染めの井

謡蹟めぐり  当麻 たえま

ストーリー

ある念仏行者が紀州三熊野の帰途、大和二上山麓の当麻寺に詣でると、そこに信心深げな老尼と年若い女が来かります。
行者の尋ねに応じて老尼は中将姫が蓮の糸をすすいで清めたという染殿の井や、その糸を掛けて干したという桜の木を教え、また当麻曼陀羅の謂をとき、中将姫がこの山の籠って称賛浄土経読誦三昧にふけり、生身の弥陀を拝みたいと念じていたところ、ある夜、老尼の姿で弥陀が現れたことなどを語ります。今宵は二月十五日の彼岸の中日で、昔仏の化現された尼や女が法事のために夢で寺にきたのだと明かすとそのまま二上山の彼方へと立ち去ります。
行者が仏前に通夜をしていると中将姫の精霊が姿を現します。すると当麻曼陀羅がパノラマのように現前し、姫は舞いを舞い・十方世界を普く照らす弥陀の光は全ての衆生を西方浄土へ迎え給うかとみれば、夢の夜はほのぼのと明けて行くのでした。(「宝生の能」平成13年5月号より)

当麻寺  奈良県当麻町  (平9・4記)

当麻寺は本曲の舞台で、聖徳太子の弟麻呂子皇子の開基、当麻氏の氏寺として白鳳末期創建されたと伝えられる。
境内には中将姫の立像が池の中に建てられており、次のような説明が記されている。

「 中将姫は右大臣藤原豊成公(藤原鎌足の曾孫)の娘として奈良に生まれ、いろいろな迫害をのりこえ16歳のときに当麻寺に入り尼僧となられる。
姫の深い信仰と仏様の加護により天平宝宇7年(763)に蓮の糸で当麻曼荼羅を織りあげられ、29歳の春に25菩薩の来迎をうけ、極楽浄土に往生されました。
この姫の物語は謡曲、古浄瑠璃、歌舞伎などにも演じられ多くの人々に語られてきました。当麻曼荼羅は現在当麻寺の御本尊として祀られ「蓮糸曼荼羅」「観無量寿経浄土変相図」とも呼ばれ、西方極楽浄土の有様を現わされたものです。 」

中将姫がこの寺に入り剃髪したのは中之坊剃髪堂で、姫が織った当麻曼荼羅は宝蔵に秘蔵されており、室町時代に模写されたものが本堂(曼荼羅堂)に掛けられているという。中将姫が生身で極楽浄土に迎えられた伝承を再現する「当麻寺練供養」が毎年5月14日に行われるそうだが、私どもが訪ねたのはその前日で、極楽堂(本堂)から裟婆堂へ来迎橋をかける作業の最中であった。

中将媛立像 中将媛立像 当麻寺 (平1.5)

剃髪堂 中之坊剃髪堂 当麻寺 (平1.5)

当麻寺本堂 本堂(曼荼羅堂) 当麻寺 (平8.9)

来迎橋 来迎橋 当麻寺 (平1.5) 毎年5月1日にここで練供養が行われる

石光寺  奈良県当麻町  (平9・4記)

当麻寺から少し離れたところに石光寺があり、中将姫の「染の井」「糸掛桜」の旧跡となっている。
伝説によると、中将姫は生身の弥陀を拝みたいと毎日毎夜念じているうちに、ある時,霊感を得られ、蓮を集めてその茎から糸をより出し、それを石光寺のここの井戸で洗い浸されたところ、たちまち五色に染まった。その糸を井戸の傍らの桜の木(かって役の行者が仏教興隆を願って植えておかれた木)に掛けて干し、その蓮糸で姫は化尼(観音さまの化身)の助けをかりて一夜のうちに阿弥陀浄土図を織りあげたという。いわゆる当麻曼荼羅がそれである。
それゆえ、蓮糸を染めた石光寺のこの井戸を「染の井」、掛けて干された桜の木を「糸掛桜」、石光寺の又の名を染寺、あたりの村、二上山頂までを染野(しめ)と今日も呼んでいる、とのことである。

石光寺 石光寺 奈良県当麻町 (平8.9)

中将媛旧蹟の碑 中将媛 糸掛桜、染の井の旧蹟碑 石光寺 (平8.9)

染めの井 染めの井 石光寺 (平8.9) この中に井戸がある

中将媛染めの井 中将媛 糸掛桜 染めの井の碑 石光寺 (平8.9)


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