謡蹟めぐり  咸陽宮 かんにょうきゅう

ストーリー

秦の始皇帝は予て燕の国の地図と、樊於期の首とを賞金をかけて天下に求めました。この機会を利用して始皇帝を討とうと謀った燕国の志士の荊軻と秦舞陽じじは幾山河を越えてはるばると咸陽宮に参着しました。荘厳華麗な御殿の有様に、二人は憶し帰ろうとしますが、気分を奮い立たせて皇帝と対面します。
荊軻は先ず樊於期の首を、続いて秦舞陽荊軻は地図の箱を奉ります。この時箱の底に隠されてあった剣の光に気付いた皇帝は、身の危険を感じて逃れようとしますが、捕らえられてしまいます。皇帝はいまは最期の際故、花陽夫人の琴を聞いて死にたいと言います。荊軻はこれを許し、夫人は琴の歌詞に託して帝に脱出を勧めます。この素晴らしい琴の音色に荊軻らも酔えるが如くに聞き入るすきに皇帝は袖を引きちぎって逃れ、この二人は捕らえられ、八つ裂きにされてしまいます。(「宝生の能」平成12年10月号より)

書籍、インターネットで探る咸陽宮謡蹟 (平18・12記)

中国の謡蹟は訪ねたことがないので、「邯鄲」と同様書籍やインターネットで調べた概要を報告する。

小倉正久著「謡曲紀行」(白竜社刊)

秦咸陽城遺址(狭西省咸陽市郊外)、阿房宮(西安市西郊)、秦の始皇帝稜(西安の東)など。咸陽市郊外では宮殿の復元図も試みられており、「秦咸陽城遺址」の碑も建てられている様子。西安の阿房宮は立派に復元されたようで、その正殿前に立つ始皇帝の像の写真もある。なお、西安から36キロ離れた驪山(りさん)の麓にある始皇帝稜、兵馬俑のことなども紹介されている。

「中国の古都西安の謡跡探訪     中部電力 中国謡跡探訪団 大坪重遠

http://otsubo.info/s_contents/china-chuden.html

これはインターネットからのもの。
平成10年9月、中部電力謡曲部の現役、OB12名が6日間の行程で西安市近傍の謡蹟を訪ねた記録の要約である。

「スケジュール 第1日 名古屋〜上海〜西安(泊) 第2日 兵馬俑〜始皇帝稜〜華清池〜興慶宮跡〜西の城門(泊)  第3日 阿房宮跡〜楊貴妃墓〜茂稜〜咸陽宮跡〜(泊)  第4日 西安〜北京〜八達嶺・萬里の長城〜定陵〜天安門広場(泊)  第5日 故宮〜空港〜上海〜ガーデンブリッジ〜外灘(泊)  第6日 上海〜名古屋

「まず皮切りは、有名な兵馬俑を見た帰り道に、楊貴妃と玄宗皇帝とが愛の日々を送った温泉別荘地、華清池に立ち寄った。池の中の亭に通ずる石橋の上で「楊貴妃」の一節を吟じた。・・・

阿房宮では「天鼓」の一節を謡った。地元のガイドがこの辺り全部が阿房宮跡だと言うので、つとある墳丘の上で謡った。西安市の東西わずかのところで、ただ一面のとうもろこしの畑であった。
咸陽宮も場所がはっきりしなかった。昼飯にビールを飲み、車中でうとうと居眠っていたところ、いきなりガイドの起こされ「このあたり一面が咸陽宮だ」と宣言された。ここもまた、ただ海のようにとうもろこし畑が広がっている。あまりに心もとなく、地元の人に聞きまくり、車で相当の距離を行きつ戻りつして、やっと咸陽宮博物館に行き着いた。・・・博物館の前の畑で、「咸陽宮」全曲を謡った。
楊貴妃の墓では、ほとんど訪問者がいないのをこれ幸いと、心静かに「楊貴妃」の後半をじっくりと謡った。墓は西安市から西へ約50キロ、大平原の中に、ようやく丘陵が現れる辺りにある。古くは、お墓の土を顔に塗ると美しくなると言い伝えられ、採る人が絶えなかったという。いまは煉瓦とコンクリートで固めれれている。また、大きな大理石の楊貴妃像が立っていた。
阿房宮、咸陽宮のほか陵墓などの「都の周り一万八千三百余里、内裏ハ地より三里高く」式(原文のまま)の記述が、現状とどのように結びつくのか、将来、考古学的な調査が進んで、段々明らかになって来よう。 」

私が行きたいと願っていた所をこのようにして廻った人もいるのを知りびっくりした。華清池、楊貴妃の墓、始皇帝の陵など是非見たいのもである。ただ阿房宮の跡、咸陽宮の跡と言っても、ただとうもろこしの畑が連なっているだけというのは興ざめである。でも、この記録は8年前のものだから、現在は小倉氏が見たように随分変わっているのかも知れない。

西安旅行 − 咸陽市博物館

http://www.i-live.ne.jp/~jkimura/seian/subpage3-c.html

これもインターネットからのもの。
咸陽市のあたりに渭水という川が流れており、しかも私の大好きな漢詩が出ているので抜粋してみた。

「茂陵に別れ西安に戻る途中、咸陽市を通り「咸陽市博物館」に立ち寄った。西安市の西を流れる川が渭水で、川を隔てた対岸が咸陽市である。
中国では昔から旅に出る人を送る詩として知られ、わが国では詩吟で吟じられいる、王維の詩
「渭城の曲」に出てくる。

渭城の朝雨 軽塵をうるおす
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた 陽関を出ずれば 故人無からん

意味は読んで字の通りで、
“渭城に降る雨は軽い埃をしっとりとうるおす。”
“旅館の柳は青々と、雨に洗われてひときは鮮やかだ。”
“さあ、君、もう一杯空けてくれたまえ。”
“西の方、陽関を出てしまえば、もう酒を酌み交わす友人も居ないだろうから。”
と、云うことで「渭城」は今の咸陽市、西方に旅する時は西安(長安)からここまで見送る習慣があったと云う。
当初、長安は秦の始皇帝が咸陽市北郊の黄土台地に咸陽宮を造営した時に始まる訳だが、今では跡は無く、近郊から豊富に出土する秦・漢時代の遺物がこの博物館に収められている。 」


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.