鏡ケ池

謡蹟めぐり  桜川1 さくらがわ

ストーリー

九州日向国桜の馬場の桜子は、家の貧弱を救おうと東国方の人買に身を売り渡し、その代金と手紙を読んだ母親はあまりの悲しみに心乱れ、我が子の行方を訪ねて流浪の旅に出ます。
それから三年経ち、常陸の国桜川はちょうど桜の季節です。桜子は磯辺寺に入門しており今日は師僧に伴われて近くの花の名所桜川にやって来ます。里人は、桜川に流れる花を掬って狂う女がいるから、この稚児に見せれば良いと勧めます。呼び出された狂女は、日向から子を尋ねてここまで来たことや、桜子の名の由来など語り、辺りの美しい情景を謡いつつ盛りの桜に我が子への思いを託して舞を舞い、散る花を掬いあげ興に狂います。
僧は、これこそ稚児の母であると悟り、母子を引き合わせます。二人は嬉し涙にくれ、連立ってもとの故郷に帰って行きます。(「宝生の能」平成13年2月号より)

磯部稲村神社参詣 茨城県岩瀬村(現在桜川市)  (平5・10記)

関東甲信越大会水戸大会の観光旅行で約50名の方と桜川磯部稲村神社を参詣した時の記録である。
バスが神社に到着すると神社社務所より謡曲「桜川」のテープが流れ、われわれを迎える。宮司さんは威儀を整えて神社に案内してくれる。
社殿には「稲邑神社」「磯部神社」「桜川磯部稲村神社」と3種類の額が掲げられている。いただいたパンフレットには古来より「磯部宮」「磯部稲村宮」「桜川明神」「磯部大明神」「稲村神社」「桜川磯部稲村神社」の称号ありとしるされている。謡曲の磯部寺というのもこの神社の別名であり、神社内に寺跡があるとのことである。
一同社殿に上がり正座、宮司さんのおはらい(白色と金色の2種類)を受ける。教授嘱託会の名前の入った祝詞奏上のあと、玉串奉奠、一同礼拝のあとお神酒をいただきその盃を記念に頂戴し社務所に移る。
社務所では宮司さんの説明のあと、お土産に神社の絵馬、銘酒「桜川」、「桜川謡曲もなか」をいただく。謡曲もなかは注文で宅配便で送ってくれるとのこと、私もKDDの謡友の皆さんにと注文する。ご朱印もいただく。
境内には歌聖紀貫之公が桜川を詠んだ歌碑がある。
     いつよりも 春べになれば 桜川
          波の花こそ まなくよすらめ

磯部稲村神社 磯部稲村神社 茨城県岩瀬村 (平5.10)

紀貫之歌碑 紀貫之の歌碑 磯部稲村神社 (平5.10)

宮司さんは近くにある桜川の水源地「鏡ケ池」まで案内するとてバスに乗る。かなり山奥に入った静かな所である。案内板には花園天皇の頃、矢木和歌抄にのった歌として、鏡ケ池を詠んだ有名な歌を紹介している。
      みせみせぬ 鏡ケ池に おしどりは
         みつから顔を ならべてぞいる
また、すこし離れた所に「青柳の糸桜」があるというので、宮司さんはそこへも案内してくれた。バスガイドさんは目的地まで少し時間がかかるので、その間に「謡曲」なるものを是非聞かせてほしいという。やはりここでは「桜川」以外にないだろうということで、一同「桜川」のクセの部分を車内で合唱する。私も今回は大谷さんの仕舞の地を割り当てられ練習していたので、本を見ないで謡うことが出来た。
謡い終わるとガイドさんはえらく感激、地元にこのような名所があることを知り、またこのような立派な謡を聞かせていただくのは生涯の思い出になります、今度国道50号線を走りこの近くにくることがあったら、今日の感激を皆さんにお話ししますと言って喜んでくれた。

青柳の糸桜は熊野神社入口鳥居の右にあり、樹齢500年、枝を殆ど切られており、枯死寸前といった状況。これは二世の桜のようだが、三世の桜も植えられている。
「青柳糸桜記念植樹の碑」が建っていたのでその内容を紹介する。

