八つ塚

謡蹟めぐり  高野物狂2 衛門三郎伝説、徳城寺、川崎大師

河野衛門三郎伝説(四国霊場遍路)   (平成8・1記)

四国八十八ケ所の霊場巡拝は現在一種のブームのようになっているが、四国にはその遍路の開祖となった河野衛門三郎の伝説が伝えられている。
衛門三郎の菩提寺となっている松山市の文殊院徳盛寺を参詣した際、たまたま「遍路開祖 衛門三郎四行記」なる小冊子を入手することが出来た。26頁にわたり詳細に記述されているが、要約し紹介のこととする。

第一 弘法大師は唐から帰朝し、大同二年より四国霊場御創開に着手され九年の後に御山びらきとなった。その後天長元年大師は一人の弟子を連れて四国霊場最期の見回りに出かけた際、忽然として一人の童子現われ「尊師霊場を開くといえども人々未だ仏法に入り難く、願わくば邪見の輩を善導し拝所巡拝なさしめば末世の鑑みたるべし」と告げて何処ともなく失せてしまった。大師は山陰に一小寺を発見、ここに暫しの宿を請われた。ここが当山徳盛寺でさきの童子こそ文殊菩薩の化身で、この寺を文殊院と呼ぶ所以である。

第二 この地に大富豪河野衛門三郎という者、生来強欲非道にて村民を苦しめ召使いを虐げ、悪鬼長者と綽名されていた。大師はこのような悪人を善心にするこそ出家の本分、彼を救おうと決意する。大師は長者の門前で何度も托鉢を行ったが、三郎は托鉢の坊主が大師であるとも知らず「それほど物が欲しければこれを受け給え」と竹箒をとって上人の眉間をめがけて打つと、大師は鉄鉢でこれを受けたので鉄鉢は一撃の下に八つに破れて大地に落ち、破片は光明を放って虚空に舞い上がった。

第三 衛門三郎には八人の子供がいたが、他人に対しては悪鬼のような三郎でも我が子を愛することは人一倍で、坊さんの鉄鉢を打ち破った翌日のこと八人の子供を一室に集め、菓子果物を与えて楽しんでいた。ところが突然長男の太郎が頭が痛いと言い出し熱が高くなって死んでしまった。その翌日は次郎が同様に急病で死に、またその翌日には三男と五男三女の子供がことごとく死んでしまった。

第四 衛門三郎は昨日の歓楽にひきかえ今日は八つ墓の前に立って袖に涙を絞る悲痛な身となったが、不思議なことに八つの墓に夜な夜な何処からともなく土が飛んできて八つの塚が出来た。これは大師が山辺にお立ちになって八つの新墓が並べられるのを見て、あの子らは不憫な者であると、錫杖の柄でその土の上を手向けると大師の心が通じてその土が夜の間に飛んできて大きな八塚が自然に出来たのである。

第五 衛門三郎は八人の愛する子を失い、この世は仮りの世、老少は不定であることに目覚めた。またある夜の夢に
「 汝いたずらに嘆き悲しむことなかれ。汝が子八人とも頓死せしは我が鉄鉢を割り  たる報いなり。徳盛寺に地蔵尊ならびに我が像を安置しあればこれにより仏果を得  べし。汝一心に四国を巡逆となく二十一遍回るべし。その時対面して罪を許すべし。 」と告げがあった。
衛門三郎は前非を悔い、高僧の跡を尋ね面会して懺悔謝罪しようと思いたち、内室の同意を得て家屋敷を整理し、自分は白衣に杖笠の支度でわが家を立ち去った。これが遍路旅立ちの濫觴である。

第六 大師は一夜に八塚を築かれてからは毎日菩提を弔うため読経に日を送られていたが、やがて衛門三郎が自分の姿を求めて尋ねくることを予知するや、地蔵尊と自身の像を彫刻され何処ともなく立ち去った。衛門三郎は妻と永久の別れとなるとも知らず、先ず第一に菩提寺である徳盛寺に参詣し、大師御作の像に対し両手をあわせ必死に礼拝懺悔した。徳盛寺が遍路根本道場という理由の一つである。

第七 衛門三郎は大師が立ち帰るかもしれないと庭前の松の木の下に座り終夜念仏を唱えて待ったが、大師は戻らなかったので、夜のあけるのを待って矢立を取り出し、小さな紙に国所姓名および年月日を記して堂の前に貼り、「上人、もしここを通過されたら、衛門三郎今日初めて悪いということに気がつきましたので、謝罪のためまかり出ました。どこまでも尋ね回っております。」という気持ちで名札を納めた。これが今に行われる納め札の由来といわれる。

第八 徳盛寺を出発して数年を経たが大師に巡りあえず、用意の旅金も尽きて野山に臥し、人の門前に立って一粒半銭の法謝を受け漸く歩を移していたが、ある日大家の門前でかって自分が苦しめた同郷の人々にあい、さんざんに懲戒を加えられることとなる。しかしかっての三郎と異なりただ平伏して終始頭をさげ謝罪するばかりであった。

