時頼つつじ

謡蹟めぐり  鉢木2 北条時頼関係

北条時頼関係の謡蹟 (平10.5記)

明月院、時頼の墓   鎌倉市山ノ内

「あじさい寺」として有名な明月院に時頼の廟所とともに時頼の墓がある。
時頼は北条五代の執権である。出家する前に鎌倉の地に建長寺を建立していたが、出家の年にその境内に最明寺を建てて隠栖した。その跡が現在の明月院である。寺には時頼公の座像もあるとのこと。

明月院 明月院 鎌倉市 (平3.5)

時頼の墓鎌倉 時頼の墓 (平3.5)

最明寺、時頼の墓   静岡県伊豆長岡町長岡

伊豆長岡町一帯は北条氏の祖先発祥の地として、時頼にも縁の深い地である。最明寺は時頼も留錫した跡であり、境内の時頼の墓は没後里人が時頼の徳を慕い、その分骨を幕府に願ってこの地に建てたものという。
傍らには萩原麦草の句碑があり、「最明寺 時頼よりの 時雨ふる」と刻まれている。麦草は明治27年伊豆長岡町に生まれ、若くして俳句の道に入り、上京して中央俳壇にも知られるようになった。戦後故郷に戻り郷土の俳句指導に尽力された。昭和52年、弟子、友人達によって句碑が建てられたという。

最明寺伊豆 最明寺 伊豆長岡市 (平7.4)

時頼の墓伊豆 時頼の墓 (平7.4)

春草句碑 萩原麦草の句碑 (平7.4)

海晏寺、時頼供養塔   品川区南品川

鮫洲にある海晏寺は建長3年(1251)大井の漁夫が鮫の腹から取り出した千手観音を時頼が堂を建立して安置したところといわれ、境内に時頼供養塔がある。

海あん寺 海晏寺 品川区 (平5.1)

時頼供養塔 時頼供養塔 (平5.1)

最明寺、時頼ゆかりの歌碑 千葉県御宿町

千葉県御宿町の最明寺は時頼が巡遊の折、足をとどめた所といわれ、境内には時頼ゆかりの歌碑がある。碑面には
   みやとせし その時よりと 人とはば 網代の海に 夕影の松
とあり、御宿や網代の地名の由来と伝えられる。

最明寺千葉 最明寺 千葉県御宿町 (平6.11)

時頼歌碑 時頼ゆかりの歌碑 (平6.11)

法光寺、出逢坂、御坊塚   青森県名川町

名川町に時頼とこの地の捐城和尚にまつわる、「鉢木」に似たような物語が伝えられている。法光寺にその経緯を書いた案内板があるので要約して紹介する。

『 法光寺は平安時代に創立されたものであるが、鎌倉時代時頼がひそかに奥州行脚の折に名久井岳に登られ、夕陽をあびて観音寺と称する寺に一夜の宿を乞うたが、山主は応じてくれなく、やむなく山に登って一草庵をたづねて宿を乞うたところ、庵主は大いに喜んで迎え、饗応して一夜を過ごした。
時頼は庵主の歓待に深く感謝し、翌朝目がさめ、あたりを見たが庵主が見当らなかった。時頼は携えてきた扇面に「目通り壱千石、右永代可令知行也 最明寺時頼(花押)名久井山主玉峰捐城和尚殿」とかき、別面には「水結ぶ名久井が岳を眺むれば海よりいでて山に入る月」の一言を残して、名残り惜しげに庵を立ち、山を下る途中で庵主に逢った。庵主の言うには「恥ずかしながら今朝の飯糧がなかったので、お客人の目覚めぬうちに托鉢に出てこのように喜捨を受けて帰ったので再び庵に戻られるように」とねんごろに勧めた。
時頼はこのことに深く感激して鎌倉に帰られた。
時頼と庵主の逢われた処が「出逢坂」と称しており、またこの庵を夢想軒と称して今なお「古寺」としてその面影がある。
時頼が鎌倉に帰られるとすぐ、宮野玄蕃、板垣監物の両人を普請奉行として、大工、左官、鍛冶、木挽に至るまで派遣して、観音寺は命令をもって廃止し、その跡に七堂伽藍を建立して、法光寺と号して、開山には捐城和尚を請し、時頼自ら開基となられ、曹洞宗の道場を解説なされたと伝えられている。 』

出逢坂の堂の前には時頼の像と捐城和尚の像が向かい合って立っている。

法光寺 法光寺 青森県 (平6.6)

出会い坂堂 出逢坂の堂 (平6.6)

出逢坂と時頼 出逢坂と時頼(右)と捐城和尚の像(平6.6)

捐城和尚の像 捐城和尚の像(平6.6)

この物語には後日譚がある。前述の説明にもあるように、時頼は宿泊を断られた観音寺を取り壊させたが、その和尚の桂竺(けいじく)を生きたまま穴を掘って逆さ埋めにしたというのである。その地に御坊塚が建てられている。近くの案内板には「鎌倉時代北条時頼公が民情視察のため東北地方を回られた時、礼を失したるため、観音寺住職桂竺法印が逆さに生き埋めにされた所」とのみ記されている。

御坊塚 御坊塚 (平6.6)

唐糸塚、唐糸像   青森県藤崎町

この地には唐糸御前の伝説がある。唐糸御前は時頼の愛妾であったが、周囲の妬みを受けその讒言によりこの地に流された。時頼はその後出家し、最明寺入道と改名し津軽にもやってくることを聞き、唐糸は落魄の身を恥じて池に入水した。時頼はこの地に来て村人からこのことを聞き、懇ろに供養して唐糸山万蔵寺を建立した。この寺は現在は弘前市西茂森に移されている。
藤崎町の唐糸御前記念公園には、唐糸の塚や唐糸の像がある。

万蔵寺 万蔵寺 弘前市西茂森 (平18.6)

唐糸塚 唐糸塚 青森県藤崎町 唐糸御前記念公園 (平18.6)

唐糸像 唐糸の像 唐糸御前記念公園 (平18.6)

時頼手植えの松  蚶満寺  秋田県象潟町

時頼はこの地にも足をのばしており、蚶満寺に寺領を寄進したといわれる。境内には時頼手植えのつつじがある。

蚶満寺 蚶満寺 秋田県象潟町(現在にかほ市) (平16.6)

時頼つつじ 時頼手植えのつつじ 蚶満寺 (平16.6)

西明寺   愛知県豊川市八幡町

この西明寺は「石橋」の項で、大江定基と力寿姫ゆかりの寺として紹介したが、時頼ゆかりの寺でもある。時頼が諸国行脚の際、この寺にも足を留めそのときに、寺の名前そ最明寺と改めたという。その後戦国時代になって、徳川家康が八幡砦における今川氏との戦いの際この寺に立ち寄り、空腹をしのいだその恩顧を深く感じ、最の一字を西と改め西明寺とし、曹洞宗に改宗したと伝えられる。

西明寺豊川 西明寺 愛知県豊川市 (平7.2)

宝福禅寺、三重塔   岡山県総社市井出

総社市の宝福禅寺は雪舟が小僧として修行の時代、師僧の怒りに触れ柱に縛られ、落ちる涙で鼠の絵を描いたという寺である。この寺の三重塔は時頼が建てたものといわれる。

宝福禅寺 宝福禅寺 (岡山県総社市 (平9.9)

三重塔 宝福禅寺 三重塔 (平9.9)


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.