「 和名抄に青柳の名見ゆ。青柳氏住むに及び邑をなす。永享十年(五三一年前)室町時代六代将軍足利義教の世関東管領足利持氏に中郡荘磯部邑神主祐行花見物語献上持氏世阿弥元清に謡曲桜川を作らしむ。その中に「なほ青柳の糸桜」あり。磯部稲邑神社享保年中の縁起書桜川八景十二品中に青柳の糸桜あり。此地鹿島街道筋桜川の辺中郡の要塞たり。桜樹齢五○○年を超ゆるもの稀なり。糸桜(枝垂桜)は彼岸桜の変種なり。
        菊畦聯歌   金英君(牧野公)
      見渡せば 青柳むらや 桜川
           田舎も春の 錦なりけり
熊野神社伊弉冊尊、事坂男尊、速玉男尊を祭祀す。稲荷神社、疱瘡神社、日本武尊神社、八坂神社を末社となす。永正年中青柳氏紀州熊野神社の分霊を迎へたと伝へらる。諸神能之桜樹竝碑を守護するを祈る。
二世の桜樹枯死するを痛み郷の人達胥謀りて明治維新百年を記念し三世の若木を磯部より移植する。子孫克く遺志を継ぎ愛護維持に努められんことを。
     昭和四十四年四月
           磯部稲村神社宮司    磯部 祐親
           青柳和泉守後裔四十三世 天賀谷政男
           青柳区長        青木  茂  代建立   」

鏡ケ池 鏡ケ池 茨城県岩瀬村 (平5.10) 桜川はこの池を水源として、磯部稲村神社、筑波山麓を経て霞ヶ浦へ入る

糸桜 青柳の糸桜 茨城県岩瀬村 (平5.10)

糸桜記念樹碑 青柳の糸桜記念植樹の碑 茨城県岩瀬村 (平5.10)

また、神社からいただいた資料には「謡曲桜川」と題して、私たちの習ったものと少し違った物語が記されており、この謡曲作成の端緒になったものとも思われ興味をひかれたので、若干読みにくいかも知れないが参考までに掲げてみる。

「 永亭十年(一四三八)神主祐行関東管領足利持氏氏に花見噺「桜児物語」一巻を献じ、時の将軍足利義教世阿弥元清に謡曲を作らしむ。
桜児は平良文の四男四郎将平の子なり(将平は平将門の弟)、父将平九州肥後筑紫の国司にて二万八千余町を領す。晩年に及ぶも子なし。御台と共に氏神木花開耶姫命に祈り一子を授けられる。将平に異母弟将俊あり、桜児七才の折父将平を失う。将俊所領の押領を計り、母子をなきものにせんとす。忠臣木王丸、母、櫻児、乳母三人を芦屋の浦に隠棲す。母苦悩を訴ふ。偶々出羽の人商人その地を訪ふ。櫻児身を売り関東に下る。人商人鹿島社に詣んとし礒部社に至る。礒部寺の住僧専徳法師櫻児を認め、黄金十両錦百疋にて買求め養育十九才に及ぶ。その頃常陸、相馬の国司平真家も子なく、社参の折櫻子を知り、法師に乞い嗣子となす。母櫻児を慕ひ狂人となる。菊地、亀川、小嶺の三忠臣、行方を尋ね関東に下り、遂に櫻児を探しあて目出度母子対面を得たり。深く御神徳を敬す。櫻児将家と称し叔父将俊を討ち、筑紫常陸の両国の国司を命ぜらる。
礒部寺とは神宮寺の別名であり神社境内に寺跡あり。貫之像を始め奈良期の木像今に存す。母は此の地に於て仏門に入り薨ず。神全寺(神精寺)に葬らる。姥ケ塚これなり。 」

都萬(つま)神社 宮崎県西都市妻   (平8・2記)

宮崎県西都市に、曲中に出てくる木花開耶姫を祀る都萬神社があり、その前にある小川が桜川と呼ばれ、また、境内には桜子の池もある。
この都萬神社は木花開耶姫の住居址ともいわれるが、木花開耶姫は天孫瓊々杵命の妃になった姫であり、このあたり二人に関する古蹟が多いので後に一括紹介することとしたい。

都萬神社 都萬(つま)神社 宮境県西都市妻 (平7.11)

桜川 桜川  都萬神社 (平7.11)

桜子の池 桜子の池 都萬神社 (平7.11)

木花神社 宮崎市木花 (平8・2記)

宮崎市の南部木花に木花神社があり、ここの御祭神も木花開耶姫である。境内には木花開耶姫が三皇子を出産された時産湯に使われたと伝えられる霊泉桜川がある。
謡曲「桜川」の貧しい親子はこの泉のほとりに住んでいたといい、その母親は人買いに連れ去られた我が子を探し求めて、常陸の国桜川で今は僧になった我が子とめぐりあい、母子ともにこの地に帰り幸福に暮らしたという。

木花神社 木花神社 宮崎市木花 (平7.11)

霊泉桜川 霊泉桜川 木花神社 (平7.11)


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