第九 衛門三郎は艱難辛苦のありったけを味わいつつ四国を二十度まで回ったけれどもまだ大師に逢うことができなかった。第十番阿波の切播寺でつくづく考えるにいくら後追いしても逢われないとすれば、むしろ逆に回れば逢えるかもしれないと八十八番讃岐大窪寺に出て逆路をたどって行くと、道後の町を後に見てふと向こうを見ると鉢降山が目前にそびえ右手の原には八塚がさびしく並んでいる。この村が自分の生まれ在所であると気がつくと、残しておいた女房は今頃どうしているか気がかりになってくる。
路傍の小さな茶店で茶をのんでいると八塚の彼方に煙が立ち登った。三郎の質問に茶店の老婆はこれには哀れな話があるとて語ってくれた。この村に衛門三郎という長者があって八人の子を失い遍路となって家出をした。その後に残った内室はその後尼となって塚のあたりに庵を結び墓参りに余念がなかったが、主人の三郎殿が家出以来足かけ八年なんの音信もなく、また帰ってもこないので、それが煩いの元となりとうとう今朝明け方に亡くなった。今見える煙は皆が集まり野辺の送りのあとの煙であると。
三郎は人の見ぬのを幸いに新墓地の前にいたり、あたかも生ける人に物言うがごとくしみじみと心の内を語り、夜もすがら妻の菩提を弔って夜のあけぬうちに八坂浄瑠璃寺の方向に向かって立ち去った。

第十 衛門三郎は一層の勇猛心を振るいおこし、土佐を経て阿波の国焼山寺(12番札所)の麓まで来たが遂に病に倒れ気を失ってしまった。その時微妙の声あって「三郎三郎」と呼ぶ者がある。その声に応じて目を開くと見なれぬ旅僧が立っている。
旅僧の言葉でこの方が弘法大師であることを知り、三郎は嬉しさ悲しさが一度に胸に迫り、声をあげて「上人さま許して下さいませ」と後は言葉もなく泣くばかりであった。大師は「汝は初一念を貫きとおしたから今は罪障ことごとく消滅して、汝が心は一大明鏡のこうこうと輝いているようだ。しかし汝が命も今日限りならば来世は汝が望み通りにさせてやるぞや」と仰せになる。三郎は涙を流しつつ「断絶せる我が家に再生の見込みはありませんが、総本家たる河野家になにとぞ再生させていただきたいものです。」と申せば、大師はその望みを叶えさせてやろうと、一つの小石を拾い「衛門三郎再生」と書き記し、左の手に握らせて法の如く加持すると三郎は眠るが如く安らかに逝去した。

第十一 それより何年かしてこの地方の豪族河野息利に男子が生まれ息方樣と命名されたが、その子は幾日たっても左の手を堅く握ったままで開かぬので、御祈願所の大徳を舘に招いて御加持を願った。大徳が加持して申すには「この御手は直には開きませんが、時節が到来したら必ず開きますから心配するには及びません」とのこと。もはやこの上方法はないのでそのままに年月を経過した。

第十二 河野伊予守の若君息方樣、御年三歳の春桜花爛漫の候に家臣一同を招き別殿で花見の宴を開いた。若君樣もお出ましになり、威儀を正して南の方に向い両手をあわせて南無遍照金剛と三度唱えられた。今まで堅く握りしめておられた御手を開いた拍子に手の中より小さな石が落ちたので、その石を拾い上げてみると「衛門三郎再生」と書いてある。一同どうしても開かなかった手が開いたばかりでなく、衛門三郎再生の玉の石をご覧になっては一層の感を抱かれた。若君は十五歳になるとお家を相続せられ伊予一カ国を領する伊予守に任官された。

第十三 伊予守河野息方樣は幼少の頃より、お生れ以来の樣子を聞いていたので、自分は衛門三郎の生れ替りであることを知り、弘法大師様にはご恩報じの道を尽くさねばならぬと思い、彼のご祈願所安養寺をご再建され、ご自身が握ってお生まれなされた玉の石を同寺へお納めになった因縁により石手寺と名づけられたのが、第51番の札所である。

だいぶ長い要約となってしまったが、四国霊場八十八カ所巡りの理解に少しでも役立てば幸いである。私自身まだ松山市と善通寺市にある一部の霊場しか巡ってはいないが、機会を得て全部巡ってみたいものである。ちなみに遍路道の全長は役140キロ、徒歩でまわると男性で40日、女性で50日かかると云われる。88という数字は男の厄42と女の厄33、子供の厄13をあわせたものともいわれる。

次にこの伝説に関する謡蹟を掲げる。

文殊院徳盛寺(衛門三郎屋敷址)  松山市恵原町

弘法大師が衛門三郎の子供の供養をされた寺で、本堂には大師が刻まれたご自身のお姿と延命子育地蔵尊を祀り、四国遍路元祖、河野衛門三郎の物語を記した巻物も保存されている。

