (平5.1)

来福寺 來福寺 景時の創建と伝える 大田区東大井 (平5.1)

梶原稲荷 梶原稲荷 景時勧請の稲荷 大田区東大井 来福寺裏 (平5.1)

梶原景時一族の墓、仏行寺、源太塚  (鎌倉市)

鎌倉市梶原にある深沢小学校は景時の邸址といわれ、その一隅に梶原景時一族の墓がある。また鎌倉市笛田の仏行寺の裏山には源太塚があり、景季の右腕を埋めたと言われ、近づくと祟りがあるとして敬遠されている。

梶原景時一族の墓 梶原景時一族の墓 深沢小学校の一隅にある 鎌倉市梶原 (平8.2)

仏行寺 仏行寺 この寺の裏山に源太塚があるという 鎌倉市笛田 (平8.2)

身代り地蔵 (神奈川県箱根町)

箱根の芦ノ湖湖畔の箱根神社一の鳥居付近の賽の河原の中に身代り地蔵がある。
景季は父景時の悪評に心を痛め、全国の地蔵を参詣行脚していたが、箱根芦ノ湖畔で地蔵に額いている時、父景時の間違われて刺客に襲われた。ところが右肩から左脇下にかけて斬られたのは景季でなく地蔵であったという。

身代わり地蔵 身代り地蔵 よく見ると切り傷らしきものが見える 箱根町 (平8.5)

梶原堂、一族の墓、高源寺、供養碑  (静岡県

清水市大内に梶原堂がある。頼朝の没後、鎌倉を追われた景時はこのあたりで土地の豪族たちに襲われ一族33名とともに壮絶な最後を遂げた。
梶原堂は梶原一族を祀るもので、傍らには梶原一族の墓がある。

梶原堂 梶原堂 何回かの復元により原形を保ってきたという。 清水市大内 (平9.2)

一族の墓梶原堂 梶原一族の墓 墓は景時、景季、景高のもの、右の五輪塔は供養塔とのこと 梶原堂 (平9.2)

清水市の高橋町には高源寺があり、境内には梶原一族の供養碑がある。
解説によると、碑の表面には「不盡乾坤燈外燈龍没」とあり側面には「三拾三人是也」と記されている。唐の詩人杜牧の詩の一節といわれ、禅家において「宗門第一の書」と尊重されている「碧巌録」「の標題に掲げられているものという。
禅の詩偈を用い、さらにはその末尾に「龍没」とあるようにこの碑には梶原一族の終焉に寄せる限りない追慕の憶いがこめられている。
碑の左のレリーフは再起を期して京都を目指した一族の勇姿を偲んだもの、また、碑の右の小さな地蔵は梶原の忠僕が、一族の没後この地を訪ね、主人の死を知って悲しみのあまり病気となり没した跡に里人が建てたと伝えられる「ウナリ地蔵」である。

高源寺 高源寺 梶原景時一族の供養碑がある 清水市高橋町 (平9.2)

一族供養碑 梶原景時一族の供養碑 碑の左がレリーフ、右に地蔵がある 高源寺 (平9.2)


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.