西行法師は晩年の文治五年、当寺の座主空寂上人の法徳を慕って来られ、ここに住んで「ねがはくは・・」の願いどおり文治六年二月十六日、桜のもと七十三歳で入寂された。境内には西行の座像をまつる西行堂や、西行の歌碑が三つもある。
西行の墓に向かって左側には2メートル以上もある大きな「仏には・・」の歌碑が立っている。
仏には桜の花をたてまつれ
わが後の世を人とぶらはば
佐々木信綱の筆になるとのこと。
次は「ねがはくは・・」の歌碑である。これは少し横に長い碑である。
ねがはくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎのもちづきのころ
書は西行研鑽に勤められた尾山篤二郎氏である。
もう一つは西行堂の左にある「年たけて・・」の歌碑である。
年たけて又越ゆべしとおもひきや
いのちなりけりさやの中山
弘川寺 大阪府河南町弘川 (平10.9)
西行堂 弘川寺 (平10.9)
西行「ねがはくは・・」碑 弘川寺 (平10.9)
西行「仏には・・」碑 弘川寺 (平10.9)
西行「年たけて・・」碑 弘川寺 (平10.9)
たまたま入手した岡田隆著「歌碑が語る西行」(三弥井書房)を読んでいたら、大阪府の富田林に西行の歌碑が19基もあるというので訪ねてみた。
近鉄富田林駅からバスに乗り川向停留所で降り、徒歩2,3分のところ、石川の河川敷に設けられた府営「石川河川公園」の中に「西行うたのみち」がある。
ここに19基の歌碑があるのだが、石碑は2基で、残りは陶板である。
2基の石碑には次の歌が刻まれている。
ねがはくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎのもちづきのころ
嘆けとて月やは物を思はする
かこち顔なるわが涙かな
陶板の歌は省略する。亜具
歌碑のほかに「西行絵巻」という陶板が配列されていて、西行の生涯が絵巻風に描かれ、簡単な説明や年表も添えられている。
近くには西行逝去の地、弘川寺があり、金剛、葛城の山並みも望める。思い切って訪ねてよかったと思っている。
西行「ねがはくは・・」の石碑 富田林市山中田町 西行うたのみち (平14.9)
西行「嘆けとて・・」の石碑 西行うたのみち (平14.9)
西行歌碑遠景 西行うたのみち (平14.9)
西行絵巻の一部 西行うたのみち (平14.9)
吉野の水分(みまくり)神社にある西行木像は数ある西行像の中でも最も老年の姿で、秀作とされる由。もとは吉野の西行庵にあったものとのこと。この吉野の西行庵も是非訪ねてみたいと願っていたが、吉野の奥千本、金峯神社のあたりから車の入れぬ急な坂道を20分ほど歩かなければならぬとのこと。時間の制約と体力を考え、私の年令ではあまり無理しないほうが賢明と断念してしまった。
水分神社 奈良県吉野町 (平13.7)
西行木像 水分神社 (平13.7)
高野山には大会堂の傍らに三昧堂があり、その前に西行桜があって、西行修行の跡と言われる。西行桜の立て札には西行法師が大食堂建立奉行として登山された折に植えた桜であると書かれている。
三昧堂 高野山 (平10.3)
西行桜 高野山 (平10.3)