徳盛寺 文殊院徳盛寺(衛門三郎屋敷址)  松山市恵原町 (平6.9) 大師が衛門三郎の子供の供養をされた寺

河野衛門三郎、妻女の像  松山市恵原町 文殊院徳盛寺境内

この伝説の主人公河野衛門三郎と、彼の遍路出立に快く同意して送り出したがこれが永久の別れとなった薄倖の妻女の石像が寺の境内に建てられている。

衛門三郎妻女の像 衛門三郎、妻女の像 徳盛寺境内 (平6.9) 二人の像が寺の境内に建てられている

衛門三郎八つ塚   松山市恵原町

相ついで死んだ八人の子を憐れんで弘法大師が一夜に作ったものといわれる。

八つ塚 衛門三郎八つ塚  松山市恵原町 (平6.9) 相ついで死んだ8人の子を憐れんで大師が一夜で作ったといわれる

石手寺、衛門三郎の像、衛門三郎玉の石  松山市石手 石手寺

石手寺は四国霊場第51番の札所ともなっており、松山地方の大師信仰の中心として善男善女の参詣はあとをたたない。寺の入口には衛門三郎の巡礼姿の石像があり、大講堂の正面には寺宝の「衛門三郎玉の石」が安置されている。

石手寺 石手寺  松山市石手 (平6.9 衛門三郎ゆかりの寺

衛門三郎像 衛門三郎の像  石手寺 (平6.9) 寺の入り口に衛門三郎の巡礼姿の石像がある

衛門三郎玉の石 衛門三郎玉の石  石手寺 (平6.9) 寺の大講堂の正面に安置されている

徳城寺と錫杖井戸  愛知県豊川市 (平成8・1記)

愛知県豊川市の徳城寺に錫杖井戸というのがある。その由来を紹介する。
『 この井戸は平安朝の昔第52代嵯峨天皇の弘仁13年、弘法大師が諸国巡錫の途中当地に立ち寄り冷水を所望された。このあたり一帯は水の少ないところで遠く川岸まで水を汲みに行って大師に差し上げた。大師は美味しいと言われ水を飲まれた。「さてさてこの里は水の不自由な里かな」といわれ、錫杖で地面を掘るときれいな水がこんこんと湧き出た。その時以来満々と清水はたたえられている。付近の住民の井戸は深さ9米余りあったが、日照りが続くと水が枯れて住民たちは苦しんだ。この錫杖井戸はわずか1、2米ほどの深さであるのに昔から枯れたことは一度もない不思議な井戸である。この井戸水を服用して諸種の病気を治癒した例も少なくなく大勢の人々が救われた。今も当寺のこの井戸にお参りする人の数は多く3月21日の大師の命日には大祭が催されこの井戸水で作った甘酒が振る舞われている。 』

徳城寺 徳城寺  豊川市 (平7.2) 境内に錫杖の井戸がある

錫杖井戸 錫杖の井戸  徳城寺 (平7.2) 大師が錫杖で地面を堀るときれいな水が湧き出た

錫杖水 錫杖水  徳城寺 (平7.2) 今もお堂の中にこの井戸が祀られている

川崎大師初詣で         (平成8・1記)

川崎大師も弘法大師ゆかりの寺であり、何回か初詣でに出かけているので、写真を探してみたが思うようなものが見あたらない。混雑がひどかったり、日が暮れてしまったりで満足な写真が撮れなかったようだ。
そこで今年は初詣でと写真撮影を兼ねて出かけてみた。相変わらずのすごい混雑であったが天候にも恵まれ、境内もあちこち巡って写真を撮り、由緒書もいただいてきたので、弘法大師に関連するものを紹介する。

川崎大師(平間寺)本堂、五重の塔  川崎大師

崇徳天皇の御代、平間兼乗という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しいくらしを立てていた。兼乗は深く弘法大師を崇信していたが、ある夜、ひとりの高僧が夢まくらに立ち「我むかし唐にありしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられた。
兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投ずると一体の木像が引き揚げられた。それは、大師の尊像であった。兼乗はこの像を浄めささやかな草庵をむすんで、供養を怠らなかった。
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像とこれにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに一寺を建立、兼乗の姓・平間をもって平間寺と号し、ご本尊を厄除弘法大師と称した。これが今日の大本山・川崎大師平間寺のおこりであるという。

川崎大師 川崎大師(平間寺)本堂  川崎市川崎区 (平8.1) 高僧のお告げにより海中より弘法大師の木像を引き揚げ祀ったのが起源という

五重の當川崎大師 五重の塔  川崎大師 (平8.1) 昭和59年本堂わきに建立された

遍路大師尊像、弘法大師いろは碑  川崎大師

境内には昭和48年の弘法大師ご誕生1200年記念事業として建立された、遍路大師尊像があり、健康、健脚を祈念して、献水する人が多く、また併せて創設された、新四国八十八カ所霊場には、当山貫首が四国霊場巡拝の際にいただいてこられた「お砂」が埋められ「お砂踏み」として参拝されている。私もまだ行っていない四国霊場を参拝する気持ちで八十八カ所をお参りしてきた。
また、境内には弘法大師が国字を発明されたのを記念して大正5年に建立された「いろは」碑も見られる。

遍路大師尊像 遍路大師尊像  川崎大師 (平8.1) 境内には大師像、四国霊場などもある

いろは碑 弘法大師「いろは碑」 川崎大師 (平8.1) 大師が国字を発明されたのを記念して建立された


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